伊豫鉄道甲1形蒸気機関車
概要
編集松山 - 三津間開業に備えて1888年(明治21年)5月に1・2の2両[注 1]が、更に松山 - 平井河原間開業に備えて1891年(明治24年)11月に3・4の2両[注 2]がそれぞれドイツ・ミュンヘンのクラウス社(Lokomotivfabrik Krauss & Comp.:現在のクラウス=マッファイ社)ゼントリング(Sendling)工場で製造された[注 3]。
これらは伊豫鉄道の資材調達全般を請け負った東京の刺賀商会[注 4]からドイツ・ハンブルクのアッヒェンバッハ商会(Achenbach & Co.:1・2を担当)およびカール・ローデ商会(Carl Rohde & Co.:3・4を担当)を経由して発注されており、製造銘板の中央には刺賀商会の名が陽刻されていた。
なお、1・2は日本に輸入された最初のクラウス社製機関車である。
構造
編集運転整備重量7.8tの車軸配置0-4-0(B)型飽和式単式2気筒ウェルタンク機である。
板台枠の一部を仕切って水タンクとするウェルタンクの開発元であるクラウス社が手がけた[注 5]本形式は、同方式を採用した日本初の蒸気機関車でもある。その成功は台枠強度の向上と低重心化、それに燃料庫容積の拡大を共に容易化するこの方式の有用性を広く知らしめることとなった。
小型の762mm軌間軽便鉄道用B型機であるが、動軸は当時の小型機関車としては珍しく重量配分を均等化する3点支持方式を採用して軌道への追従性を良好なものとしてある。また、弁装置は偏心リンクを組み合わせた外側スティーブンソン式、ボイラーへの注水は2基のインジェクタを使用する方式であった。ボイラーの煙管本数は45本、使用圧力は当時のクラウス社が標準設計として推奨していた12.4atmで、加減弁は煙突と蒸気ドームの間に独立して置かれる。
動輪は小型機であったためか一般的なスポーク式ではなく丸い穴が空けられた鋳造品によるディスク式とされ、運転台は背面に妻板のない開放型、煙突上部にリス籠形と呼ばれる独特の形状の火の粉止め[注 6]が設置されているのが新造時の外観上の特徴であった。
いずれの機構・設計とも設計当時のクラウス社の標準的な作風を示し、同時代のW・G・バグナルやカー・ステュウアトなどのイギリスメーカー製小型蒸気機関車群と比較すると堅牢さや実用性の高さで勝っていた。更に製造コストやオーダーに対する納品の迅速さなどもあって、以後の日本で開業が相次いだ中小私鉄には本形式(あるいはクラウス社の設計)を範とするウェルタンク式のドイツ製小型蒸気機関車[注 7]を導入する事例が相次いだ。
連結器は当時の国鉄で標準であったねじ式連結器が採用された。ただし、小型の軽便鉄道用故にバッファーは中央に1組のみとなっていた。
運用
編集伊豫鉄道の主力機関車として、増備車である甲2形や甲5形などと共に1954年の蒸気機関車全廃間際まで横河原・森松線を中心に長く使用された。
その間、道後鉄道および南予鉄道の合併[注 8]で両社の機関車(後の甲3形および甲4形)が伊豫鉄道籍に編入され、車両形式を区分する必要が生じたことなどから、1900年頃に甲1形という形式が与えられ、運転台背面への窓付き妻板の設置[注 9]、通風力の不足を改善するための煙突火の粉止めの変更[注 10]、そして高浜線の電化と連動する形で1931年(昭和6年)から1937年(昭和12年)にかけて順次実施された全線の762mm軌間から1,067mm軌間への改軌に伴う改軌工事[注 11]、と順次改造が加えられたが、1953年(昭和28年)にはDB-1形ディーゼル機関車の新製投入で余剰となった1が廃車となり、762mm軌間仕様に戻された上で貨車を改造して開業時の2軸客車を復元したものと共に道後公園内に保存された。また、同時期に同様に廃車された3も愛媛大学工学部に寄贈された。
これに対し、残る2・4もDB-1形が出揃った後に廃車となった[注 12]が、こちらはいずれもそのまま解体処分されている。
もっとも、道後公園に保存された1は入園者が容易に触れる状態であったことが災いし、保存直後から心ない者に部品を次々と毟り取られて荒廃するという事態に陥ってしまった。このため、1965年(昭和40年)に伊予鉄道は愛媛大学から3の返還を受け、これの部品を使って1の大修理・復元を実施し、以後は伊予鉄道直営の梅津寺パークで保存されることとなった。
