富士の巻狩り
富士の巻狩り(ふじのまきがり)とは、建久4年(1193年)5月から6月にかけて、源頼朝が多くの御家人を集め駿河国富士山麓の藍沢(現在の静岡県御殿場市・裾野市一帯)・富士野(静岡県富士宮市)にて行った壮大な巻狩のことである。
概要
編集富士の巻狩りは『吾妻鑑』建久4年(1193年)5月8日条に「富士野藍澤の夏狩を覧んがために駿河国に赴かしめたまふ」とあり、また同年6月7日条に「駿河国より鎌倉に還向したまふ」とあるため、5月8日から6月7日の約1ヶ月という非常に長期に渡り行われた[1]。北条時政は頼朝の命令によりこの巻狩の準備のため同年5月2日に駿河国に下向しており[2][3]、先に出立していた。時政は駿河の御家人を指揮し、狩野宗茂と共に屋形の設営などを行った[4]。
特に富士野に居た期間は長く、5月15日条に「藍沢の御狩事終りて富士野の御旅館に入御す」と吾妻鏡にあるように、5月15日から6月7日までは同地に居た。この間の5月28日に曾我兄弟の仇討ちが発生している。
巻狩の目的としては、征夷大将軍たる権威を誇示するためや軍事演習などの目的があったとされる。また巻狩りが行われた藍沢と神野の地は駿河国と甲斐国の国境付近に位置し、また甲斐国から東海道へ到るための主要な通過地点である。このように甲斐源氏が東海道に到る際に使用される交通路を掌握する意図があったという指摘もなされている[5][6]。
『信長公記』巻十五に「昔、頼朝かりくらの屋形立てられしかみ井手の丸山あり」と記され、織田信長一行が駿河国上井出(現在の静岡県富士宮市上井出)を通過した際、源頼朝が巻狩り時に屋形を建てた「上井出の丸山」があったと記している。
参加者
編集すべて『吾妻鏡』による[注釈 1]。
*は曾我兄弟の仇討ちによる兄弟以外の死者・受傷者。このうち工藤祐経と王藤内を除く人物が「十番切」に該当。
- 源頼朝
- 源頼家
- 北条時政
- 北条義時
- 足利義兼
- 山名義範
- 小山朝政
- 長沼宗政
- 里見義成
- 佐貫広綱
- 畠山重忠
- 三浦義澄
- 三浦義村
- 佐原義連
- 千葉成胤
- 稲毛重成
- 和田義盛
- 工藤祐経*
- 工藤景光
- 工藤行光
- 土屋義清
- 梶原景時
- 梶原景季
- 梶原景高
- 梶原景茂
- 梶原朝景
- 梶原景定
- 糟屋有季
- 土岐光衡
- 宍戸家政
- 波多野義景
- 愛甲季隆*
- 海野幸氏*
- 藤沢清親
- 望月重隆
- 小野寺道綱
- 市河行房
- 禰津宗直
- 佐々木盛綱
- 佐々木義清
- 渋谷重国
- 小笠原長清
- 武田信光
- 狩野宗茂
- 大友能直
- 御所五郎丸
- 曾我祐信
- 曾我祐成
- 曾我時致
- 平子有長*
- 吉川友兼*
- 仁田忠常
- 毛呂季光
- 加藤光員*
- 宇都宮頼綱
- 結城朝光
- 王藤内*
- 下河辺行平
- 榛谷重朝
- 土屋義清
- 岡部好澄
- 河村義秀
- 沼田太郎
- 中野助光
- 岡辺弥三郎*
- 岡部清益*
- 堀藤太*
- 臼杵八郎*
- 宇田五郎*
- 大見小平次
- 新開実重
- 伊東祐時[注釈 2]
規模
編集大勢の御家人・勢子が参加し[8]、その様子は「射手たる輩の群参、あげて計ふべからずと云々」と『吾妻鏡』にある[注釈 3]。仇討ち発生後、その知らせを聞き馳せ参じた者も多くおり[9]、富士野に多くの御家人・有力者がひしめき合う状況であった。
人数に関しては史料により差異が激しく、『曽我物語』によると十行古活字本(仮名本)は「300万騎」[10][11]、南葵文庫本(仮名本)は「12万」[12]、万法寺本(仮名本)は「12万騎」[13]、彰考館本(仮名本)は「3万騎」とある[14]。
またジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』には「3万人」と記され[15]、小林中務少輔が記したと伝わる書はおよそ70万人であったとする[16][17][18]。いずれも数万単位以上の人数が記される。
出来事
編集源頼家の初鹿狩りと北条政子の反応
編集『吾妻鏡』によると、以下のようにある。5月16日に頼朝の嫡男頼家が初めて鹿を射止めた。このとき頼家を支えた愛甲季隆は頼朝より称賛されている。その日の晩、山神・矢口祭が執り行われた。北条義時が三色の餅を献上し、狩野宗茂は勢子餅を進めた。そして工藤景光・愛甲季隆・曽我祐信が頼朝に召し出される。梶原景季・工藤祐経・海野幸氏が矢口餅の陪膳を行い、頼朝に召し出された三者が矢口餅を山神に供える儀式を行った後に食す。矢口餅の儀式を終えた三者は馬・直垂などを賜り、また頼家に返礼品を献上した。
頼家の初鹿狩りをことのほか喜んだ頼朝は梶原景高を遣わし北条政子に知らせた。一方政子は「武士の嫡嗣であり当たり前で珍しいことでもなく、使を出すことでもない」と感心する様子は無かった。景高は鎌倉から富士野に帰参し、22日にこれを伝えた。
