大塚和
大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 1990年9月26日)は、日本の映画プロデューサー、映画プロダクション社長。1955年に日活とプロデューサー契約を結び、今村昌平、浦山桐郎、藤田敏八、神代辰巳、長谷川和彦ら13名もの新人監督を世に送り出したことで知られる[1]。
おおつか かのう 大塚 和 | |||||||||||
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『映画評論』1965年7月号より。 | |||||||||||
生年月日 | 1915年7月18日 | ||||||||||
没年月日 | 1990年9月26日(75歳没) | ||||||||||
出生地 | 高知県長岡郡田村(現・南国市田村) | ||||||||||
職業 | 映画プロデューサー、映画プロダクション経営者 | ||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||
活動期間 | 1937年 - 1986年 | ||||||||||
著名な家族 |
和田俊(娘婿) ダースレイダー(孫) | ||||||||||
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来歴
編集高知県長岡郡田村(現・南国市田村)に生まれる。父親は開業医で、9人姉弟の末っ子[1]。
1937年、東京外国語学校ロシア語科(現・東京外国語大学)卒業[2]。映画世界社に入社。1943年、同社が戦時雑誌統合令によって解散したため、都新聞社(現・東京新聞社)文化部に転職した[1]。
1946年、再開した映画世界社に復職。『映画ファン』の編集長になる。1949年、同社を退社。雑誌『映画手帖』『淑女』などの創刊に携わる[1]。
1951年、宇野重吉に誘われて劇団民藝に参加。同年、民藝の第1回映画作品となる『三太と花荻先生』を製作。以後民藝映画として、『母のない子と子のない母と』『夜明け前』『あやに愛しき』などの製作を手掛けた。
1955年、日活とプロデューサー契約を結ぶ。1957年、劇団民藝の映画部が民藝映画社として独立し、同社の社長に就任[2]。
1958年5月、今村昌平の監督第1作『盗まれた欲情』が公開。同作品のプロデューサーを務め、今村の映画には以後「企画」名義で『果しなき欲望』(1958年)、『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)を製作。1958年以降は企画という立場で、中平康の『その壁を砕け』『泥だらけの純情』、浦山桐郎の『キューポラのある街』『非行少女』『私が棄てた女』、熊井啓の『日本列島』、鈴木清順の『けんかえれじい』、蔵原惟繕の『執炎』『愛と死の記録』『愛の渇き』、若杉光夫の『ガラスの中の少女』『サムライの子』、滝沢英輔の『しろばんば』『出撃』、藤田敏八の『非行少年 陽の出の叫び』『八月の濡れた砂』、神代辰巳の『かぶりつき人生』などの製作を手掛けた。
『映画評論』1965年7月号は「日本映画の影の推進者―大塚和とその作品」と題する巻頭記事を掲載した。執筆者の虫明亜呂無は次のように書き記した[3]。
1969年、蔵原惟繕、浦山桐郎、熊井啓、藤田敏八、吉田憲二、神代辰巳、河辺和夫ら7人の監督と「えるふプロダクション」を設立[1]。1970年、ATGと提携して『地の群れ』を製作した。
1973年、山本薩夫の『戦争と人間』三部作を最後に日活との契約を解消。同時に民藝映画社も退社した。
1975年、綜映社を三浦波夫らと設立。黒木和雄の『祭りの準備』(制作:綜映社・ATG・映画同人社)のプロデューサーを務めた。
1976年、長谷川和彦の『青春の殺人者』(制作:今村プロ・綜映社・ATG)のプロデューサーを今村昌平とともに務めた。
1986年、熊井啓の『海と毒薬』を製作。藤本賞特別賞を受賞した。
1990年9月26日、脳血栓で死去。75歳没。1992年9月、大塚公子が編纂した『大塚和 映画と人生』が出版される。えーけーあい企画出版。ジャーナリストの和田俊は娘婿、ラッパーのダースレイダーは孫[4]。
脚注
編集参考文献
編集- 大塚公子 編『大塚和 映画と人生』えいけいあい企画、1992年9月。
外部リンク
編集- 大塚和 - KINENOTE
- 大塚和 - allcinema
- 大塚和 - MOVIE WALKER PRESS
- Kano Ôtsuka - IMDb