世良公則&ツイスト

日本のロックバンド (1977-)

ツイストは、世良公則を中心に結成された日本ロックバンド[1]。ロックをメジャーにした ロックバンドである[出典 1]

ツイスト
別名 世良公則&ツイスト
出身地 日本の旗 日本
ジャンル ロック
活動期間 1977年 - 1981年
1993年
※一時的な再結成に関しては#再結成を参照。
レーベル キャニオン・レコード
AARD-VARK
1977年 - 1981年
MOON RECORDS
1993年
事務所 ヤマハ音楽振興会
1977年 - 1980年
MRT
1980年 - 1981年
メンバー 世良公則ボーカルギター
ふとがね金太ドラムス
鮫島秀樹ベース
神本宗幸キーボード
松浦善博(ギター)
旧メンバー 大上明(ギター)
太刀川紳一(ギター)

バンド名の由来

編集

ローリング・ストーンズのような音楽を演奏するならブラック・ミュージックを理解しておいた方が良いと思い、メンバー全員でサム・クックの「Twistin' the Night Away」を聴いていると「Twisting' Twisting'」と歌っており、「twist=ひねくれ」でもあるのでバンド名を「Twist」にしようと全員で決めたと世良は述べている[出典 2]

経歴

編集

アマチュア期

編集

前身バンドは世良が地元・広島県福山市の高校2年のとき加入したFBIバンドである[出典 3]。当時はビートルズディープ・パープルカバーをするバンドが多かったが、FBIバンドはローリング・ストーンズフェイセズを主にカバーし[出典 4]ブルースを志向していたため[13]、当時ブルースが盛んだった大阪にメンバー全員で進学[出典 5]。在学中に音楽コンテストの関係者から「ボーカルがヘタ」との指摘を受けたことから[出典 6]、それまでベースの担当だった世良がボーカルに交代した[出典 7]。今日のようにカラオケもなく、歌う場も限られ、世良はそれまでは自分が歌がうまいとは気付かなかったという[3]。世良たちが大学4年のとき、世良が正式にボーカルに専念した際にバンド名を"ツイスト"に変更した[4]

大学卒業が迫り、他のメンバーは就職先を決め[17]、退路を断ってプロを目指したのは世良だけ[出典 8]1977年、世良にとってはバンド解散のけじめとして、世良以外のメンバーにとっては、学生バンドの思い出作りとして[出典 9]ヤマハポピュラーソングコンテストに出場[出典 10]。10月、「あんたのバラード」がポプコン本選会でグランプリを獲得[出典 11]。世良作による同曲は、当時大阪の若者の間で流行っていたブルースをベースにすさんだ恋愛を唄ったもの[20]フォーク/ニューミュージック系シンガーが多かったポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのは初めてのことで[出典 12]、一つの"事件"だった[出典 13]。世良公則&ツイストのグランプリ以降、ロック系の楽曲が増えた[出典 14]。世良公則&ツイストがこの後、大きな人気を得たことで、ポプコンの名が世間に知らしめられ[25]、ポプコンはスターの登竜門として華々しくなっていった[出典 15]。11月の第8回世界歌謡祭でもグランプリを獲得[出典 16]、12日後の11月25日にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)/AARD-VARKレーベルからシングル盤「あんたのバラード」を発売した[4]。それは旧ツイストのメンバーによる世界歌謡祭で演奏したライブ音源である[出典 17]。このような経緯から世良自身は「バンドとしての愛着は(旧)ツイストの方にあった」と述べている[14]。世良と神本宗幸以外のメンバーがプロとして活動することを拒否したため、大学のバンド仲間で、別バンドに所属しているプロ志向の仲間達を加入させ、同月「世良公則&ツイスト」を結成[1]。その際、新メンバーたちが「『あんたのバラード』は世良が作った曲だし、世良の名前を残そう」と言ってくれたため、世良がその好意を受け取り「世良公則&ツイスト」とバンド名を変更した[11]。日本でロックがまだ浸透していなかった時代[出典 18]、一般レベルでは「ロック=不良」と単純化されて受けとめられていた[4]。世良は、家族や周囲から「ロックで食べていくことはできない。無謀だ」と口々に言われた[5]。「演歌歌謡曲フォークだけが音楽じゃないということを証明したい」「ロックを歌って認められたい」という意地だけで世良はプロとして生きる道を選んだ[5]

夜のヒットスタジオ」出演後、ヤマハのプロデューサーから勧誘を受け[14]、1978年2月に上京し正式にプロデビューとなった[出典 19]

世良公則&ツイスト期

編集

デビュー曲「あんたのバラード」では、静かなピアノイントロから一転する世良のあまりにもワイルドボーカルスタイル[出典 20]、ド派手なアクションは[出典 21]、多くの人の度肝を抜いた[出典 22]。これらは、それまで洋楽ロックコピーが多かった日本ロック界に新鮮な息吹を吹き込むものだった[出典 23]。「あんたのバラード」(オリコン最高6位[20]、46万枚[5])、「宿無し」(最高3位)、「銃爪 (ひきがね)」(最高1位)、「」(最高5位)、「燃えろいい女」(最高3位)と、立て続けに大ヒットを飛ばし一世を風靡した[出典 24]。ロックバンド・ミュージシャンが、シングルヒットを続けるのはそれまで前例が無く[出典 25]、ロックを大衆化させる推進力となった[17]。また1978年7月10日に発売したデビューアルバム世良公則&ツイスト』はオリコンで1位を記録[出典 26]、発売と同時に40万枚を売り上げた[17]。日本のロックバンドとしては、デビューアルバムが、チャートの1位を記録したのはこのアルバムが初めてであった[出典 27]

