倉石忠雄
倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2日 - 1986年(昭和61年)11月8日)は、日本の政治家。労働大臣、農林大臣、法務大臣[1]。
倉石 忠雄 くらいし ただお | |
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生年月日 | 1900年7月2日 |
出生地 | 長野県千曲市(旧:稲荷山町) |
没年月日 | 1986年11月8日(86歳没) |
出身校 |
法政大学 ロンドン大学 |
前職 |
婦女界社常務取締役 南日本化学工業専務取締役 (現:日本曹達) |
所属政党 |
(日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 法学士 |
第38代 法務大臣 | |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年11月8日 - 1980年7月17日 |
第37-38・41・45代 農林大臣 | |
内閣 |
第1次佐藤第3次改造内閣 第2次佐藤内閣 第2次佐藤第1次改造内閣 第3次佐藤内閣 第2次田中第1次改造内閣 第2次田中第2次改造内閣 |
在任期間 |
1966年12月3日 - 1968年2月23日 1970年1月14日 - 1971年7月5日 1973年11月25日 - 1974年12月9日 |
第11・15代 労働大臣 | |
内閣 |
第3次鳩山内閣 第2次岸内閣 |
在任期間 |
1955年11月22日 - 1956年12月23日 1958年6月12日 - 1959年6月18日 |
選挙区 | 長野県第1区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1947年4月26日 - 1983年11月28日 |
その他の職歴 | |
第22代 自由民主党総務会長 (総裁:大平正芳) (1978年 - 1979年) | |
第21代 自由民主党政務調査会長 (総裁: 田中角栄) (1972年 - 1973年) | |
第2代 自由民主党国会対策委員長 (総裁: 石橋湛山、岸信介) (1956年 - 1957年) |
来歴・人物
編集長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、製糸用繭問屋を経営していた倉石万平の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の近藤日出造がいる。長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1925年に法政大学法科[1] を卒業。法大在学中は法政大学弁論部で活動。森恪の知遇を得て、立憲政友会の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった大野伴睦と知り合った。
大学卒業後は婦人雑誌を発行していた「婦女界社」に入社する。同社社長の都河竜に目をかけられ二女徳子と結婚、また都河の援助でロンドン大学に留学、社会政策を学ぶ。帰国後は婦女界社常務を務める。1932年の総選挙で長野1区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選した。戦時中は台湾に渡り、日曹コンツェルン系の南日本化学工業専務、台湾製塩監査役等を歴任する。
1947年、第23回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で旧長野2区より立候補し当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・荒木万寿夫・松野頼三・原田憲・園田直・櫻内義雄・根本龍太郎・中村寅太など)。
同年開かれた第1回国会衆議院本会議で、12月5日衆議院本会議場において、議案に反対して激高し制止しようとした守衛に暴行を加えたため懲罰動議が発せられ、30日間の登院停止が賛成多数で可決された。
1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問され[2]、炭鉱国管疑獄では、衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている[3]。以後連続当選14回[1]。国会対策畑で頭角を現した。1952年、福永健司幹事長指名騒動にあたっては、国会対策委員長であった倉石は衆院議院運営委員長の石田博英とともに指名阻止に動き撤回させる。以後石田とともに党内に「民主化同盟」を結成して反吉田運動を展開する。石田とは労政通という共通点もあり保守合同後の1955年、第3次鳩山内閣で労働大臣として初入閣、1958年の第2次岸内閣でも労相となり[1]、池田勇人・佐藤栄作両政権下では自民党労働問題調査会長として、結社の自由と団結権の擁護を定めたILO87号条約批准と関連国内法の整備に尽力した。また、最低賃金法の生みの親でもある。