なお、1967年に1は国鉄から鉄道記念物に指定されている[1]。
文化財は1968年に愛媛県指定有形文化財の民俗資料となり、1977年に同県指定文化財の歴史資料に変更した[1]。
梅津寺パークは入園者の減少から2009年3月15日限りで閉園となったが、1は有料公園(梅津寺公園)となった敷地内で引き続き保存展示されている。
レプリカ
編集夏目漱石の「坊つちやん」に登場する列車(坊っちゃん列車)のモデルとなった車両であったため、本形式は知名度・人気共に高い。
そのため、伊予鉄道本社前と愛媛県総合科学博物館に実物大のレプリカ[注 13]が展示され、更に1977年には松山市の機械メーカー・米山工業の手により走行可能なほぼ完全なレプリカ[注 14]が、そして2001年10月にはディーゼル動力ながら伊予鉄道松山市内線で営業運転を行うことを目的としたレプリカ(D1形)[注 15]が製造されている。なお伊予鉄道本社前に置かれていたレプリカは、2016年12月に本社ビル内に開設された坊っちゃん列車ミュージアムに移動している。
主要諸元
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 製造番号1774・1775。クラウス社固有の系列番号は4kk。
- ^ 製造番号2585・2584。クラウス社固有の系列番号は4bc。
- ^ 1・2は1888年8月に、そして3・4は1892年(明治25年)3月に松山へ来着している。
- ^ Sasga & Co. クラウス社の日本における代理店でもあった。
- ^ それゆえ、この方式は「クラウス・システム」とも呼ばれる。
- ^ この装置は後に同じクラウス社が設計を担当した、日本陸軍鉄道連隊の双合機関車にも採用された。
- ^ 日本の軽便鉄道に最も広く普及したオーレンシュタイン・ウント・コッペル社製蒸気機関車はその典型例である。
- ^ 1900年(明治33年)5月1日実施。これにより両社線はそれぞれ城北線と郡中線に改称された。
- ^ 1・2のみ。3・4は当初よりこれを設置して竣工している。
- ^ 通常のテーパー付き円筒形煙突に交換し、その上端に金網を設けた。1911年(明治44年)に施工されたとされるが、この煙突を装備した状態で残された記録写真(岩崎・渡邉コレクション)の撮影時期から、実際には1900年代中頃までに改造が実施されていた可能性が高い。
- ^ それぞれ1が1930年(昭和5年)、2が1932年(昭和7年)、3・4が1936年(昭和11年)に施工された。その工事時期から改軌の段階では1・2が高浜・横河原・森松の各線、3・4が郡中線で使用されていたものと見られる。なお、改造内容は台枠の拡幅と車軸の新製交換(客貨車用を含め、改軌で必要となる車軸は原産国であるドイツの製鋼メーカーと住友金属工業に特注された)で、これにより水タンク容量が増積されて0.75tから1.08tに、運転整備重量も8.53tにそれぞれ増加した。なお、この際ブレーキも新造以来の手ブレーキに加えて蒸気ブレーキが追加されているが、連結器は従来通りのねじ式連結器のままで、また電化されなかった森松線などは軽便鉄道規格の建築限界のまま残されており、国鉄直通貨車等の運行は一切考慮されていなかった。
- ^ なお、2 - 4は現車の処分が廃車手続きに先行しており、車籍簿上は1955年の段階でも在籍扱いとなっていた。
- ^ これらのうち伊予鉄道本社前の1両は、上記の通り実機の1を修理する際にオリジナルの付属部品の多くを譲った実機の3の、後に残った台枠・ボイラーケーシング・車輪といった主要部品を再利用して製作された。譲った部品を複製品に置き換えたことや火室及びボイラー内部が再現されず空洞状態になっていることなどからレプリカ扱いとされているものの、全て新たに作成した純然たるレプリカとは一線を画する。
- ^ 運転台は輸入直後の1を模した開放型だが、煙突は通常型に交換後の姿であり、更に展示運転の便を考慮し軌間は1,067mmとされたため、厳密には考証を欠く。
- ^ これに対して増備車のD2形は14という車番からも明らかなように、甲5形14をモデルとしている。
出典
編集参考文献
編集- 高岡愼吉「五十年史」1936年、伊豫鉄道電氣刊
- 金田茂裕「クラウスの機関車」1983年、機関車史研究会刊
- 近藤一郎「クラウスの機関車追録」2000年、機関車史研究会刊