初鹿狩りは将軍後継者たる頼家を周囲の御家人に認めさせる契機であり意義があるものとされるが、政子はその意義を理解できなかったとする諸家による指摘がある[22][23]。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある[24]。また矢口餅を賜った三人のうち、一口目を食した工藤景光は同28日に発病し、三口目を食した曽我祐信は頼朝によりその所作を残念がられる場面がある。その他初猟りに対する北条政子の言動等、頼家の門出は不吉な影を伴うものであったとするものもある[25][26]。
この矢口祭・北条政子とのやり取りは、『曽我物語』には無い『吾妻鏡』独自の記事である[27]。
工藤景光の怪異・新田四郎の猪退治
編集『吾妻鏡』によると、以下のようにある。5月27日の狩りの最中、頼朝の前に突然大鹿一頭が走ってきた。頼朝の左方に居た工藤景光は射手を願い出て3本矢を放ったが、どれも当たらなかった。この出来事に景光は「自分は11歳のころから狩猟を生業として既に70余年になるが、未だかつて獲物を仕留められなかったことはない。これはあの大鹿が山神のお乗りになる鹿に違いないからである。自分の命運も縮まった。後日皆で思い合わせてほしい」と言い、実際その日の晩に発病した。
この怪異に頼朝は狩りの中止を提言するが、宿老たちがその必要はないと進言したため継続された。『曽我物語』にはこれに相当する話として「新田四郎忠常の猪退治」があるが[28][29]、『吾妻鏡』と異なり工藤景光は出てこないという大きな違いがある[30]。
『曽我物語』の「新田四郎忠常の猪退治」の場合、手負いの大猪が突然頼朝に向かって突進し、そばに控えていた仁田忠常がとっさに大猪に飛び乗り刀を5・6度突き刺し、これを退治したという構成となっている[31][32]。
曽我兄弟の仇討ち
編集5月28日には曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討つ曾我兄弟の仇討ちが起こった[33]。
影響
編集この出来事は後世に大きな影響を与え、富士の巻狩りと夜討ちを合わせて描いた屏風図が多く制作された[34]。歌の題材にもなり、『田植草紙』には「おもしろいは富士の巻狩な…(26番)」とあり三重県の「かんこ踊り」にも富士の巻狩りが題材である歌詞が見られる[35]。また全国各地の祭事にも確認され、四日市祭の「富士の巻狩り」(四日市市指定無形民俗文化財)[注釈 4]、江戸時代の山王祭・神田祭にも富士の巻狩りが登場する[注釈 5]。
自身も富士の巻狩りに参加している源頼家は、鎌倉幕府第2代将軍となった後の建仁3年(1203年)6月に富士の狩倉に出向いており、これを踏襲した様子が見られる[注釈 6][37]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『吾妻鏡』には御家人の列挙がある。また『曽我物語』の場合、仮名本では確認されるが真名本では確認されない[7]。
- ^ 「犬房丸」。『吾妻鑑』建久4年(1193年)5月29日条
- ^ 『吾妻鑑』建久4年(1193年)5月2日条
- ^ 三重県四日市市の諏訪神社祭礼である四日市祭に奉納される風流のひとつ。安永年間(1772年 - 1781年)の記録にも見え、江戸時代の画家・司馬江漢の日記の天明8年(1788年)に「富士の巻き狩りの邌物を見物す」と記されている。暴れまわる全長4mを超えるハリボテの大猪を、煌びやかな衣装をつけた子ども武者(馬上の源頼朝、北条時政、曽我五郎ら)が射止める[36]。文化勲章受章作家丹羽文雄の作品「菩提樹」に、この邌物の様子がいきいきと描かれている。
- ^ 文化13年(1816年)の序がある、武陽隠士という人物が記した「世事見聞録」という随筆の「五ノ巻 諸町人の事」という一節に、富士の巻狩りが登場する。当時の裕福な町人の子どもは、武士の子に比べ贅沢に育てられているとした上で、次の文章が記されている。「右の子供等が、山王・神田その外の祭礼に出づる時は、古今目を驚かしたる風情なり。先づその男女(子供)を神功皇后・八幡太郎・頼光・義経朝臣などの大将に仕立て、あるいは富士の巻狩りなどの催し、唐織・金襴・縮緬・緞子・紗綾など、十重も二十重も著し、それに付属する族も幾人となく美少人を揃え置き、みな羅紗・猩々緋・天鷲絨・ゴロフクリンなど、供の奴までも装い、父母をはじめ大勢の下人ども付き添いて、それぞれ美服を装い、腰の物・下げ物・髪の物など善美を尽くし、とにもかくにもこの上のなき程に取り飾り、また女芸者・踊子など売女をそろえて雇い上げ、三味線・鼓弓・笛・太鼓そのほか音曲の囃子方を雇い、髪の物を揃え、綾羅を揃えて飾りなすなり。右の入用金五百両の上、千両などにも至るというなり。武士の二千石、四千石の一ヶ年に入る所務を、一人の子供、一日の祭礼に費やすなり。」
