榛谷 重朝(はんがや しげとも)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将鎌倉幕府御家人。弓の達人として知られた。

 
榛谷重朝
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 元久2年6月23日1205年7月11日
別名 稲毛四郎、榛谷四郎
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 桓武平氏良文秩父氏小山田氏榛谷氏
父母 父:小山田有重
兄弟 稲毛重成重朝田奈有朝
小山田重親森行重
近藤秋資の娘
重季秀重
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桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で、父は小山田氏の祖・小山田有重。兄に稲毛重成がいる。伊勢神宮荘園御厨)・榛谷御厨の支配を任され、榛谷四郎と称した。本拠地は二俣川

生涯

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治承4年(1180年)10月、秩父一族は挙兵した源頼朝に帰伏して御家人となる。養和元年(1181年)4月、重朝は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)[1]。弓馬に優れた重朝は頼朝に従って犬追物牛追者・小笠懸などを行い、正月的始(弓始め)の射手を度々務める。元暦元年(1184年)2月、源範頼率いる源義仲平氏追討軍に従い、一ノ谷の戦いに参加。文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍し、毎日頼朝の乗馬を洗ったという。

頼朝没後の正治元年(1199年)10月、梶原景時の変に加わり、建仁1203年)9月の比企能員の変で比企一族討伐軍に参加。

元久2年(1205年6月23日畠山重忠の乱において、従兄弟の重忠謀殺に荷担したとして咎めを受け、鎌倉経師谷で子の重季秀重と共に三浦義村に討たれて榛谷氏は滅亡する。

脚注

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  1. ^ 他の10名は、北条義時下河辺行平結城朝光和田義茂梶原景季宇佐美実政葛西清重三浦義連千葉胤正八田知重。主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を結城朝光と三浦義連、御後を梶原景季と八田知重が警護している。

関連項目

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関連資料

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神奈川県立公文書館紀要 第7号 榛谷重朝の基礎的研究―『吾妻鏡』を中心に―