政界遊泳術に長け、「世渡り上手」と評された。福田赳夫が「党風刷新連盟」(のちの清和政策研究会)を結成すると倉石もこれに呼応し、大野派を離れ福田派幹部となる。また佐藤・田中両内閣でもたびたび大臣や党幹部に起用され、1966年第1次佐藤第3次改造内閣で農林大臣となるが[1]、1968年、アメリカ・北朝鮮間のトラブル(プエブロ号事件)に伴う日本海の漁業の安全操業問題に関するコメントの中で「現行憲法は他力本願だ、やはり軍艦や大砲が必要だ」「こんな馬鹿馬鹿しい憲法を持っている日本はメカケのようなもの」と発言したとされ、野党の追及により辞任を余儀なくされる。しかしすぐに1970年第3次佐藤内閣で農相として入閣した[1]。
入閣後の11月6日には参議院決算委員会で、理事長を務めていた東京国際カントリークラブ(ゴルフ場)が国有地を無断利用した上に住宅公団に転売されていた件、菅平国際カントリークラブが運営していた別荘地に国費で植林が行われていた件が追及された[4]が、倉石は旅行を理由に委員会を欠席。答弁に立った政府委員が陳謝した[5]。
その後1972年に党政務調査会長、1973年の第2次田中第1次改造内閣では再び農相として入閣した[1]。
1975年秋、公労協がスト権奪回を目指しスト権スト実施が迫った11月7日、自民党公労法問題調査会小委員長に任命された。一時はスト権付与論にぐらついたが、椎名悦三郎副総裁との会見により自民党内を時期尚早論にまとめあげた[6]。
1978年には党総務会長を経て、第2次大平内閣で法務大臣となるが[1]、就任記者会見でロッキード事件について触れ「田中元首相には友人として、公明正大で青天白日となることを願う」(倉石と田中は当選同期で古くからの友人であり、また田中の母が死去した際にも総理名代として葬儀に参列している)と述べ[7]、またも物議をかもした。
倉石はイギリス仕立ての渋いスーツに乗馬ズボンを身にまとい、咥え葉巻というスタイルで政界きってのダンディ男と呼ばれた。1974年に勲一等旭日大綬章を受章し、1983年に政界を引退した(地盤は若林正俊が継いだ)。数年間の入院生活を経て1986年11月8日に86歳で死去した。
伝記
編集- 倉石英雄『倉石忠雄を語る』日新サロン出版部、1985年。弟による伝記(非売品)
- 『倉石忠雄 その人と時代』倉石忠雄先生顕彰会、1987年
脚注
編集- ^ a b c d e f g h “倉石忠雄”. コトバンク. 2013年8月18日閲覧。
- ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第15号 昭和23年4月14日
- ^ 『戦後政治裁判史録 1』336-337頁。
- ^ ゴルフ場二つの怪 黒柳議員(公明)きょう参院委で追及 国有地を無断転売 別荘地に国費植林『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月6日朝刊 12版 23面
- ^ 「金は取りたてる」ゴルフ場問題 政府、国会で平謝り『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月6日夕刊 3版 11面
- ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十八章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月18日閲覧。
- ^ 立花隆『巨悪vs言論―田中ロッキードから自民党分裂まで』文藝春秋、1993年8月15日、18頁。
参考文献
編集- 田中二郎、佐藤功、野村二郎編『戦後政治裁判史録 1』第一法規出版、1980年。
関連項目
編集議会 | ||
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先代 尾崎末吉 |
衆議院予算委員長 1953年 - 1954年 |
次代 山口喜久一郎 |
先代 綱島正興 |
衆議院労働委員長 1949年 - 1951年 |
次代 島田末信 |
公職 | ||
先代 古井喜実 |
法務大臣 第38代:1979年 - 1980年 |
次代 奥野誠亮 |
先代 櫻内義雄 長谷川四郎 松野頼三 |
農林大臣 第45代:1973年 - 1974年 第41代:1970年 - 1971年 第37・38代:1966年 - 1968年 |
次代 安倍晋太郎 赤城宗徳 西村直己 |
先代 石田博英 西田隆男 |
労働大臣 第15代:1958年 - 1959年 第11代:1955年 - 1956年 |
次代 松野頼三 松浦周太郎 |
党職 | ||
先代 中曽根康弘 |
自由民主党総務会長 第22代:1978年 - 1979年 |
次代 鈴木善幸 |
先代 櫻内義雄 |
自由民主党政務調査会長 第21代:1972年 - 1973年 |
次代 水田三喜男 |
先代 中村梅吉 |
自由民主党国会対策委員長 第2代:1956年 - 1957年 |
次代 村上勇 |