世良公則&ツイスト、Char原田真二の三組は「ロック御三家」と呼ばれ[出典 28]、初めて『ザ・ベストテン』などのテレビのランキング番組や歌謡番組、「月刊明星」「月刊平凡」等のアイドル雑誌、「セブンティーン」「プチセブン」などのティーン雑誌やテレビに頻繁に登場・出演した[出典 29]。世良公則&ツイストはロックバンドとして初めてアイドル雑誌の表紙も飾り、これがロックとは無縁だったファンを獲得することとなり、それまでのロックバンドにはなかった女性ファンを開拓して、新たな潮流を生み出すきっかけを創り出した[出典 30]。世良は様々な動きがセクシー[出典 31]、女性の目をロックに向けさせた[42]。先輩ミュージシャンからは「テレビなんかに出やがって」と反発され[49]、「あんなミーハーなのはロックじゃない」などとロック専門誌音楽評論家からは総スカンを喰らったが[出典 32]英語のロックに対する"遠慮"が蔓延していた時代に[4]、臆面もなく日本語でロックを歌い切るアーティストがブラウン管に出てきたことは[51]、日本の音楽シーンにとって大きな衝撃だった[出典 33]。世良を見て初めてロックに触れた人も多く[33]、世良の独特なドスの効いた声にスタンドマイクを縦横無尽に"操り"ながら歌うスタイルは、放課後清掃の時間に柄の長いほうきをマイクに見立ててマネをする男子の定番[出典 34]。勿論、若い女性層からの支持は圧倒的だったが[5]、男子小中高生の支持も高かったといわれる[5]。これがさまざまなベストテン番組で1位になる原動力となった[5]

世良公則&ツイストの活躍が特に目立ったのが1978年1月から始まった『ザ・ベストテン』だった[18]。社会的にも影響力の大きかった当番組に於いて、全盛期の沢田研二山口百恵西城秀樹ピンクレディーら、歌謡曲の大スターを抑えて、初年度のシングル・年間第1位(「銃爪 (ひきがね)」)[18]、年間第3位(「宿無し」)を獲得[53]。特に3枚目のシングル「銃爪」は1978年の9月から11月まで同番組で10週連続1位と、3か月の間1位に居座り[出典 35]、レコード売上げも94万枚に達した[5]。『ザ・ベストテン』10週連続の1位は、「ルビーの指環」(寺尾聰、1981年)12週連続に次ぐ歴代でも2位となる[54]。同じヤマハ所属の中島みゆきは、頑なに当番組に出演しなかったが、世良公則&ツイストは積極的に出演した[55]。画面からはみ出す程のイキのいいパワーが視聴者を魅了した[55]。『ザ・ベストテン』は、ニューミュージック系歌手の曲を紹介するというコンセプトで始まった番組であったため[56]、番組立ち上げ期に彼らの出演がなければ『ザ・ベストテン』が伝説になることはなかった[55]。同番組プロデューサー・山田修爾は「間違いなくツイストは『ザ・ベストテン』初期の功労者のひとりである」と述べている[55]

1977年4月から1980年7月まで徳間書店から『Young Rock』という洋楽アーティストを専門に扱う月刊音楽雑誌が刊行されていたが、世良公則&ツイストはその1978年10月号で、原田真二、レイジー、スロッグとともに日本のアーティストとして初めて誌面に取り上げられ[17]、巻頭グラビアと本文で17頁に亘る特集が組まれた[17]。同誌の記事で「まさにスイ星のように現われ、早くも大物の位置にまで登りつめてしまった世良公則&ツイスト。沢田研二が、矢沢永吉が成し得なかったことをやりとげそうな、そんな予感のする男ー世良公則」[17]「世良公則&ツイストはデビュー一年足らずの間にそのパワフルでエキサイティングなロックは、潜在的なロックファンを強烈に吸収してしまったようだ。それはかつてなかったスタイルの新しいサウンド・フィーリングで聴く者、見る者の胸を熱くする」[17]「ロック御三家の台頭によって、日本のロック界がクローズ・アップされつつある」などと評されている[17]。また同誌1979年4月号では「今、日本のロックに大きな嵐が吹き荒れようとしています。支流だったものが、川幅を広げ、深さを増し、本流にとって代わろうとしているのです。ここまで来るには、長い時間の積み重ねがあったわけですが、昨年(1978年)からの日本のロック旋風の火付け役、まさに"銃爪"となったのがツイストでした」[10]サウンドも"なり"も、明らかにロックと呼ばれるジャンルに属する6人のムサ苦しい野郎たちが作り出したものが、こんなにたて続けのヒットとなり、若いファンを吞み込んだということは、おそらく日本の音楽史上初めてのことではないでしょうか。確かにB・C・R旋風という土壌があったでしょう。その証拠に、チャー、原田真二、レイジーなどが、ツイストの出現前にジワジワ上昇していましたから。でもこの時点ではまだ誰もロックがチャートの1位になる、おカネになる、とは思っていなかったはずです。ジワジワ燻っていた土壌にツイストが火を付け、たった1年で状況をコロッと変えてしまったのです。現在、ヒット・チャートを上昇している甲斐バンド(「HERO(ヒーローになる時、それは今)」)などのロックの中堅どころも、ツイストの活躍を見て奮起したという部分もなくはないでしょう。また、プロを目指す数多くのアマチュア・グループを勇気づけ、予備軍の数を増やしたことも事実でしょう。このように彼らがテレビを始めとする巨大なマスコミを通じて与えた影響・功績は大きなものがあります(中略)日本人の心の故郷といわれる演歌の要素と、ビート世代のロック感覚の両方を持ち合わせたツイストサウンドは、ロッド風、フェイセズ風といわれようが、明らかに日本独自のもの、ツイスト独自のものです。そんな彼らが今後の音楽界をリードしなくては、いつまでたってもロックはうるさいもの、外国のマネという偏見をぬぐい去ることは出来ないでしょう」などと論じている[10]。まだまだ日本ではロックに対する偏見が強く[5]生徒手帳に「世良公則&ツイストのコンサートに行ってはいけません」といういう校則があった中学や高校があったといわれる[5]

「ロック御三家」のうち最初にテレビに出始めたのはCharであったが[出典 36][注釈 1]、女子中・高生を中心に爆発的人気を得たのは、1977年10月にデビューした原田真二と11月にデビューした世良公則&ツイストであった[出典 38]。特に1978年後半には、世良公則&ツイストは人気やレコードセールスの点では完全に他の二人に水をあけ、歌謡曲を含めてもトップスターになった[60]。当時の音楽誌は「いまようやく、日本のロックは世良公則&ツイストの手で、メジャーになろうとしている」と書いた[出典 39]

