五浦海岸
五浦海岸(いづらかいがん[1])は、茨城県北茨城市大津町五浦にある海岸、景勝地。花園花貫県立自然公園に属する。「関東の松島」の異名を持つ[2]。岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦の一部として国の登録記念物に登録されている[3]。
概要
編集大小の入り江、大小の磯、高さ約50mの断崖絶壁など、波による浸食で形成された地形が続く(海食崖)。海底油・ガス田の硬成分から形成された炭酸塩コンクリーションが奇岩を成し[4][5]、亀ノ尾層(珪藻質砂岩、珪藻質砂質頁岩)、多賀層群などの地層が見られる。崖の上にはクロマツが生えている。
南から「小五浦」「大五浦」「椿磯」「中磯」「端磯」の五つの浦(磯)を称して五浦という。
陸前浜街道(国道6号)を日立から勿来関(奥州三古関の1つ)跡に行く道程の途上にある。
日本の渚百選。日本の音風景100選。茨城百景。日本の白砂青松100選。日本の地質百選。
岡倉天心と五浦
編集26歳で帝国博物館(現東京国立博物館)理事・美術部長、27歳で東京美術学校(現東京芸術大学)の校長となった岡倉天心は、1898年に日本美術院を設立、1906年この地に移した。横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山などが学び、日本画の創作活動をした。
この活動を記念して茨城県天心記念五浦美術館、茨城大学五浦美術文化研究所が設置された。
また、岡倉天心ゆかりの六角堂観瀾亭が残されていたが、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波で消失した[6]。翌2012年(平成24年)4月17日に、創建当時の設計で再建された。
施設・名所
編集- 茨城大学五浦美術文化研究所 - 岡倉天心の住居跡に設立。1955年に岡倉天心遺跡顕彰会より茨城大学に移管されたもの。旧天心邸(1904年)、六角堂(1905年)などが残されている。
- 茨城県天心記念五浦美術館 - 1997年1月開館。日本画を中心に所蔵・展示している。端磯の側にある。
- 天心遺跡記念公園 - 1980年一般公開。日本美術院跡地。中磯にある。
- 岡倉天心の墓 - 1913年に染井霊園(東京都)から分骨・埋葬されたもの。辞世の句「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影」に基づく分骨であるとされる。大五浦の側にある。
- 六角堂 - ボストン美術館中国日本部長の任務を終えてアメリカから帰国後、1905年杜甫(中国の詩人)の草堂に倣い建てた観瀾亭のこと。大五浦と小五浦の間の岬にあったが、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波の直撃を受け、土台部分のみを残して消失(流出)した。その後再建され、2012年4月17日に完成式が行われた。
- 忘れじの碑 - 第二次世界大戦時、ここからアメリカ合衆国本土に向けて風船爆弾が飛ばされた。この事実を忘れないため、とする碑。五浦よりやや北、平潟漁港との間にある。
- 大津岬灯台 - 小五浦の南の岬にある。
- 野口雨情記念館 - 北茨城生まれで「七つの子」「赤い靴」などで知られる童謡・詩人野口雨情の記念館。五浦海岸の南、JR常磐線磯原駅との間にある。
名物
編集近辺の名物はアンコウ(鮟鱇)料理(茨城県の冬の風物詩)。「東のあんこう、西のフグ」と称される。水戸、大洗海岸、阿字ヶ浦海岸、北茨城一帯(五浦、平潟、湯の網)の名物であり、茨城県海岸寄り全般の名物である。
温泉
編集港
編集- 大津港
交通
編集脚注
編集出典
編集- ^ 平凡社『世界大百科事典』「五浦海岸」コトバンク版。2020年8月10日閲覧。および小学館『デジタル大辞泉プラス』(ジャパンナレッジ)
- ^ 「日研」新聞編集委員会 編(1991):4ページ
- ^ “岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦”. 茨城県教育委員会. 2014年9月18日閲覧。
- ^ 「茨城県五浦に幻の巨大油ガス田―天然ガスが築いた世界最大級の層状炭酸塩コンクリーション」【茨城大学】2020年7月8日付
- ^ 「茨城沖に「幻の巨大油ガス田」、今も埋蔵? 茨城大と北大が解明」【東京新聞】2020年8月26日付
- ^ "被災地文化財300件 あぁ松島、六角堂消失"産経新聞2011年3月26日付朝刊、12版17ページ
参考文献
編集- 「日研」新聞編集委員会 編『茨城108景をめぐる』川崎松濤 監修、筑波書林、平成3年9月20日、219pp.