平光盛
鎌倉時代前期の公卿。従二位非参議。出家。平頼盛の三男嫡子。子に教性(仁和寺、法印大僧都、三宝院伝法血脈)、長盛
平 光盛(たいら の みつもり、承安2年(1172年)-寛喜元年7月20日(1229年8月10日))は、鎌倉時代前期の公卿(従二位非参議)。平頼盛の三男。母は法印寛雅の娘・八条院大納言局。通称は八条三位。
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 承安2年(1172年) |
死没 | 寛喜元年7月20日(1229年8月10日) |
官位 | 従二位、非参議 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 桓武平氏維衡流(伊勢平氏) |
父母 | 父:平頼盛、母:八条院大納言局 |
兄弟 |
保盛、為盛、光盛、仲盛、知重、保業、 静遍、女(藤原基家)室、女(平清宗室) |
子 | 女(松殿基嗣室)、女(久我通忠室)、女(藤原実重室) |
生涯
編集母は八条院に仕えた女房で安元2年(1176年)正月に女院の御給によって叙爵している。以降、治承2年(1178年)正月に従五位上、養和元年(1181年)4月に正五位下に叙され、官職も治承3年(1179年)正月に侍従、寿永2年(1183年)正月には讃岐介に任じられている。
寿永2年(1183年)の平家一門の都落ちに伴って解官される。しかし、父と共に都落ちに加わらなかった光盛は源頼朝の庇護もあり、翌元暦元年(1184年)6月に還任され、同年12月に右近衛少将に任じられた(建久5年(1194年)正月まで)。
その後は順調に昇進し、文治元年(1185年)正月に従四位下に叙されて、同年6月に備前守を兼務。文治4年(1188年)正月に従四位上、建久2年(1191年)正月に正四位下、元久2年(1205年)正月に従三位に叙されて公卿となる。更に建暦元年(1211年)正月には正三位、貞応元年(1222年)正月には従二位に叙された。
祖母である池禅尼が平治の乱の時に若き日の源頼朝を救った縁から、平家滅亡後も鎌倉幕府との関係が深く、建保7年1月27日(1219年2月13日)に鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた源実朝の任右大臣の拝賀に京都から参列し、そこで実朝の暗殺事件を目撃することになった。
寛喜元年(1229年)正月に妻の死を悲しんで出家をするが、間もなく病に倒れて6月には7人の娘のために処分状を作成している[1]。しかし、翌7月に58歳で没した。
系譜
編集脚注
編集- ^ 岡野友彦『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002年) ISBN 978-4-7971-0738-8)P187-189.
参考文献
編集- 田中文英「平光盛」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8 P960.
- 野口実「平光盛」『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7 P1510.