歌謡曲ニューミュージックの全盛期に[13]、「ロックも売れる」ことを初めて証明したバンドであった[出典 40]。ロックの楽曲が最初に売れたのはダウン・タウン・ブギウギ・バンドのシングル「スモーキン・ブギ」(発売は1974年12月[注釈 2])、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年6月[注釈 3])であるが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド自体が"ロック"として見られておらず(宇崎竜童[65])、当時は歌謡曲、演歌フォークが強く、他にロック系の後続がなくロックはメジャーにならなかった[出典 41][注釈 4]

The Music』は1979年2月号で「第3回ザ・ミュージックが選んだ、78年度ベスト・ミュージック ザ・ミュージック・アウォーズ」を実施し、選定委員、池上比沙之、大伴良則、小倉エージ北中正和田川律立川直樹音楽評論家6人が、1978年にリリースされた国内アルバムの新人ベスト1アルバムとして『世良公則&ツイスト』を選出し、その評価として「彼らは、音楽の域を矢沢永吉とはまた別の方向で広げた、というのは、彼らの根底にある演歌や歌謡曲が、ロックとの融合を見事に果たして、全く新しいジャンルを生み出したことである。外国のロックだけに向いていたロック・ファンの目を国内に向かせただけでなく、強力なリズムとアクションで日本の歌謡界に新風を吹き込んだ功績は大きい」などと評価した[70]。また「私が選んだ78年のベスト・レコード」のコーナーで、翌1979年に「セクシャルバイオレットNo.1」の大ヒットを出す桑名正博が、1978年の音楽状況を振りかえり「世良公則、原田真二、Charたちの活躍でロック・ミュージック(あえてロックです)というものが、前にもまして一般の人にも定着してきたと思います。去年の沢田研二のレコード大賞もうれしかったけど…来年は僕も張り切らにゃあ、いけませんナァ」などと述べている[70]

"ロックのメジャー化"は、最も商業的に成功した世良公則&ツイストを筆頭とした「ロック御三家」と、マスメディアを拒否しながら、1978年に出したシングル「時間よ止まれ[注釈 5]と2枚のアルバム『ゴールドラッシュ[注釈 6]、『LIVE 後楽園スタジアム[注釈 7]を全てヒットチャート1位にし、自伝本『成りあがり』のベストセラー長者番付でロック系ミュージシャンとして初めて1位となった矢沢永吉[出典 43]や、「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れで世に出たサザンオールスターズ[出典 44][注釈 8]、この年の年末から翌1979年にかけて大ヒットを出したゴダイゴ[注釈 9]甲斐バンド[注釈 10]ら、この時代誰も予想だにしなかったロック系のヒットラッシュからで、これらの大ヒットは音楽マーケットに大きな革命を起こした[出典 48]J-POPシーンの盛況は、商売にならなかったはずのロックが商売になり始めた77 - 78年に始まったとも評される[8]。ただし前述のように"日本のロック"は「世良公則&ツイストがメジャー化した」とする文献や[出典 49]、「ツイストが日本のロック旋風の火付け役になった」[10]、「ロック御三家」が「日本のロックをメジャーに押し上げた」とする文献もある[出典 50][注釈 11]。『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』は「歌謡曲と演歌、ニューミュージックで占められていたチャート上位にロック勢が顔を出すことなど、とても考えられないというのが普通の時代。そんな状況に風穴を開けた代表的存在が世良公則&ツイスト」[66]「世良のコブシの効いた歌唱法も含めて"歌謡ロック"の印象が強い。だがそれはまったくマイナス要因とはいえない。むしろロックと歌謡曲の境目がほとんどなくなっている現在(2001年)の状況を考えれば、彼らの音楽性はまさにJ-ROCKの元祖そのものといえる」と評している[66]

バンドの形態でも大きな功績を残している。基本的に楽器を持たず、ボーカルに徹する強力なボーカリストをフロントに立てるバンドスタイルは、ツイスト以降、甲斐バンド、ゴダイゴ、RCサクセションらが商業的に成功したことで、日本のロックバンドの一形態を作った。これは現在も売れるバンドの常套手段となっている。ツイストらが興したロックのメジャー化は、後のロック・バンドへも多大な影響を与えることになった[出典 51]

世良公則&ツイストら「ロック御三家」が売れた理由として、英米のロックバンド・ミュージシャンの影響を指摘する論調が当時あった[出典 52]。「ロック御三家」が出る前の1976年から1977年にかけてベイ・シティ・ローラーズキッススージー・クアトロランナウェイズら、英米のロックバンド・ミュージシャンが日本で売れて[10]、日本のマスメディアにも大量に露出した[出典 53]。スージー・クアトロは、日本酒サケロック大関」のテレビCMもやった[88]。世良公則&ツイストがデビューした頃は、アメリカイギリスのロックバンド・ミュージシャンが続々来日し、かなりの観客を動員していた[17]。当時、や、クリエイションジョー山中など、日本のロックミュージシャンは音楽関係者からも評価が高く[17]、「英米のロックに引けを取らない」などと評されていたが[17]、人気とは結び付かず[17]。活動の場はライブ・スポットなどの小ステージに追いやられ、「日本のロックの広がりはありえないんじゃないか」と極論する音楽評論家もいた[17]。世良公則&ツイストの登場前に2年ほど、ベイ・シティ・ローラーズ(B・C・R)ブームがあり[17]、このB・C・Rはアイドル性が高く、歌謡曲やフォークファンも虜にした[17]。B・C・Rのファンたちは、ポップ&ロックに親しみ、歌謡曲歌手とは違う、ロック・コンサートの熱気に興奮した[17]。このB・C・R人気がアイドル性も高かった"世良ロック"に抵抗なくスライドしていったという見方もある[17]

ツイスト期

編集

1978年暮れの「第20回日本レコード大賞」は最優秀新人賞を辞退した[89]。それまでもニューミュージック系歌手のテレビ拒否は珍しくなかったが、賞レースに関しては出演はしないまでも賞自体は受けていた。ましてやブラウン管でおなじみのツイストが賞レースを拒否したことは大きな物議を醸した[31]

