源雅忠
鎌倉時代前期から中期にかけての公卿
源 雅忠(みなもと の まさただ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。村上源氏中院流久我家、太政大臣・久我通光の六男(または七男)。官位は正二位・大納言。久我姓・中院姓で表記される場合もある。日記文学『とはずがたり』では、作者兼主人公の父として登場する。
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 安貞2年(1228年) |
死没 | 文永9年8月3日(1272年8月27日) |
別名 | 久我雅忠、中院雅忠 |
官位 | 正二位・大納言 |
氏族 | 村上源氏中院流久我家 |
父母 | 父:久我通光、母:藤原範光娘・督典侍 |
兄弟 |
久我通平、久我通忠、久我宣通、 久我通能、六条通有、中院雅光、雅忠、道朝、式乾門院御匣、雅成親王妃 |
妻 | 四条隆親娘・近子、源輔通娘 |
子 | 後深草院二条? |
経歴
編集系譜
編集『とはずがたり』
編集鎌倉時代の日記文学『とはずがたり』の作者にして主人公自身である後深草院二条(あかこ)は、自分は源雅忠の娘であると主張している。ただし、『とはずがたり』以外にそれを示す証拠はない。『とはずがたり』によれば、後深草院二条の母である近子(大納言典侍)は四条隆親の娘で、幼少の後深草天皇に「新枕」を授ける役であったが、何人かの公卿に「ぬしづかれて」最終的に雅忠の妻となったという[1]。なお、妻大納言典侍は二条を生んだ翌年(1259年)に亡くなっている。