上杉重能

?-1350, 鎌倉時代後期~南北朝時代の武将。勧修寺道宏の子。官位は従五位上・伊豆守、蔵人。本姓は藤原。勅撰集『風雅和歌集』に3首入集

上杉 重能(うえすぎ しげよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士足利尊氏直義とは従兄弟である。

 
上杉重能
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 正平4年/貞和5年12月20日1350年1月28日
戒名 報恩寺秀峯道宏
幕府 室町幕府 伊豆守護
主君 足利尊氏足利直義
氏族 勧修寺氏上杉氏
父母 父:勧修寺道宏(勧修寺別当・宮道入道道免)、
母:上杉頼重娘・加賀局
養父:上杉重顕上杉憲房
兄弟 重能重兼
養兄弟:憲顕憲藤重行高師泰正室
顕能?
養子:能憲上杉憲顕子)、
重季(上杉重行子)
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略歴

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勧修寺道宏の子として誕生。後に母・加賀局の兄弟である上杉重顕憲房の養子となる。

建武政権下では関東廂番六番の一員として鎌倉に下向。『太平記』には竹の下合戦において、偽の綸旨を作り、渋る尊氏を出陣させたとある。九州落ちにも同行した。室町幕府成立後は伊豆国守護に任命。 延元3年/建武5年/暦応元年(1338年)に出仕停止命令を受けているが、直義の執事的存在として働く。一番引付頭人や内談方頭人として活動するが高師直らと対立し、畠山直宗と協力して師直排斥を狙うも失敗した。

正平4年/貞和5年(1349年)、師直の御所巻による交渉の結果、畠山直宗と共に越前国へ流された。同年12月、配流先から百騎程の軍勢で越前国足羽荘に没落(『園太暦』貞和5年12月6日条)、殺害された(『常楽記』貞和5年12月20日条)[1]

義兄弟で従兄弟の上杉憲顕の子・能憲や、同じく義兄弟で従兄弟の上杉重行の子・重季を養子にしたとされている。なお、重季は通説では名前を「顕能」とされてきていたが、当時の記録に登場する実名は「重季」であり、顕能は早世した重能の実子の名前であったと考えられている[2][3]。以後この流れは宅間上杉氏と呼ばれる。

脚注

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  1. ^ 亀田俊和『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』中央公論新社〈中公新書〉、2017年、67頁。 
  2. ^ 黒田 2013, p. 115, 木下聡「足利基氏期の関東管領と守護」.
  3. ^ 黒田 2013, p. 167, 「基氏期の上杉氏」.

出典

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  • 黒田基樹 編『足利基氏とその時代』戎光祥出版〈関東足利氏の歴史 第1巻〉、2013年。