大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日[1])は、福岡県出身のプロ野球選手内野手)。

大岡 虎雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県
生年月日 (1912-03-28) 1912年3月28日
没年月日 (1975-08-23) 1975年8月23日(63歳没)
身長
体重
177 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1949年
初出場 1949年
最終出場 1951年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる[1]1931年日米野球全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、ラリー・フレンチ投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが[2]、大岡自身先発登板し、アル・シモンズミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。

1935年東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志湯浅禎夫野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。

都市対抗野球大会には11回出場し、通算5本塁打を放つ。この記録は大会記録として、1976年高梨英夫大昭和製紙北海道)に更新されるまで、38年間破られなかった[3]

1949年大映スターズに助監督兼選手として入団[1]。普通の選手なら引退を考えるような年齢である37歳での入団ではあったが、5月7日の阪神タイガース戦では3打席連続本塁打を放っている[4]など、1.2キロのバットで26本の本塁打を放ち111打点を稼いだ[1]。同年に記録した111打点は、新人選手の打点記録としては1位であり、新人選手が3桁の打点を記録したのも大岡のみである。

1950年松竹ロビンスに助監督兼選手として移籍。岩本義行小鶴誠とのクリーンナップトリオで水爆打線と呼ばれた強力打線を形成し、34本の本塁打・109打点[5]の好成績でチームのセ・リーグの初代チャンピオンに貢献した[1]

また腕っぷしも相当のものであったらしく、当時は松竹でもチームメイトであった岩本義行が、"岩本のあんちゃんはケンカが強い"と言われていたが、鈴木龍二は「岩本君より大岡君の方が強い」、大和球士は「大岡が一番じゃないかな、プロ野球三十年史上では」と話している。

1951年途中退団[1]。1975年8月23日死去[1]享年63。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1949 大映 121 519 470 68 128 26 1 26 234 111 3 2 0 -- 47 -- 2 84 -- .272 .341 .498 .839
1950 松竹 135 607 552 86 155 18 1 34 277 109 6 3 0 -- 53 -- 2 78 19 .281 .346 .502 .848
1951 19 75 66 6 16 5 0 1 24 10 0 1 0 -- 9 -- 0 14 1 .242 .333 .364 .697
通算:3年 275 1201 1088 160 299 49 2 61 535 230 9 6 0 -- 109 -- 4 176 20 .275 .343 .492 .835
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

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  • 4 (1949年)
  • 11 (1950年 - 1951年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、97ページ
  2. ^ 「日米野球80年史 1934ー2014」ベースボール・マガジン社
  3. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟毎日新聞社
  4. ^ みやぎ野球史)狭くて本塁打続出、評定河原 - 朝日新聞
  5. ^ 所沢の山賊超え!? 水爆にダイナマイト! 西武打線とプロ野球の歴代最強打線を比較してみた・前編(週刊野球太郎)”. goo ニュース (2018年5月31日). 2019年12月21日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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