吉川昌宏
吉川 昌宏(よしかわ まさひろ、1978年6月29日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)出身の元プロ野球選手(投手、右投左打)。
ミタニ建設工業野球部 #18 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県香美郡土佐山田町(現:香美市) |
生年月日 | 1978年6月29日(46歳) |
身長 体重 |
173 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2002年 ドラフト8巡目 |
初出場 | 2003年6月18日 |
最終出場 | 2010年8月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴
編集プロ入り前
編集明徳義塾中から明徳義塾高に進学。2年秋に翌夏全国制覇する松山商を決勝で下して四国大会優勝、選抜高校野球ではベスト8。夏は県大会決勝で延長13回を投げて甲子園出場、2回戦で同じ四国の新野高(徳島)に逆転負け。高校日本代表に選出された。このときすでにサイドスローだった。
1997年に亜細亜大学へ入学。大学の先輩で似たフォームの高津臣吾の大学時代の背番号11を着けて1年春から登板。同期にスワローズで一緒になる松井光介や久本祐一がいた。2年の大学選手権は準々決勝で先発も敗戦。1学年上に佐藤宏志、2学年下に木佐貫洋もいて救援が中心であった。2、3年時は日米大学野球の代表となった。東都大学リーグ通算31試合登板、9勝3敗、防御率3.23、87奪三振。
大学卒業後、2001年に社会人野球のローソンに入社するも、翌2002年シーズン終了後にチームの廃部が決定する。その状況の中、2002年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから8巡目指名を受け入団。
プロ入り後
編集2005年に初の開幕一軍入りを果たすと、開幕から8試合連続無失点を記録。石井弘寿と並ぶ61試合登板を達成し、苦手だった左打者に対する被打率は1割台に抑えた。チームトップの23ホールドを挙げ、セットアッパーの一人として欠かせない存在となった。トレードマークである髭は、この年から生やし始めた。古田敦也の2000本安打達成と同じ4月24日にプロ初勝利をあげた。
2006年はリリーフの一角として前半だけで23試合に登板したが、6月下旬に肩痛で二軍落ち。夏場をリハビリにあて、9月に復帰した。苦手の左打者には4割以上打たれた。
2007年は43試合に登板し、中継ぎとして奮闘。特に夏場以降安定感を見せた。
2008年、松岡健一、押本健彦、五十嵐亮太、林昌勇らの活躍により、登板機会が減り18登板に留まる。
2009年はさらに登板機会が減り、8試合の登板に留まった。
2010年は3月30日の中日ドラゴンズ戦でシーズン初登板、6回表1死満塁の場面で打者を併殺に打ち取って、ルーキー中澤雅人の初先発初勝利を助けた。その後二軍では好投を続けたものの、一軍では被本塁打による大量失点が響き防御率10.00に終わった。
2011年、二軍では37試合に登板し防御率3.25であったが、一軍での登板は無く、10月9日に戦力外通告を受ける[1]。12月2日、自由契約公示された。
引退後
編集退団後は地元高知で、ベースボール&スポーツアカデミー「ExchangeSports」を設立するも、2014年10月をもって閉校。その後は衆議院議員である中谷元の高知事務所で私設秘書をしている[2][3]。
また高校時代の後輩の縁で高知県のミタニ建設工業の軟式野球部に所属。背番号は18[4]。投手だけでなく打撃面でもクリーンナップを任されている。
2016年には高知県軟式野球連盟の中学女子選抜の臨時コーチを務めた[5]。
選手としての特徴
編集詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2003 | ヤクルト | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 14 | 3.0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.67 |
2004 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 57 | 11.1 | 17 | 2 | 6 | 0 | 1 | 8 | 0 | 1 | 10 | 9 | 7.15 | 2.03 | |
2005 | 61 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 0 | 20 | .500 | 245 | 58.0 | 50 | 6 | 20 | 2 | 5 | 32 | 1 | 1 | 25 | 24 | 3.72 | 1.21 | |
2006 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 4 | .667 | 114 | 26.0 | 34 | 2 | 5 | 1 | 1 | 20 | 0 | 0 | 10 | 10 | 3.46 | 1.50 | |
2007 | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 10 | .500 | 171 | 42.1 | 37 | 5 | 8 | 2 | 4 | 25 | 1 | 0 | 17 | 17 | 3.61 | 1.06 | |
2008 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | ---- | 82 | 19.1 | 20 | 3 | 6 | 0 | 1 | 10 | 0 | 0 | 9 | 9 | 4.19 | 1.34 | |
2009 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | ---- | 30 | 7.2 | 6 | 2 | 0 | 0 | 2 | 8 | 0 | 0 | 3 | 3 | 3.52 | 0.78 | |
2010 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | ---- | 47 | 9.0 | 16 | 2 | 4 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 12 | 10 | 10.00 | 2.22 | |
通算:8年 | 176 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 6 | 0 | 40 | .538 | 760 | 176.2 | 183 | 22 | 51 | 5 | 15 | 112 | 2 | 2 | 86 | 82 | 4.18 | 1.33 |
記録
編集- 初登板:2003年6月18日、対中日ドラゴンズ13回戦(ナゴヤドーム)、6回裏1死に2番手で救援登板、2/3回無失点
- 初奪三振:同上、6回裏に大西崇之から
- 初ホールド:2005年4月17日、対読売ジャイアンツ3回戦(明治神宮野球場)、4回表に3番手で救援登板、3回無失点
- 初勝利:2005年4月24日、対広島東洋カープ5回戦(坊っちゃんスタジアム)、6回表2死に3番手で救援登板、1/3回無失点
背番号
編集- 62 (2003年 - 2011年)
脚注
編集- ^ “来季の契約について”. 東京ヤクルトスワローズ (2011年10月9日). 2011年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月21日閲覧。
- ^ “(8)勉強まで見るサッカー 野球は「人材」生かせず”. 高知新聞 (2011年10月9日). 2017年3月9日閲覧。
- ^ “ガンバレ明徳義塾:明徳義塾野球部OBの元ヤクルト投手で中谷元衆院議員秘書・吉川昌宏さん(41) /高知”. 毎日新聞 2020年9月26日閲覧。
- ^ “選手紹介 | ミタニ建設工業㈱ 野球部”. 2014年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月26日閲覧。
- ^ [1]
- ^ “明徳義塾OBが語っていた“寮生活のリアル”「48人部屋が2つ。2段ベッドが24台」「おかしい部分を撤廃するのに、4年かかりました」(2/4)Number Web”. 2023年12月17日閲覧。
- ^ “高知県軟式野球連盟” (英語). www.facebook.com. 2021年9月19日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 吉川昌宏 - NPB.jp 日本野球機構
- goggleman yoshi's challenge(吉川昌宏ブログ)[リンク切れ]