呉 奇偉(ご きい、繁体字: 吳奇偉; 簡体字: 吴奇伟; 繁体字: 吳奇偉; 拼音: Wú Qíwĕi; ウェード式: Wu Ch'i-wei)は、中華民国の軍人。広東軍(粤軍)出身の軍人で、後に国民革命軍に属した。粤軍では張発奎の腹心として知られる。晴雲。別号は梧生

呉奇偉
プロフィール
出生: 1891年1月8日
光緒17年11月28日)[1]
死去: 1953年7月10日[2]
中華人民共和国の旗 中国北京市
出身地: 清の旗 広東省潮州府大埔県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 吳奇偉
簡体字 吴奇伟
拼音 Wú Qíwĕi
ラテン字 Wu Ch'i-wei
和名表記: ご きい
発音転記: ウー チーウェイ
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事跡

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粤軍での台頭

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貧しい農民の家庭に生まれる。商業を営んでいた伯父の資金援助で呉奇偉は学問を開始したが、後に軍人の道を志し、黄埔陸軍小学に入学した。その後、武昌陸軍中学、保定陸軍軍官学校(第6期)と進学している。卒業後は広東に戻り、陳炯明の広東軍(粤軍)に属した。1922年民国11年)に陳が反孫文(孫中山)クーデターを起こしても呉は孫支持を維持し、粤軍第1師に留まった。

1926年(民国15年)、北伐が開始されると、呉奇偉は粤軍第1師から改組された国民革命軍第4軍に属し、張発奎率いる第12師の第36団中校参謀長に任ぜられた。呉奇偉は呉佩孚率いる北京政府軍との戦いで軍功をあげ、1927年(民国16年)春に第34団団長に昇進している。次に河南省張作霖配下の奉天派と戦い、やはりこれを撃破する上で貢献した。同年9月、張に随従して南昌に駐屯し、呉奇偉は第12師副師長兼任に昇進している。

同年11月、広州に戻った張発奎は、汪兆銘(汪精衛)の支持を得た上で黄琪翔と共に広東省政府主席李済深(当時は蔣介石支持派)を広州から駆逐するクーデターを起こす。呉奇偉も張らに与し、李の軍を追撃した。しかし、蔣の支援を得た李は速やかに反撃して広州を奪回、張と黄は下野に追い込まれた。その後、張を支持する第4軍軍長繆培南の下で呉は第12師師長に任ぜられ、李の軍と戦ったが利無く、繆と共に江西に逃れて蔣に投降した。

1928年(民国17年)5月、第4軍は北伐に再び加わり、山東張宗昌の直魯聯軍を撃破した。同年夏の軍縮に伴い、第4軍は第4師に、第12師は第12旅に縮小され、そのまま呉奇偉が旅長を務めた。1929年(民国18年)3月に蔣桂戦争が勃発すると、第4軍は江西や湖北方面へ転戦し、新桂系(新広西派)の軍を迎撃した。しかしまもなく張発奎が第4軍に復帰して反蔣を宣言して新桂系と連携することになり、呉もこれに従う。1930年(民国19年)、中原大戦で反蔣軍が敗北すると張発奎は下野し、呉は残された第4師を率いて広西省に逃れ、新桂系の一員として柳州に駐屯した。

紅軍掃討から国共内戦まで

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1931年(民国20年)に満州事変(九・一八事変)が勃発して各派が大同団結すると、呉奇偉率いる第4師は江西に移り、紅軍中国共産党)掃討の任務にあたる。1932年(民国21年)9月、第4師は第4軍に拡充され、呉も軍長に昇進した。1934年(民国23年)、紅軍が長征を開始すると、呉の第4軍は貴州で追撃戦に参加したが、捕捉に失敗して反撃を受け大損害を被ってしまう。これにより呉は蔣介石の叱責を受けた。1935年(民国24年)4月、陸軍中将銜を授与され、1937年(民国26年)には廬山訓練団第1大隊大隊長に任ぜられている。

1937年(民国26年)8月、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、呉奇偉は第18軍団軍団長兼第19集団軍副総司令として上海防衛戦(第2次上海事変)に参加したが、率いる軍は戦闘で大打撃を受けた。その後、呉は江西へ撤退し自軍の再編に取り組んでいる。1938年(民国27年)7月、第9集団軍総司令に昇進し、広東方面で日本軍を迎撃している。1939年(民国28年)には第4戦区副司令長官となった。1940年(民国29年)初めに柳州へ移駐したが、まもなく第6戦区副司令長官兼長江上遊江防司令に任ぜられ、湖北省に駐留している。

戦争末期の1945年(民国34年)5月、呉奇偉は中国国民党第6期中央監察委員に選出され、翌月には湖南省政府主席に任ぜられる。翌1946年(民国35年)4月には徐州綏靖公署副主任(主任は薛岳)に転じた。しかし、国共内戦では魯南解放区・蘇北解放区を攻撃したものの敗北を重ね、1947年(民国36年)春には心労から一時病気療養している。この頃から、内戦での国民党の劣勢に加え共産党からの働きかけもあり、呉はついに国民党に見切りをつけた。

国民党からの離脱、晩年

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1949年(民国37年)1月に、張発奎の起用により呉奇偉は広東綏靖公署副主任に任ぜられたが、その翌月に突然香港へ脱出してしまう。呉は中国国民党革命委員会(民革)への加入を宣言し、5月には広東の一部部隊にも働きかけて起義(共産党への易幟・投降)を宣言した。中華人民共和国建国後は、中国人民政治協商会議第1期全国委員会委員や広東省人民政府委員を務めている。

1953年7月10日、北京市にて病没。享年63(満62歳)。

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』608頁と劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』1042頁による。戴仰明・林煕敦「呉奇偉」132頁は「1890年1月28日(清光緒16年正月初8日)」とする。
  2. ^ 戴・林136頁と徐608頁による。劉1042頁は「7月11日」とする。

参考文献

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  • 戴仰明・林煕敦「呉奇偉」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第3巻』中華書局、1981年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国国民政府
先代
薛岳
湖南省政府主席
1945年6月 - 1946年4月
次代
王東原