井上 貞衛(いのうえ さだえ、1886年明治19年)11月5日[1][2] - 1961年昭和36年)10月26日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

井上 貞衛
井上貞衛
生誕 1886年11月5日
熊本県
死没 (1961-10-26) 1961年10月26日(74歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1908年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
指揮 第14師団
第69師団
歩兵第5連隊
戦闘 シベリア出兵
日中戦争
第二次世界大戦
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経歴

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熊本県出身、本籍は高知県[1]熊本県警部・井上作郎の三男として生れる[1]中学済々黌を中退、熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1908年5月、陸軍士官学校(20期)を卒業[2]、同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第53連隊付となった[1][3]

歩兵第44連隊中隊長としてシベリア出兵に参加[1]。同連隊大隊副官第11師団司令部付、同師団副官、歩兵第12連隊大隊長、歩兵第10旅団副官、横浜高等工業学校配属将校、独立守備歩兵第3大隊長、歩兵第5連隊長などを経て、1939年3月、陸軍少将に進級[1][3]

第33歩兵団長、台湾軍司令部付、台湾軍兵務部長などを歴任し、1942年4月、陸軍中将に昇進[1][2][3]第69師団[1][3]として、中国山西省方面で活動[2]1943年10月、第14師団[1][3]となり満州に駐屯。しかし、南太平洋戦線の戦局悪化により1944年2月、南方に派遣されパラオ諸島方面の守備を担当した[2]。配下の歩兵第2連隊(および歩兵第15連隊第2大隊・第3大隊)はペリリュー島で、歩兵第59連隊第1大隊はアンガウル島において米軍と激戦を行い全滅した(ペリリューの戦いアンガウルの戦い[2]。師団主力は米軍との交戦は無かったが空襲と飢餓で多くの損害を出し終戦を迎えた[要出典]

1946年3月に復員[1][3]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。その後、GHQよりBC級戦犯指定を受けて逮捕された。容疑はパラオで捕虜になった米軍機搭乗員3名を処刑するように命じたというものである[5]グアム島で行われた戦犯裁判の結果、1949年4月、死刑判決を受けた[1]1951年1月3日、終身刑に減刑された後に釈放された[1]

栄典

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位階
勲章
外国勲章佩用允許

家族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、11頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』94頁。
  3. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』256頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  5. ^ https://web.archive.org/web/20080723112811/http://www.ijnhonline.org/volume1_number1_Apr02/article_welch_crimes_trial.doc.htm
  6. ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
  7. ^ 『官報』第8608号「叙任及辞令」1912年3月2日。
  8. ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
  9. ^ 『官報』第2913号「叙任及辞令」1922年4月21日。
  10. ^ 『官報』第152号「叙任及辞令」1927年7月2日。
  11. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  12. ^ 『官報』第4618号「叙任及辞令」1942年6月4日。
  13. ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。