デビュー時から世良の人気が突出し[31]、バンドながら雑誌類では世良一人での露出も多かった[31]。大半の楽曲も世良が手掛けていたため、世良だけが注目されて、リーダーはふとがね金太というのも忘れ去られ[31]、他のメンバーはただのバックバンドとして見られるようになってしまった[31]。ロックがまだテレビ関係者に理解してもらえてない時代で[11]、世良が歌い始めたらメンバーとの間に書割(舞台セット)を降ろされたり[11]、カメラマンに「間奏のギターソロのときギターを映して下さい」と頼み、ギタリストの横に移動したら「あいつは場位置を守らない」と言われたりした[11]。このため、バンドの結束を危惧した世良自身がバンド名から世良の名を外すとメンバーに提案し"ツイスト"に改名した[出典 54]

1979年、春の全国ツアー終了後、太刀川が脱退し松浦善博が加入。1979年4月に出した2枚目のアルバム『ツイストII』もオリコン1位を獲得(二週連続)。資生堂の'79 夏キャンペーンイメージソング「燃えろいい女」(1979年4月発売、最高位3位)も大ヒット[出典 55]SOPPO(1979年10月発売、最高位6位)もヒットし、この年の第30回NHK紅白歌合戦にも出場した。「ロック御三家」で2年連続出場したのはツイストだけで、この年、いずれも初出場だったサザンオールスターズ、ゴダイゴと共に出場。ロック系歌手の出演はこの3組だけであった。

再結成

編集

1981年12月の最初の解散後[28]、何度か再結成をしている。

  • 1987年7月16日に『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に登場し、「性」を演奏。
  • 1987年8月5・6日に広島ピースコンサートの2日目に1日限定で出演。この中から「宿無し」がV.A.ライヴアルバム『ALIVE HIROSHIMA'87』に収録。
  • 1993年には本格再結成して新作オリジナルアルバム発売とツアーを開催。ライブDVDも発売。
  • 1996年5月16、17、18日に神戸のライヴハウス「チキンジョージ」でライブを敢行。ライブCDを発売。
  • 1999年5月4日に日比谷野外音楽堂でのイベント・MUSIC DAYに出演。
  • 2003年には世良公則がツイストのカヴァーアルバムをリリースするのに合わせ、鮫島、神本のツイストメンバーに外国人ミュージシャンを加えた「MR.SERA+TWIST INTERNATIONAL」を立ち上げ、日本武道館などでライヴを行う(鮫島のサポートとしてベーシストの櫻井哲夫もゲスト参加)。
  • 2007年に「世良公則&TWIST INTERNATIONAL」名義のアルバム『JACARANDA』をリリース。

メンバー

編集

以下は1981年の解散時メンバー

以下は途中脱退メンバー

  • 大上明(ギター)※脱退後も『BEST&LAST』および『ROUND2』の制作に参加
  • 太刀川紳一(ギター)

ディスコグラフィー

編集

シングル

編集

※ 全てキャニオン/AARD-VARKレーベル

# 発売日 規格品番 最高位 タイトル 作詞 作曲 編曲 備考
世良公則&ツイスト
1st 1977年11月25日 V-31 6位 あんたのバラード 世良公則 世良公則&ツイスト
知らんぷり
2nd 1978年4月10日 V-28 3位 宿無し
マギー
3rd 1978年8月10日 V-29 1位 銃爪
cry
ツイスト
4th 1978年12月21日 V-34 5位 性 (サガ) 世良公則 ツイスト
ギリギリ橋 ふとがね金太 太刀川紳一
5th 1979年4月5日 V-38 3位 燃えろいい女 世良公則 ツイスト+木森敏之 資生堂 '79 夏キャンペーン イメージソング
BYE(バーイ) ふとがね金太 ツイスト
6th 1979年10月21日 V-42 6位 SOPPO 世良公則 ツイスト+Toche
晩炎-BURNING POINT- ふとがね金太
7th 1980年2月21日 V-47 12位 LOVE SONG 世良公則 ツイスト 日本航空 '80 沖縄キャンペーン イメージソング
HELLO ふとがね金太 世良公則
8th 1980年7月5日 V-53 29位 身に覚え (LIVE) ふとがね金太
Good-by Lover -風にまかれて- (LIVE) 世良公則
9th 1980年11月21日 7A-0031 26位 レイディ 世良公則 ツイスト+福井
IKARETERU HIKARETERU 鮫島秀樹 ツイスト
10th 1981年4月5日 7A-0066 52位 恋のコレクトコール 世良公則
TOUCH ME
11th 1981年11月21日 7A-0132 82位 SET ME FREE ツイスト
御用心

アルバム

編集

オリジナルアルバム

編集
# 発売日 規格 規格品番 タイトル 最高位
世良公則&ツイスト
1st 1978年7月10日 LP VX-9004 世良公則&ツイスト 1位
1994年11月18日 CD PCCA-00659
2001年12月19日 YCCU-00005
2008年10月22日 CD(紙ジャケ) VICL-62769
2017年5月3日 Blu-spec CD2 YCCU-10044
ツイスト
2nd 1979年4月21日 LP C25A-0036 ツイストII 1位
1994年11月18日 CD PCCA-00660
2008年3月19日 CD(紙ジャケ) VICL-62770
3rd 1980年4月21日 LP C25A-0091 The Heart Rock Party
2008年3月19日 CD(紙ジャケ) VICL-62771
4th 1981年5月5日 LP C28A-0159 Hip!!
1995年5月19日 CD PCCA-00756
2008年3月19日 CD(紙ジャケ) VICL-62772
5th 1993年7月25日 CD AMCM-4169 ROUND 2
1996年8月20日 AMCM-5056

ベスト・アルバム

編集
発売日 規格 規格品番 タイトル 最高位
ツイスト
1981年12月5日 LP C38A-0198 BEST&LAST
1996年5月17日 CD PCCA-00955
2008年3月19日 CD(紙ジャケ) VICL-62775/6
1989年1月21日 CD 30P-3131 ツイスト BEST HITS 16
D32P-6318
1993年7月7日 PCCA-00465 ツイスト/ベスト・ヒット・シングルズ
世良公則&ツイスト
1999年3月25日 CD TECN-25494 世良公則&ツイスト/ベストコレクション
2003年3月26日 KICS-2404 世良公則&ツイスト ベスト
2006年12月21日 KICS-2478 ポプコン・マイ・リコメンド 世良公則&ツイスト
世良公則/ツイスト
2005年7月27日 CD WPCL-70516 究極のベスト! 世良公則/ツイスト
2008年7月1日 KB-20 世良公則/ツイスト ベスト&ベスト
2012年12月1日 WQCQ-187 世良公則/ツイスト スーパーベスト・コレクション

