京極高数
室町時代中期の武将、守護大名
京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。
時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日) |
改名 | 高員(初名)→高数 |
別名 | 三郎[1] |
墓所 | 滋賀県米原市の徳源院 |
官位 | 従五位下[1]、左衛門尉[1]、加賀守[1] |
幕府 | 室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨守護 |
主君 | 足利義教 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高詮 |
兄弟 | 高光、高数 |
子 | 教久、多賀高忠 |
生涯
編集京極高詮の次男として誕生した。
応永18年(1411年)、飛騨の国司姉小路尹綱(あねがこうじ ただつな)が幕府に背いた飛騨の乱が起きると、幕府軍の総大将に任命され、越前国の朝倉氏・甲斐氏、信濃国の小笠原持長らと共に5千余りの兵を率いて鎮圧している。応永28年(1421年)から正長元年(1428年)まで侍所頭人と山城守護も務めた。
応永20年(1413年)に兄の高光が亡くなり甥の持高が跡を継ぐが、持高も永享11年(1439年)に子を残さないまま亡くなる。『薩戎記』はこの後に高数が家督を継いだとしているが、高数を当主には含めない史料も多い。
嘉吉元年(1441年)6月24日、赤松満祐が開いた酒宴に6代将軍・足利義教、諸大名・公家らと共に招かれ、宴の最中に義教が赤松氏の家臣により殺害される(嘉吉の変)。管領である細川持之をはじめ多くの諸大名が逃げ出す中で、高数はその場に残って戦い、討たれた。
京極宗家の家督は持高の弟の持清が継いだ。高数には子がおり、足利義教から偏諱(「教」の字)の授与を受けた長男の教久(のりひさ)は別家し(=京極加州家)、次男の高忠は多賀氏の家督を継いだ。