児島半島
歴史
編集児島半島はかつて吉備児島と呼ばれる島であった。『古事記』、『先代旧事本紀』などによれば「吉備兒島」は「大倭豐秋津島」の次に生まれた島である。
本土と吉備児島との間は「吉備の穴海」と呼ばれる浅海で隔てられており、古代には荒波を避けるために本土と児島の間の海が、特に浅瀬を避けるために藤戸という海峡が重要な航路となっていた。奈良時代から小規模な干拓が始まった。室町時代後期から戦国時代になると為政者により新田開発のための大規模な干拓が行われるようになった。そして江戸時代初期の1618年(元和4年)に現在の岡山市南西部・早島町南部から倉敷市中東部にかけて岡山藩の干拓により、吉備児島は陸続きの半島となった。したがって、日本史の教科書に使用される日本地図においては、江戸中期以前は児島を「島」として、以降は「半島」として描いている。
更に明治時代以降、実業家・藤田伝三郎による干拓事業で繋続部分は更に拡大した。
太平洋戦争後には農林水産省の国家事業として干拓が進められた。また、1962年(昭和37年)には児島湾の一部を閉め切って灌漑用水としての児島湖が完成した。