ライブアルバム

編集
# 発売日 規格 規格品番 タイトル 最高位
ツイスト
1st 1980年12月5日 LP C40A-0135 TWIST ALIVE
1995年5月19日 CD PCCA-00757
2008年3月19日 CD(紙ジャケ) VICL-62772/3
2nd 1993年7月25日 CD AMCM-5057 LIVE BEST '93
3rd 1996年11月25日 CD Live at Chicken George '96[91]

ライブビデオ

編集
# 発売日 規格 規格品番 タイトル 備考
ツイスト
1st 1981年 TWIST ALIVE 1980年9月14日大阪万博広場でのライブを収録。
2nd 1993年6月25日 VHS ZVHS061 よっしゃ。'93復活ライヴ 1993年5月22日NISSIN POWER STATIONでのライブを収録。

タイアップ一覧

編集
使用年 楽曲 タイアップ
1978年 燃えつきぬ 関西テレビフジテレビ系ドラマ『一発逆転』主題歌[92]
1979年 燃えろいい女 資生堂 '79 夏キャンペーン・ナツコの夏 イメージソング
1980年 HIKARETERU, IKARETERU フジテレビ系ドラマ『探偵同盟』エンディングテーマ[93]
LOVE SONG 日本航空 '80 沖縄キャンペーン イメージソング

