久我通忠
鎌倉時代中期の廷臣、歌人、公卿。久我通光の次男。正二位・大納言右近衛大将。勅撰集『続後撰和歌集』以下に7首入集。久我家7代。子に忠勝。
久我 通忠(こが みちただ)は、鎌倉時代中期の公卿。太政大臣・久我通光の次男。官位は正二位大納言右近衛大将。久我右大将と号す。
時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 建保4年(1216年) |
死没 | 建長2年12月24日(1251年1月17日) |
別名 | 久我右大将 |
官位 | 正二位、大納言、右近衛大将 |
主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 村上源氏中院流久我家 |
父母 | 父:久我通光、母:督典侍(藤原範光の娘) |
兄弟 | 通平、通忠、宣通、通能、中院雅光、源雅忠、六条通有、道朝、式乾門院御匣、雅成親王妃 |
妻 | 唐橋通時または北条義時の娘、平光盛の娘、家女房 |
子 | 通基、久我具房、親玄、忠勝 |
経歴
編集以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って。
- 建保6年(1218年)1月5日、叙爵。
- 承久2年(1220年)1月22日、承明門院の御給により従五位上に昇叙。同年4月6日には侍従に任ぜられる。
- 嘉禄元年(1225年)4月26日、正五位下に昇叙。同年12月22日には右少将に任ぜられる。
- 嘉禄2年(1226年)1月5日、従四位下に昇叙[1]。
- 安貞元年(1227年)12月25日、左中将に任ぜられる[2]。
- 安貞2年(1228年)2月1日、加賀介を兼ねる。
- 安貞3年(1229年)1月5日、従四位上に昇叙。
- 寛喜2年(1230年)3月12日、中宮権亮を兼ね、14日には正四位下に昇叙。同年10月25日、従三位に叙され左中将は元の如し。
- 寛喜4年(1232年)1月30日、因幡権守を兼ねる。
- 貞永2年(1233年)1月6日、正三位に昇叙。
- 文暦2年(1235年)8月20日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。
- 嘉禎2年(1236年)2月30日、権中納言に任ぜられる。同年5月22日には帯剣を許される[3]。
- 嘉禎3年(1237年)1月29日、従二位に昇叙。
- 嘉禎4年(1238年)閏2月27日、正二位に昇叙。同年7月20日、中納言に転正[4]。
- 暦仁2年(1239年)1月24日、権大納言に任ぜられる。
- 仁治2年(1241年)10月3日、病により権大納言を辞退。
- 仁治3年(1242年)2月21日、本座を許される[5]。
- 寛元2年(1244年)6月13日、権大納言に還任。
- 寛元4年(1246年)12月24日、父・通光が太政大臣となる。
- 宝治元年(1247年)9月28日には叔父である源定通が薨去。
- 宝治2年(1248年)1月、父通光が薨去したため喪に服す。同年3月9日に復任し、同月10日には右近衛大将を兼ねる。
- 建長2年(1250年)5月17日、大納言に転正[6]。同月27日、淳和院別当に補される。同年12月[7]24日、薨去。
久我家所領争いに直面する
編集父通光が後室として三条(西蓮)を迎え、所領を三条に任せる旨の置文を残したため、所領争いに直面する事になった。通忠の母は藤原範光の娘・督典侍は、通光の生母・藤原範子の姪にあたるため、祖父・源通親の指示に基づく婚姻関係だと推測できる。雅光の生母が三条だとすると、承久の乱後に通光は我意によって三条を後室として迎えた可能性が高い。そうした中で通忠は継母との争いをする事になり、同時に通親の子らが順次亡くなり、村上源氏一門の他家の進出にも直面する中で早世してしまうのである。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 寛喜2年(1230年)に通雄が非参議従三位となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「久我通忠」、久我通光、土御門定通、源通方、源通具、堀川具実、の項。
- 『増鏡』井上宗雄訳注、講談社学術文庫全3巻
- 『日本古典文学大系 神皇正統記 増鏡』木藤才蔵・時枝誠記校注、岩波書店、新装版刊
- 岡野友彦『中世久我家と久我家領荘園』 続群書類従完成会
- 『園太暦』 続群書類従完成会 岩橋小弥太・斎木一馬・黒川高明・厚谷和雄校訂
- 『師守記』 国立国会図書館蔵
- 『花園天皇宸記』 続群書類従完成会
- 『久我家文書』 國學院大学久我家文書編集委員会 続群書類従完成会