松浦周太郎
松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 - 1980年6月8日)は、日本の昭和期の政治家。労働大臣・運輸大臣。北海道美深町名誉町民(1964年)。妻は同町の児童養護施設・社会福祉法人美深育成園の創立者である松浦カツ[1]。
来歴・人物
編集北海道渡島支庁茅部郡落部村(現・二海郡八雲町)野田生の開拓農家の長男として生まれる[2]。父・増太郎は愛知県の人で、濃尾地震(1891年)で耕地を失い、翌1892年、八雲徳川農場で小作人として働くために渡道してきていた。
1909年4月、現在の美深町紋穂内に移住、恩根内第一尋常小学校を卒業後は家業の農作業に従事し[2]、また中学講義録を取り寄せ独学していた。一時期、胃を痛めて東京の長与胃腸病院に入院し、夏目漱石と病室を共にしたことがある。
1920年、キリスト教に入信。翌1921年には木材会社を設立し軌道に乗せ、後の天塩川木材工業となる[2](1997年11月倒産)。1922年に藤原カツと結婚、美深町議(1929年)、北海道議(1932年)を経て、1937年、立憲民政党から旧北海道2区にて第20回衆議院議員総選挙に立候補し初当選[2]。以後当選12回。民政党では鶴見祐輔の片腕的存在となる。戦後、中村梅吉・犬養健・小泉純也・野田武夫らと若手議員主体の「新日本建設調査会」を結成するが、後に日本進歩党結成に合流する。1945年幣原内閣で外務参与官を務めた後、公職追放される[3]。
追放解除後は民政旧友会・新政クラブを経て、1952年、改進党から中央政界に復帰し、同党副幹事長となる。保守合同後は松村・三木派に所属し、鶴見祐輔・松村謙三・粟山博・小山邦太郎・中村三之丞・川崎末五郎らとともに旧民政党系左派の長老として重きをなす。1956年、石橋内閣で労働大臣、1964年、第3次池田内閣改造内閣で運輸大臣[4]として入閣する[2]。1976年、政界を引退、その後は美深町の自宅でカツ夫人、長男らと余生を過ごす。地盤は川田正則が継承した[5]。
国鉄美幸線の敷設促進にも寄与した。1964年、美深町名誉町民[2]、1972年、勲一等旭日大綬章受章[6]。
キリスト教精神に基づく人道主義で人生を貫き、1980年6月8日14時25分、美深町若松町の自宅で老衰により84歳にて死去[2]。
栄典
編集脚注
編集- ^ 『政治家人名事典 明治-昭和』(新訂)日外アソシエーツ、2003年、568-569頁。ISBN 978-4-8169-1805-6 。2016年3月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g “松浦周太郎氏が死去”. 名寄新聞. (1980年6月10日)
- ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、337頁。NDLJP:1276156。)
- ^ “日本鉄道建設公団30年略史”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 8. (1993年3月23日)
- ^ 足並み乱れる支持層 北海道二区 疑惑・・・弁解もない『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月16日朝刊、13版、23面
- ^ a b 中野文庫 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧
- ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
公職 | ||
---|---|---|
先代 綾部健太郎 |
運輸大臣 第31・32代:1964年 - 1965年 |
次代 中村寅太 |
先代 倉石忠雄 |
労働大臣 第12代:1956年 - 1957年 |
次代 石田博英 |
議会 | ||
先代 中村寅太 |
衆議院議農林水産委員長 1958年 - 1959年 |
次代 吉川久衛 |
先代 大西禎夫 |
衆議院通商産業委員長 1954年 |
次代 廃止 |