NHK紅白歌合戦出場歴

編集
年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手
1978年(昭和53年)/第29回 あんたのバラード 07/24 庄野真代
1979年(昭和54年)/第30回 2 燃えろいい女 06/23 岩崎宏美
注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ Charのデビューは1976年6月の「ネイビー・ブルー」だが、テレビに出始めたのは1977年6月の自作曲でない阿久悠とのコラボレーション気絶するほど悩ましい」発売以降[出典 37]。Charは曲が大ヒットしたとは言えず(「気絶するほど悩ましい」、オリコン最高位12位)、1978年初頭から始まった『ザ・ベストテン』でCharはランク入りすることなくスポットライトで1度出演し、1978年12月、麻薬問題で活動を一時休止しマスメディアから消え、1979年に活動を再開する[59]
  2. ^ オリコン最高位4位。当時はオリコンの知名度はあまり高くなく、調査会社はオリコン以外にミュージック・リサーチとミュージック・ラボがあり(参考:『ホットドッグプレス講談社 1980年2月号、p.103)『ザ・ベストテン』のレコード売り上げは3社の結果を集計していた。レコードの売り上げは三社で異なるが、ミュージック・リサーチとミュージック・ラボの過去順位を、現在調査するのは困難なためオリコンの順位を掲載することとなる。
  3. ^ 6月23日付けから5週連続、オリコン最高位1位。
  4. ^ ダウン・タウン・ブギウギ・バンド以前のはっぴいえんどキャロルは、現在"日本のロックの祖"として評価されることが多いがレコードは売れなかった(『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』p.168、キャロル最大のヒット曲「ファンキー・モンキー・ベイビー」最高位57位、8万枚)。はっぴいえんどが音楽的に評価されたのは、後年に元メンバーがそれぞれ活躍して以後、日本語でロックを演奏したバンドとして評価された[出典 42]
  5. ^ 1978年6月12日付けから3週間1位[71]
  6. ^ 1978年6月12日付けから5週連続1位。
  7. ^ 1978年12月18日付け1位。
  8. ^ サザンオールスターズがデビューしたのは1978年の6月で、原田真二がアミューズを辞めて同社の所属タレントが0になったため、代わりに売り出されたスターだが[出典 45]、サザンオールスターズはデビューして2か月鳴かず飛ばずで、7月31日の『夜のヒットスタジオ』でのブラジル人ダンサーを加えた派手な演出や、初年度の『ザ・ベストテン』が解散に向かうキャンディーズを全国に追いかけるというのがの目玉の一つだった関係で、同番組のプロデューサー・弟子丸千一郎と大里洋吉が旧知の間柄だったため、サザンオールスターズをライブハウス新宿ロフトから中継の形で「スポットライト」(1978年8月31日)に登場させて売り出した[74]。サザンオールスターズは「ロック御三家」と同様、テレビを有効に活用して売り出したスターでもあった[出典 46]桑田佳祐自身、「テレビやラジオに特別恩恵を受けた世代」と述べている[78]。デビュー曲「勝手にシンドバッド」が大ヒットしたのは同年の秋のこと(10月9日付、最高位3位)。前述のようにこの時期は、世良公則&ツイストの「銃爪(ひきがね)」が『ザ・ベストテン』の10週連続1位に居座っていた時期でもあり、サザンオールスターズが世に出たのは歴史的に見れば「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れとなる。Charがマスメディアから消えた代わりに「ロック御三家」に入ってきた形となったのがサザンオールスターズで、"ロックのメジャー化"ということで言えば、サザンオールスターズが世に出た時には、既にロックはメジャー化していた、と見ることも出来るのである。サザンオールスターズのデビュー時の担当ディレクターだった高垣健も「サザンオールスターズのデビュー当時は、日本のロックポップスがビジネスになり始めた時期だった」と証言している[79]
  9. ^ ゴダイゴが売れたのは1978年10月1日に発売した(大ヒットしたのは1979年、最高位2位)「ガンダーラ」から[出典 47]
  10. ^ 甲斐バンドが売れたのは自身もCMに出演したセイコーのCMソング「HERO(ヒーローになる時、それは今)」の大ヒット(1979年2月26日付からオリコン最高位1位2週連続)から[10]電通段階では、矢沢永吉、原田真二が先に上がったがメジャーに成り過ぎ等の理由で甲斐バンドの大抜擢になったもの。電通もセイコーも関係者で甲斐バンドを知っている人はほとんどいなかったという[80]
  11. ^ 長沢ヒロ&HERO インタヴュー(Archive) これは「ロック御三家」と同時期に活動したロックバンド・「長沢ヒロ&HERO」が1978年、ロック誌に答えたインタビュー。当時いわれた"ロック御三家による日本のロックのメジャー化"について言及している。ドラムスは、後にBOØWYに参加する高橋まことである。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 世良公則&ツイストおんがく日めくり | YAMAHA(Internet Archive)、今月の音遊人:世良公則さん「僕にとって音楽は、ロックに魅了された中学生時代から“引き続けている1本の線”なんです」世良公則&ツイスト ヤマハミュージックコミュニケーションズ
  2. ^ a b 「【Artists Interviews】 世良公則」#s40pa pp.26-31
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 世良公則が激白!「今も100%」77年世界が驚いたパフォーマンス&エネルギー(Internet Archive)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m カンパネラ・ロングインタビュー 【世良公則】ロックな歩みは、情操教育のバイオリンから始まった(Internet Archive)、カンパネラ・ロングインタビュー 【世良公則】解散の覚悟が勝ち取った、「あんたのバラード」のグランプリ(archive)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 【1978年10月】銃爪/日本のロックバンドのパイオニア ツイストの最大ヒット曲 世良公則 「世良公則&ツイスト」時代の“都市伝説”は本当だった 生徒手帳に書かれていた校則
  6. ^ 世良公則、35周年で初カバー集 モンパチ、尾崎らの名曲歌う深田武志 (2024年1月27日). “ミュージシャン世良公則さん 食生活変え、常に最高地点 食の履歴書”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). オリジナルの2024年1月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240127093828/https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD22DAC0S3A221C2000000/ 2024年3月15日閲覧。 世良公則「『燃えろいい女』は広告を学んだ僕の集大成だった」 | Smart FLASH 世良公則「日本では“10代に支持されると本物じゃない”という風潮があった」世良公則 カバーアルバム「BACKBONE」MV一般公募企画、優秀作品発表「ロング・インタビュー」に世良公則さん登場 : 読売プレミアム(Internet Archive)、【1978年10月】銃爪/日本のロックバンドのパイオニア ツイストの最大ヒット曲GUILD9のライブのエネルギーを受け取ってほしい - 世良公則インタビュー | マイコミジャーナル毎日jp - 音魂 第12回 世良公則 日本のロック定着に力を尽くした30年(archive)、カンパネラ・ロングインタビュー 【世良公則】ロックな歩みは、情操教育のバイオリンから始まった(Internet Archive)、世良公則「日本では“10代に支持されると本物じゃない”という風潮があった」世良公則、35周年で初カバー集 モンパチ、尾崎らの名曲歌う【ヒューマン】世良公則「毎日がセッション」(2/2ページ)(archive)、oricon career 私の人生グラフ 時代の最前線にいるあの人の、過去・現在・未来を直撃 ...HMV 世良公則 / 照日本のロックを変えた男・世良公則、メリル・ストリープ主演『幸せをつかむ歌』で初の映画トークショーに挑戦!世良公則さんロングインタビュー Vol.6 - Guitar Labo(Internet Archive)、「対決3」 茶の間にロックの風を吹き込んだ正統派バンド。 | 昭和40年男ゴダイゴ vs 世良公則&ツイスト。3番勝負解説!! | 昭和40年男 (archive)、“あの世良公則”ではなく、“この世良公則”を聴いてほしい/世良公則インタビュー【特別掲載】 世良公則 生まれ故郷 広島県福山城で熱狂の野外ライブ ライブレポート掲載!!織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007デビュー35周年記念アルバム2タイトル同時発売!!世良公則、35周年記念カバーアルバムのミュージックビデオを公募世良公則がデビュー35周年記念ライブ開催。マーティー・フリードマン、野村義男と競演#358 映画音楽メドレー&ツイスト特集(ツイスト、スペクトラム)「生身のロッカーでいたい」 世良公則さんインタビュー 産経新聞 2009年6月2日、日本ロック大系〈上、下巻〉 1990年 月刊オンステージ編集部白夜書房 p.415、田家秀樹・大越正実・藤井徹貫・前田祥丈・下村誠共著『日本のベストアルバム』、シンコー・ミュージック、1992年、p.216、「SONGS」、NHK、2008年1月30日、日刊スポーツ2012年10月14日16面「日曜日のヒーロー826 世良公則 90歳までロック」
  7. ^ a b c d e 世良公則&ツイスト(2):富澤一誠のフォークが好き (Internet Archive)、第64回 79年はロックの夜明け / Slownet -SNS(Internet Archive)、第61回 ニューミュージック第三世代の出現(Internet Archive)、第62回 ニューミュージックもテレビをメインに新戦略(Internet Archive)、矢沢永吉:富澤一誠のフォークが好き(archive)
  8. ^ a b c d e f g #rcj1 pp.21,50-51,81,84,156,180
  9. ^ a b c d e f g h i j k l この人もデビュー40周年“世良公則”【GO!GO!ドーナツ盤ハンター】チャッピー加藤 (2021年10月4日). “知ってる?1977年にブレイクした日本語ロックのルーツ!?「ロック御三家」”. ニッポン放送 NEWS ONLINE. ニッポン放送. 2020年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i スターランド社(編)「ツイスト セカンドアルバムに没頭、最初の岐路に立って 今、静かな闘志を燃やす 文・藤沢映子」『Young Rock』1979年4月号、徳間書店、42–43頁。 
  11. ^ a b c d e f g h i j 【関西レジェンド伝】世良公則(1)バイオリンも4弦だからベース担当【関西レジェンド伝】世良公則(2)「あんたのバラード」は学生時代のツイスト
  12. ^ 私の人生グラフ 時代の最前線にいるあの人の、過去・現在・未来を直撃 ...vol.2
  13. ^ a b c d e f g h i j k 『世良公則&ツイスト』は ロックを世に広めた 日本音楽史上最大の ブレイクスルー作品
  14. ^ a b c d e f g h 世良公則さんロングインタビュー Vol.2 - Guitar Labo(archive)、世良公則さんロングインタビュー Vol.3 - Guitar Labo (archive)、世良公則さんロングインタビュー Vol.5 - Guitar Labo(archive)、世良公則さんロングインタビュー Vol.6 - Guitar Labo(archive)
  15. ^ 世良公則 うたまっぷ
  16. ^ a b c d 天才テリー伊藤対談「世良公則」(1)演じた貴船教授は真の悪人じゃない天才テリー伊藤対談「世良公則」(3)デビューの頃には悔しい思いも‥‥天才テリー伊藤対談「世良公則」(4)世良さんは天性のボーカリストだね