- ^ 『吾妻鏡』には「将軍家駿河国富士の狩倉に渡御す。かの山麓にまた大谷あり。これを人穴と号す」とある。またこの人穴を新田忠常が探索する記事が続く。
出典
編集- ^ 木村(2011) pp.155-156
- ^ 木村(2011) p.155
- ^ 坂井(2014) p.120
- ^ 坂井(2000) p.143
- ^ 木村茂光「頼朝政権と甲斐源氏」19頁、『武田氏研究』第58号、2018年
- ^ 海老沼真治、「甲斐源氏の軍事行動と交通路」、『甲斐源氏 : 武士団のネットワークと由緒』、2015年
- ^ 東洋文庫(1988) p.322
- ^ 坂井(2014) p.55
- ^ 坂井(2014) p.156
- ^ 『裾野市史』第2巻資料編古代・中世、98頁、1995年
- ^ 大妻女子大学国文学会(編)、『曽我物語 下、376頁、2015年
- ^ 鈴木進、『南葵文庫本曽我物語と研究 下』44頁、未刊国文資料刊行会、1975年
- ^ 清水泰、『曽我物語(万法寺本)下』31頁、古典文庫、1960年
- ^ 村上学・徳江元正・福田晃編、『彰考館蔵曾我物語 中』(伝承文学資料集第6輯)83頁、三弥井書店、1973年
- ^ 江馬務、佐野泰彦、土井忠生、浜口乃二雄:訳『日本教会史』岩波書店、1967年、227頁。ISBN 4000085093。
- ^ 今野信雄『鎌倉武士物語』河出書房新社、1991年、72頁。ISBN 9784309221984。
- ^ 日本博学倶楽部『源平合戦・あの人の「その後」』PHP研究所、2004年、17頁。ISBN 9784569662633。
- ^ 遠藤秀男「富士の巻狩り」、『あしなか』88輯、1964年
- ^ 陣馬の滝(富士宮市HP)
- ^ 音止の滝(富士宮市HP)
- ^ 曽我兄弟の隠れ岩(富士宮市HP)
- ^ 石井進「曾我物語の世界」66-67頁『中世武士団』
- ^ 坂井(2014) pp.121-122
- ^ 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書、2020年)
- ^ 小林直樹、「『吾妻鏡』における頼家狩猟伝承-北条泰時との対比の視点から-」『国語国文』第80巻第1号(通号917号) 、2011年
- ^ 佐伯智広、「『吾妻鏡』空白の三年間」『立命館文学』第677号、2022年
- ^ 坂井(2014) p.56・63・87
- ^ 東洋文庫(1988) p.323
- ^ 坂井(2014) p.89・122
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- ^ 『真名本曽我物語』巻八(妙本寺本)
- ^ 會田実「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」98-101頁、『公家と武家 Ⅳ 官僚制と封建制の比較文明史的考察』、2008
- ^ 『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月28日条、29日条など
- ^ 井戸(2017) pp.202-204
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- ^ 四日市市役所小田原市デジタルアーカイブ
- ^ 裾野市、「源頼朝の挙兵と富士の巻狩」112-113頁、『裾野市史』第8巻通史編I、2000年
参考文献
編集- 木村茂光『初期鎌倉政権の政治史』同成社〈中世史選書 11〉、2011年。ISBN 978-4-8862-1579-6。
- 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。ISBN 978-4-6420-2921-6。
- 木村茂光『頼朝と街道 鎌倉政権の東国支配』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 435〉、2016年。ISBN 978-4-642-05835-3。
- 笹川祥生ほか『真名本曽我物語2』平凡社〈東洋文庫 485〉、1988年。ISBN 978-4-582-80486-7。
- 井戸美里『戦国期風俗図の文化史 吉川・毛利氏と「月次風俗図屏風」』吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-64201-658-2。
- 坂井孝一『曾我物語の史実と虚構』吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2000年。ISBN 4-642-05507-X。