古応芬
古 応芬(こ おうふん)は、清末民初の政治家・革命家。清末は革命派、民国時代は、中国国民党・国民政府に属した。国民党内では、国民党右派の立場であった。字は勷勤、湘芹。
古 応芬 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: | 1873年(同治12年) |
死去: |
1931年(民国20年)10月28日 中華民国 広東省広州市 |
出身地: |
清 広東省広州府番禺県 (現:広州市番禺区) |
職業: | 政治家・革命家 |
各種表記 | |
繁体字: | 古應芬 |
簡体字: | 古应芬 |
拼音: | Gǔ Yīngfēn |
ラテン字: | Ku Ying-fen |
注音二式: | Gǔ Yīngfēn |
和名表記: | こ おうふん |
発音転記: | グー インフェン |
事績
編集革命派としての活動
編集富裕な家庭に生まれ、1902年(光緒28年)、秀才となる。1904年(光緒30年)、両広総督岑春煊から派遣される形で、胡漢民、汪兆銘らとともに日本へ留学する。翌1905年秋、胡・汪らとともに中国同盟会に加入した。1906年(光緒32年・明治39年)6月、法政大学法政速成科第二班を卒業した[1]。なお、同期には胡・汪の他に李文範や張一鵬、孫潤宇らがいる。その後更に、同大学専門部で学んだ。1907年(光緒33年)、学業を完了して帰国すると、広東法政学堂で教鞭をとる。さらに広東咨議局秘書などをつとめる一方で、密かに革命派の活動を展開した。
1911年(宣統3年)、古応芬は香港に向かい、黄興、胡漢民らとともに広州起義を画策した。辛亥革命後に広東都督府が成立し、胡が都督となると、古は都督府秘書長に就任する。以後、核計院院長、瓊崖綏靖署総弁などの職を歴任した。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)で袁世凱打倒のために革命派に参加する。敗北後は1917年(民国6年)まで、南洋で資金調達に励んだ。
孫文を支持
編集1918年(民国7年)から、粤軍(広東軍)の陳炯明の軍事行動に随従する。1920年(民国9年)、広東省政務庁長に就任した。1922年(民国11年)3月、粤軍第1師師長鄧鏗が暗殺されると、古応芬は第1師参謀長李済深を後任の師長に推薦し、実際に李が後任となった。また、鄧が尽力していた孫文と陳との調停を古が引き継いだが、これは成らず、遂に古は辞職に追い込まれた。
同年6月、陳炯明が孫文に叛逆すると、以後の古応芬は孫文のために活動を開始し、陳に対する反撃・駆逐を目指す。1923年(民国12年)には、大本営江門弁事処主任、大本営法制局局長、陸海軍大元帥府大本営秘書長、大本営財政部長兼広東省財政庁長と歴任する。陳の討伐成功において、特に財務面での裏方として貢献した。1925年(民国14年)7月、国民政府の成立とともに、古は国民政府常務委員兼広東省政務庁長に任命された。8月、廖仲愷が暗殺されると、その後任として国民政府財政部長兼広東省財政庁長となった。
国民党右派としての活動
編集1926年(民国15年)1月、古応芬は、中国国民党第2期中央監察委員に選出された。蔣介石が台頭すると、中国国民党左派や中国共産党の運動方式への反発もあって、古は蔣に接近する。1927年(民国16年)4月12日の上海クーデターも支持し、古自身も広州で共産党排除を行った。南京に蔣主導の国民政府が成立すると、古が政府常務委員兼財政部長代理に就任し、財政改革に取り組んでいる。その後も国民政府文官長、国民党中央監察委員などを歴任した。しかし党内抗争の激化に心労を覚え、1930年(民国19年)に辞職して広州に戻った。
1931年(民国20年)2月、蔣介石との約法をめぐる路線対立により、胡漢民が蔣により拘禁されると、古はこれに反発する。5月、古は、汪兆銘、孫科、唐紹儀らとともに広州で非常会議を開催し、南京とは別に国民政府を組織した。しかし9月の満洲事変により、党内各派の大同団結の動きへ向かう。古も、蔣と汪との合作を取り持った。
同年10月28日、古応芬は広州で病没した。享年59。
注
編集- ^ 法政大学大学史資料委員会編(1988)、145頁。
参考文献
編集- 蕭棟梁「古応芬」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 法政大学大学史資料委員会編『法政大学史資料集 第11集 (法政大学清国留学生法政速成科特集)』法政大学、1988年。
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