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y スターランド社(編)「世良公則 ザ・ヒーロー/クローズ・アップ 世良公則&ツイスト解剖 フォークと演歌とロッド・スチュアートの融合 文・寺村敏」『Young Rock』1978年10月号、徳間書店、3–14,27,38–41頁。 
  18. ^ a b c d e f g h i j 太田省一 (2019年12月3日). “文化・エンタメ ニッポン男性アイドル史 世良公則&ツイスト、そして1980年代へ”. 論座. 朝日新聞出版. 2019年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
  19. ^ a b 読売新聞社文化部『この歌 あの歌手(下)』社会思想社、1997年、pp.50-54
  20. ^ a b c d e f g 甲斐バンド、桑名正博、世良公則…ロックをお茶の間に浸透させたミュージシャンの苦悩と創意工夫”. ラジトピ ラジオ関西トピックス. ラジオ関西. p. 4 (2023年7月4日). 2023年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月15日閲覧。
  21. ^ a b 世良公則38年間のロック人生 14日ベストアルバム発売
  22. ^ a b c d 『一九七〇音楽人百科』 学習研究社、1994年、p.137
  23. ^ ポプコンの流れを変えた「ツイスト」
  24. ^ 「スタッフが語るポプコン」#s40pa pp.13-17
  25. ^ a b ゴダイゴ vs 世良公則&ツイスト。3番勝負解説!! | 昭和40年男
  26. ^ “音楽の祭典「ポプコン」を熱く、語り尽くす 八神純子、渡辺真知子、NSP、因幡晃が約40年ぶりに大集結”. 週刊朝日. (2013年7月26日). オリジナルの2013年9月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130915151210/http://astand.asahi.com/webshinsho/asahipub/weeklyasahi/product/2013072200004.html 2013年8月20日閲覧。 
  27. ^ 「ポプコンの歴史と意義」#s40pa pp.8-12
  28. ^ a b c 石山真一郎 (1984年11月12日). “いま 『ザ・オーディション』で初主演 芝居づく世良公則 それでもボクは音楽屋 ロックへの情熱に童顔染めて…”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 21 
  29. ^ 富澤一誠「特集2大ヴォーカリスト 甲斐よしひろ 世良公則の魅力をさぐる」『新譜ジャーナル』 1978年7月号 自由国民社 pp.20-25
  30. ^ 世良公則デビュー35周年アニバーサリーライブ伝説のステージパフォーマンスに超満員の観客熱狂!(archive)
  31. ^ a b c d e f g #石原 pp.112-113,135-137
  32. ^ a b 世良公則:デビュー45周年記念コンサート WOWOWが11月に放送・配信ROLLY:“濃縮ボーカル”で「燃えろいい女」を熱唱 70年代の邦ロックカバー第2弾を語る
  33. ^ a b c d e f 世良公則「日本では“10代に支持されると本物じゃない”という風潮があった」page=2
  34. ^ a b c d 日本語ロックの立役者のひとり 世良公則のセクシャルな「歌謡ロック」の魅力とは?世良公則、新たなスタートラインとなったデビュー45周年記念コンサート 若き日のロックミュージシャンとしての夢も語る
  35. ^ a b c d e 「生きることは色濃く音楽に結びついていく」──増子直純(怒髪天)が選ぶ「不滅の名盤 」×「MUSIC SOUP -45r.p.m.-」(archive)
  36. ^ a b c NHK「The Covers」2023年の幕開けは! デビュー45周年! 世良公則&ツイストナイト! 奥田民生の名曲を野村義男と弾き語りカバー! ツイストの大ヒットナンバーセルフカバー!ツイスト時代の曲をセルフカヴァーした世良公則が語る現在と未来世良公則 - KIRIN BEER "Good Luck" LIVE - TOKYO FM 80.0MHz
  37. ^ a b c 世良公則、「The Covers」登場 ツイストの名曲パフォーマンスやロックへの思いを語る
  38. ^ a b 【ヒューマン】世良公則「毎日がセッション」(2/2ページ)(archive)
  39. ^ プロフィール|世良公則|日本コロンビアオフィシャルサイト
  40. ^ ロックに生きる・世良公則さん登場: 動画 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)” (2015年2月). 2015年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月26日閲覧。
  41. ^ 世良公則 - NHK人物録
  42. ^ a b c 名田貴好; 橋倉正信『青春音楽グラフィティ タイガースからYMOまで』集英社集英社文庫 COBALT-SERIES〉、1981年4月、256–259頁。 
  43. ^ ぴいぷる 衝撃の天才ギタリスト・Char シャウトし続けて45年 晩年のほうがいいって言われたい 阿久悠さんと組んだところが転機(2/3ページ)(archive)、奥田民生「Charかジミヘンかみたいな感じ」小学生時代の衝撃的な出会いを語る世良公則×吉川晃司、大阪野音で初共演。「僕自身が一番楽しみにしている」いつものうた/世良公則 feat. つるの剛士 - Mora平成ガール・さにーさんが語る! 昭和の“御三家ソング”♪(Internet Archive)、J-POP編 | スターデジオ15周年特別企画 音楽再発見 - STAR digioあの年この歌~時代が刻んだ名曲たち~昭和52年(1977年) ロック御三家登場!Twist 世良公則&ツイストツイスト誕生の大阪で世良公則40周年公演ロック御三家、永ちゃん、サザンオールスターズのミラクルイヤー!!アイドル路線で人気絶頂 一段落して芽生え始めた疑問 バンダイナムコアーツ 副社長 井上俊次氏(8)桑田佳祐、佐野元春、世良公則、Char、野口五郎 還暦過ぎた同級生5人が集結
  44. ^ 世良公則「歌う役を避けていた僕が、朝ドラ『カムカム』で歌った理由。音楽の力を、ドラマに教えられた」 「世良公則&ツイスト」でデビューから45年 NHK『紅白歌合戦』に出場<前編>、日刊スポーツ2012年10月14日16面「日曜日のヒーロー826 世良公則90歳までロック」
  45. ^ a b 還暦迎える世良公則 デビューが近いサザンを「戦友」と評す
  46. ^ SONGS 第35回 世良公則 - NHKオンライン
  47. ^ #売れたもの p.199
  48. ^ 田家秀樹・大越正実・藤井徹貫・前田祥丈・下村誠共著『日本のベストアルバム』、シンコー・ミュージック、1992年、p.102
  49. ^ a b 世良公則コロナ時代に“政治発言”連発 根底に43年間のロック魂
  50. ^ 世良公則 “40年間コンティニューし続けている” 変わらぬロック・スピリッツと変化や進化を続けることの凄み。JET ROXとのツアーも!
  51. ^ 桑田佳祐さん“同級生”を語る”. クローズアップ現代. 日本放送協会 (2022年6月21日). 2022年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月8日閲覧。
  52. ^ 第2回:今宵も絶好調な・・・ 増子直純(怒髪天)
  53. ^ #ベストテン p.264, 270
  54. ^ 西城さんと大衆消費社会(眼光紙背)
  55. ^ a b c d #ベストテン p.166
  56. ^ #ベストテン pp.188-189
  57. ^ 『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』 1996年 ミュージック・マガジン pp.164-165,370-379
  58. ^ ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1999年 音楽出版社 p.51, 84
  59. ^ a b c #日本ロック大系 pp.415-417,476-477,505
  60. ^ a b #FMfan p.87, 98
  61. ^ a b #FMfan p.75
  62. ^ 「生身のロッカーでいたい」 世良公則さんインタビュー 産経新聞 2009年6月2日
  63. ^ a b c #J-ROCK pp.158-160
  64. ^ 富澤一誠 『青春のバイブル』 1983年 シンコー・ミュージック p.232
  65. ^ 『ミュージック・マガジン6月増刊 スペシャル・エディション[パート2] 1974-1977』1996年 ミュージック・マガジン p.324
  66. ^ a b c d e #名盤ガイド p.60, 200, 237
  67. ^ a b c d #日本のロック p.100,104-105,110
  68. ^ 細野晴臣・鈴木惣一郎著『分福茶釜』 2008年 平凡社 ISBN 978-4-582-76728-5 pp.55-57
  69. ^ 『証言!日本のロック』 2009年 アルテスパブリッシング ISBN 978-4-903951-15-7 p.120
  70. ^ a b 池上比沙之、大伴良則、小倉エージ北中正和田川律立川直樹「第3回ザ・ミュージックが選んだ、78年度ベスト・ミュージック ザ・ミュージック・アウォーズ」『The Music』1979年2月号、小学館、150–155頁。 
  71. ^ 【わが社のお宝】時代に残るCMソング by資生堂(2)(archive)
  72. ^ a b 別冊宝島1548号 『音楽誌が書かないJポップ批評54』pp.20-21,35-36
  73. ^ アミューズ 大里洋吉インタビュー
  74. ^ 『昭和40年男』、2013年6月号、pp.133-134
  75. ^ 烏賀陽弘道著 『Jポップとは何か』 岩波書店 2005年 ISBN 978-4004309451 pp.79-80
  76. ^ 北中正和著 『にほんのうた 戦後歌謡史』 新潮社 1995年 ISBN 978-4101436111 p.198
  77. ^ 北中正和著 『Jポップを創ったアルバム』 平凡社 2008年 978-4582127256 p.142
  78. ^ SWITCH special issue 桑田佳祐 2007-2008、2008年3月 p.43
  79. ^ 第11回 高垣 健 氏
  80. ^ 田家秀樹著『ポップコーンをほおばって』1987年 角川書店 pp.117-122
  81. ^ a b 織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007
  82. ^ a b #ニューミュージックの時代 pp.137–140
  83. ^ #rcj2 pp.81-83
  84. ^ a b HMV 世良公則 / 照
  85. ^ 次回ゲストは、世良公則さんです: アルティザン・ジャポネ
  86. ^ 世良公則、21世紀初のライヴ“GENTLE HANDS 21stc.”目前!
  87. ^ 週刊朝日、1977年6月10日号 p.45、週刊朝日、1977年8月12日号 pp.44-45、週刊朝日、1977年10月14日号 pp.32-34
  88. ^ Marquee / Avalon (2021年5月2日). “「私は私であり続けるだけだったのですから」-スージー・クアトロ インタビュー”. note. note. 2023年9月15日閲覧。
  89. ^ サンデー毎日、1979年1月7日号 p.123、【インタビュー】「隠されていた逸話」「今明かす本音」世良公則の40年
  90. ^ 世良公則「『燃えろいい女』は広告を学んだ僕の集大成だった」 | Smart FLASH
  91. ^ 2枚組の一般発売版。1枚でジャケット別仕様のものがファンクラブ限定通販にて先行発売。
  92. ^ 一発逆転”. テレビドラマデータベース. 2024年3月11日閲覧。
  93. ^ 探偵同盟”. テレビドラマデータベース. 2024年3月11日閲覧。

