下津井軽便鉄道11形蒸気機関車

下津井軽便鉄道11形蒸気機関車(しもついけいべんてつどう11がたじょうききかんしゃ)は、下津井軽便鉄道(後に下津井鉄道を経て下津井電鉄に改称)に在籍した蒸気機関車の1形式である。

下津井軽便鉄道11形蒸気機関車
基本情報
運用者 下津井軽便鉄道→下津井鉄道
製造所 クラウス
製造番号 6786・6787
製造年 1913年6月
製造数 2両
引退 1949年
主要諸元
軸配置 C
軌間 762 mm
全長 5,900 mm
高さ 3,048 mm
運転整備重量 13.2 t
固定軸距 1,500(720+780) mm
動輪径 620 mm
軸重 4.4 t
シリンダ数 2気筒
シリンダ
(直径×行程)
240×300 mm
弁装置 外側スティーブンソン式
ボイラー 飽和式
ボイラー圧力 12.0 kg/cm2
火格子面積 0.51 m2
全伝熱面積 26.7 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 0.69 m3
水タンク容量 1.55 m3
出力 80 PS
引張力 2,840 kg
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概要

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茶屋町 - 味野町間の部分開業に備え、1913年6月にドイツ・ミュンヘンのクラウス社(Locomotivfabrik Krauss & Comp.:現在のクラウス=マッファイ社)ゼントリング工場で11・12の2両[1]が製造された。

これらは下津井軽便鉄道の資材調達全般を請け負った三井物産から当時クラウス社製品の日本における代理店であった刺賀商会、さらにドイツ・ハンブルクのカール・ローデ商会(Carl Rohde &Co.)を経由して発注されており、製造銘板には刺賀商会の名が陽刻されていた。

構造

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運転整備重量13.2tのC型飽和式単式2気筒サイド・ウェルタンク機であり、当時の762mm軌間軽便鉄道向けとしては比較的大きな部類[2]に入る。

基本的には当時のクラウス社のスタンダードに従う素直かつ堅実な設計の機関車である。第一次世界大戦前の製品であったことから、材料も良く吟味されていて非常に堅牢に作られており、その運用期間中ほとんど故障知らずで、増備車である13形のように曲線通過時に動輪の踏面形状や軸距、あるいは軸箱支持機構の追従性不良から脱線する、といった線路への不適合も発生しなかったという。

ボイラ及びシリンダ回りの主要諸元はシリンダ寸法240mm×300mm、使用圧力12.0atm、火格子面積0.51m2、伝熱面積26.7m2で、これにより引張力2,840kgを得た。

弁装置は当時一般的なワルシャート式ではなく偏心リンクを組み合わせた外側スティーブンソン式が採用されており、前傾したバルブチェスト上面などと合わせ、クラウス社の個性が強く表れた機構部設計であった。

動輪直径は620mm、主動輪は第3動輪で、軸距は第1・第2動軸間が720mm、第2・第3動軸間が780mmと各軸間で違えてあった。

本形式は、駅間距離が長く、また瀬戸内地域の気候的特徴として降雨が少なく、更に近隣に大きな河川が無いという、運用線区の給水事情の悪さゆえに、台枠兼用のウェルタンクだけでは全線通しで運行するには水タンクの容積が不十分であった。このため製造時からオプションとしてボイラー第1・2缶胴両脇にサイドタンク形態で水タンクが追加搭載[3]されており、合計1.55tの容積が確保してあった[4]

また、連結器は当時の軽便鉄道で一般的であったピン・リンク式連結器ではなく、小型ながら左右2組のバッファを備えるリンク式連結器が採用されていた。

運用

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1913年の開業時に1形と共に、主力機関車として客貨を問わず重用された。

もっとも、運転整備重量が10.2tのB型機である1形と比較して3動軸である分だけ各動軸の軸重が軽くなり、勾配区間での粘着力不足から空転が発生しやすい傾向があった[5]という。

気動車の導入開始後は主として貨物列車や貨車を主体とする混合列車に使用された。もっとも、戦時中に気動車が代用燃料化されて木炭を燃料とするようになってからはそれらに代わって貨物列車のみならず旅客列車の牽引に充てられる機会が激増[6]し、当時20t級大型機関車の導入に伴い在来車の淘汰を進めていた日鉄鉱業釜石鉱山鉄道より中古の15t C型ウェルタンク機を購入して15とし、不足を補うという処置が行われている。

1949年5月の電化完成後は気動車改造電車が客貨車を牽引可能となったため、他の蒸気機関車各形式と同様に2両とも不要となって廃車された。その後しばらくは車庫に残されていたが、結局はスクラップとして2両とも解体処分されている。

参考文献

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  • 金田茂裕「クラウスの機関車」1984年、機関車史研究会刊
  • 近藤一郎「クラウスの機関車追録」2000年、機関車史研究会刊
  • 近藤一郎「改訂版クラウスの機関車」2019年、機関車史研究会刊
  • 湯口徹「レイル No.29 私鉄紀行 瀬戸の駅から(上)」1992年、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン刊

脚注

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  1. ^ 製造番号6786・6787。なお、これらのクラウス社の社内における図面番号を示す系列番号は32alであり、日本に輸入されたクラウス機では他には同系列機が存在しなかった。
  2. ^ 例えば、伊豫鉄道甲1形別子銅山鉄道1形、あるいは井笠鉄道機関車第1号形などは8tから9t程度のB型機であり、当時の軽便鉄道では総じて開業時にこのクラスの機関車を導入した例が多く、小坂鉄道のような鉱山鉄道を別にすれば当初より10tを超える整備重量のC型機を購入した例は珍しい。
  3. ^ 外観上、いかにも後から追加したように見えたが、これは新造時から搭載されていた。既存の基本設計にオプションで必要部品を追加することで顧客のオーダーに迅速に対応する、システマティックかつ合理性を重視した規格化設計がこの時代に既に実施されていたのである。この水タンクはいずれも台枠内の水タンクとパイプで連結されており、インジェクタは台枠内のウェルタンクから水を吸い上げてボイラに注水する構造であった。
  4. ^ これに対し石炭庫の積載容量は0.69立方m(0.55t相当)であった。
  5. ^ 馬力が1形と比較して20PS大きい80PSで、かつ動軸数が多いため絶対的な牽引力では1形に勝っていたが、その分牽引両数を増やされるため、更に空転が発生しやすい状況に陥っていた。
  6. ^ ただし、下津井の場合は気動車と蒸気機関車や客貨車では装着されている連結器の構造も高さも異なっていたため、気動車を代用客車とすることが出来なかった。