咸宜帝

阮朝8代皇帝。阮福洪侅の五子

咸宜帝(かんぎてい、ハムギてい、Hàm Nghi、1872年7月22日嗣徳25年6月17日) - 1944年1月14日保大18年12月19日))は、阮朝の第8代皇帝(在位:1884年 - 1885年)。諱は阮福膺[1]Nguyễn Phúc Ưng Lịch)、後に阮福明(Nguyễn Phúc Minh)と改めた。

咸宜帝
阮朝
8代皇帝
咸宜帝
国号 大南
王朝 阮朝
在位期間 1884年8月2日 - 1885年9月19日
都城 順化皇城(現フエ
姓・諱 阮福明、阮福膺
廟号 なし
生年 (1872-07-22) 1872年7月22日
大南順化
没年 (1944-01-14) 1944年1月14日(71歳没)
フランスの旗 フランス領アルジェリアアルジェ
堅太王阮福洪侅
潘氏嫻
元号 咸宜

阮朝がフランスによりベトナムの支配権を奪われつつある中で抵抗運動を展開し、前近代における反仏抵抗運動の象徴的存在となった[2]

生涯

編集

阮朝の第4代嗣徳(トゥドゥック)帝の甥であった[2]。1883年に嗣徳帝が亡くなると育徳(ズクドゥック)帝協和(ヒエップホア)帝建福(キエンフック)帝といった皇帝たちが立て続けに権臣に擁立されては廃位されるといった状況が続いた[2]。阮福膺 阮文祥(グエン・ヴァン・トゥオン)および尊室説(トン・タット・トゥエット)により1884年に第8代皇帝として即位させられたが、この1884年は第2次フエ条約英語版パトノートル条約)が締結、ベトナム全土が3分割され南部はフランスの直轄領、北部も保護領となり、阮朝が辛うじて支配できるのは中部の保護国部分のみとなった年であった[2]。咸宜帝は翌年7月5日に王都のフエに駐留していたフランス軍を尊室説と共に突如攻撃しフエを脱出、アンナン山脈の奥地へと潜伏し、地方の在地知識人[注 1]に抗仏勤皇大蜂起の檄を発し、フランスへの徹底抗戦を訴えた[2]。フランスはただちに兄の同慶(ドンカイン)帝を立て[2]、咸宜帝に帰順を呼び掛けた。咸宜帝はこれに従わず農村を転々としてゲリラ軍の指導にあたり抵抗を続けたが、1888年11月にクアンチ山中にて部下の密告により、フランス軍に捕らえられた[2]

その後同年11月に北アフリカフランス領アルジェリアに配流されることが決まり、1889年1月にアルジェに到着した。アルジェでは現地総督から郊外に屋敷が与えられ、年間25000フランの生活費が支給された。1904年には現地でフランス人女性と結婚し、3児をもうけた。1944年に胃癌のためアルジェ近郊の邸宅で死去した。

先代
建福帝
阮朝皇帝
第8代:1884年 - 1885年
次代
同慶帝

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ ヴァンタンベトナム語: Văn Thân)のこと。漢字表記は文紳。前近代ベトナムにおける村落内知識人層であり、中央政府と地位的・人的に繋がりを持ち実質的な行政の権能を握っていたが、第二次フエ条約でフランスがベトナムの主権を奪ったことで村内権力の基盤が崩されることを恐れていた[3]

出典

編集
  1. ^ 「豆」へんに「歴」(『大南寔録』)
  2. ^ a b c d e f g 桜井, 由躬雄ハムギ(咸宜)」『世界大百科事典』(第2版)平凡社、2000年https://kotobank.jp/word/ハムギ-1196599  (CD-ROM版)
  3. ^ 桜井, 由躬雄バンタン(文紳)」『世界大百科事典』(第2版)平凡社、2000年https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3-1197652  (CD-ROM版)

外部リンク

編集