出典(リンク)

編集

参考文献

編集
  • FMfanコレクション『ニューミュージックの本』共同通信社、1978年。 
  • 石原信一『燃えろロックンローラー』集英社、1981年。 
  • 富澤一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』音楽之友社、1981年。 
  • 月刊オンステージ編集部『日本ロック大系〈上、下巻〉』白夜書房、1990年。 
  • 別冊太陽 日本のロック 50's~90's日本ロック』平凡社、1993年。 
  • 前田祥丈、平原康司『ニューミュージックの時代』シンコー・ミュージック、1993年。ISBN 9784401613908 
  • 『J-ROCKベスト123 1968-1996』講談社、1996年。 
  • 『ロック・クロニクル・ジャパンVol.1』音楽出版社、1999年。ISBN 978-4900340275 
  • 『ロック・クロニクル・ジャパンVol.2』音楽出版社、1999年。ISBN 978-4900340312 
  • 『Media View 1970-1999 売れたものアルバム』東京書籍、2000年。 
  • 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房、2001年。 
  • 別冊ザテレビジョン ザ・ベストテン〜蘇る!80'sポップスHITヒストリー〜. 角川インタラクティブ・メディア. (2004年12月20日). ISBN 4-04-894453-3. http://www.kadokawa.co.jp/product/200411000126/. 
  • 昭和40年男 (2015年12月号). “【特集】俺たちポプコンエイジ。”. クレタパブリッシング 4巻 (6号). http://www.crete.co.jp/s40otoko/vol_034/. 

関連項目

編集

外部リンク

編集