唐 紹儀(とう しょうぎ)は、中華民国政治家実業家清末民初において、革命派を支持した政治家として知られる。少川。娘婿に岑徳広がいる。

唐 紹儀
プロフィール
出生: 1860年咸豊10年)[1]
死去: 1938年民国27年)9月30日
中華民国 上海市
出身地: 清の旗 広東省広州府香山県唐家湾
(現:中山市
職業: 政治家実業家
各種表記
繁体字 唐 紹儀
簡体字 唐 绍仪
拼音 Táng Shàoyí
ラテン字 T'ang Shao-i (Tong Shao-yi)
注音二式 Táng Shàuyí
和名表記: とう しょうぎ
発音転記: タン シャオイー
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事績

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清末の活動

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上海の茶商人の家庭に生まれる。1874年同治12年)、アメリカ留学児童として派遣され、コロンビア大学文科で学んだ。1881年光緒7年)に帰国し、天津水師附設洋務学堂で学ぶ。

1885年(光緒11年)、天津税務衙門で任用された。後に、袁世凱に随従して朝鮮に赴任し、やはり税務を担当している。このとき、袁から高く評価され、1894年(光緒20年)に袁が内地に召還された際には、唐が袁の事務を代理した。

1895年(光緒21年)に唐紹儀は帰国した。まもなく袁世凱の天津で練兵を開始すると、唐は徐世昌とともにその事務を担当している。李鴻章の死後に袁が直隷総督兼北洋大臣に任命されると、唐は袁の推薦により津海関道に任ぜられた。

1904年(光緒30年)、イギリスがチベットに介入を開始したため、唐はチベットとの交渉に関する全権大臣に任命されている。交渉は2年にも及び、最終的にイギリスで条約が調印された。1907年光緒33年)、奉天巡撫に任命されている。翌年には、北京議定書をめぐる交渉のために、アメリカへ派遣された。1910年(宣統2年)、郵電部尚書に任命されている。

孫文への接近

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南北和平交渉(左が唐紹儀、右が伍廷芳。中央は仲介役のイギリス商人E.S.リトル)
 
南北和平交渉(1919年・左側手前から5人目が唐)

1911年(宣統3年)、辛亥革命の際の「南北和議」では、唐紹儀は清朝側の代表をつとめた。唐は、南方代表の伍廷芳との間で積極的に交渉を進め、各省で停戦協定を次々と成立させている。しかし、この交渉の過程で、唐は共和制への転換の必要性を悟るようになる。そのため袁世凱の不興を買い、1912年民国元年)1月2日には、唐は代表辞任を余儀なくされてしまった。

同年3月、唐紹儀は初代中華民国国務総理に任命された。さらに孫文とも親交を結び、唐自ら中国同盟会に加入している。しかし臨時大総統・袁世凱は唐に不満を抱き、その組閣に激しい干渉を繰り広げる。ついに6月、耐えかねた唐は、辞任に追い込まれてしまった。

その後の唐紹儀はいったん下野し、上海で金星人寿保険有限公司を設立して、その理事長となった。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を目論むと、唐はこれに反対し、実際に即位すると、退位を促す電報を打っている。翌年6月、段祺瑞内閣で外交総長に擁立されたが、唐は就任を拒否した。

1917年護法運動が開始されると、唐紹儀は、孫文側の中華民国軍政府に参加し、軍政府の財政部長に指名された。翌年5月に、軍政府が大総統制から7総裁制の集団指導制に移行すると、唐も総裁の1人に任ぜられた。1919年(民国8年)、南北和平交渉が開始されると、唐は南方政府側総代表としてこれに臨む。しかし、交渉は情勢の変化等もあって失敗に終わった。

唐紹儀は、軍政府内で新たに専横を開始した主席総裁・岑春煊と、これを擁立する桂系(旧広西派)に反発するようになる。1920年(民国9年)6月、唐は上海の孫文の下に向かい、反岑の活動を開始した。孫文らによる岑の駆逐は、同年10月に成功している。しかし、まもなく唐は孫との間で政治路線をめぐり隔意を抱くようになり、下野して故郷に隠棲してしまった。以後、南北双方の政府から、再出馬を求められたが、唐はいずれも拒否している。

西南派としての活動、非業の死

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晩年期の唐紹儀
Who's Who in China 4th ed. (1931)

国民政府成立後の1929年(民国17年)、唐紹儀は中山県訓政委員会主席となる。1931年(民国20年)5月、汪兆銘孫科らの反蔣介石運動に加わり、汪らによる広州国民政府で常務委員に任ぜられた。

翌年1月、西南政務委員会が成立すると、唐は常務委員に任ぜられる。さらに同年3月には中山県長となった。しかし次第に広東の実力者である陳済棠と対立するようになる。1934年(民国23年)10月、陳から武力で脅迫された唐は各職を辞任し、上海に寓居した。

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、唐紹儀は後方に移らず、上海にとどまった。また、親交のあった温宗尭から親日政権参加を勧められたが、唐はこれを拒否している[2]

翌年9月28日に、娘婿の岑徳広土肥原賢二を伴って唐紹儀を訪問した。このとき、岑と土肥原は唐に親日政府参加を求めたと見られる[3]。しかし9月30日、日本に利用されることを恐れた軍統により、唐は自宅で暗殺された。享年79。

  1. ^ 鄭則民「唐紹儀」、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』、Who's Who in Chinaによる。劉紹唐主編『民国人物小伝 第1冊』は1859年とする。
  2. ^ かつては鄭則民「唐紹儀」のように、唐紹儀は親日政府参加も選択肢に入れて優柔不断な対応をしていた、という見方が通説であった。しかし近年では、各種史料・証言により、唐は親日政府参加にさほど積極的ではなかったとの見解の方が通説となりつつある。このような見方の例として、邵桂花「温宗尭」がある。
  3. ^ 南方都市報「外交篇·唐紹儀 十年一覚共和夢,贏得生前身後名」広州図書館ホームページ

参考文献

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  • 鄭則民「唐紹儀」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第1巻』中華書局、1978年。 
  • 邵桂花「温宗尭」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 南方都市報「外交篇·唐紹儀 十年一覚共和夢,贏得生前身後名」広州図書館ホームページ
  • 劉紹唐主編『民国人物小伝 第1冊』伝記文学出版社、1975年。 
 
先代
-
奉天巡撫
1907年 - 1909年
次代
程徳全
先代
徐世昌
郵伝部尚書
1910年
次代
盛宣懐
  中華民国
先代
(創設)
国務総理
1912年3月 - 6月
次代
陸徴祥
先代
(創設)
交通総長
1912年3月 - 4月
次代
施肇基
先代
曹汝霖
外交総長(就任せず)
1916年6月 - 9月
(陳錦濤が代理)
次代
陳錦濤
先代
顔恵慶
臨時国務総理(就任せず)
1922年8月 - 9月
次代
王寵恵
先代
王正廷
外交総長(就任せず)
1924年11月 - 1925年2月
(沈瑞麟が代理)
次代
沈瑞麟
広東軍政府
先代
(創設)
財政部長
1917年9月 - 1920年6月
次代
伍廷芳
  中華民国
先代
(創設)
広東国民政府常務委員
1931年5月 - 1932年
(集団指導制:汪兆銘古応芬
鄧沢如孫科
次代
(廃止)