上杉憲顕
上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。足利尊氏の母清子は父方の叔母であり、尊氏とは従兄弟の関係であった。
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 徳治元年(1306年) |
死没 | 正平23年/応安元年9月19日(1368年10月31日) |
改名 | 憲顕→道昌(号) |
戒名 | 国清寺桂山道昌 |
墓所 | 静岡県伊豆の国市奈古屋国清寺 |
官位 | 従五位上・民部大輔[1] |
幕府 |
室町幕府関東管領、 上野・越後・武蔵・安房守護 |
主君 | 足利尊氏、直義、義詮、基氏 |
氏族 | 上杉氏(山内上杉家) |
父母 | 父:上杉憲房 |
兄弟 |
憲顕、憲藤、重行、高師泰正室、 養兄弟:重能・重兼(勧修寺道宏子) |
妻 | 木戸氏娘 |
子 | 憲将、憲賢、能憲、憲春、憲方、憲英、憲栄、岩松直国室、上杉朝房室、憲利 |
生涯
編集徳治元年(1306年)、上杉憲房の子として誕生。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政において関東では足利尊氏の弟・直義が後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて鎌倉に鎌倉将軍府を成立させ、元弘4年(1334年)正月には成良の護衛として関東廂番(ひさしばん)が置かれた。『建武記』に拠れば関東廂番は六番39名が任じられているが、二番番衆の一人として憲顕の名が見られ、史料上の初見となっている。
建武2年(1335年)に尊氏が後醍醐天皇に叛くと、直義の部隊に属した。尊氏が九州に落ちると石見国に派遣されたと『太平記』にあるが、これは後に石見守護となった上野頼兼と書き間違えられたと思われる。
建武3年(1336年)1月、父・憲房は尊氏を京都から西へ逃がすため、京都四条河原で南朝方の北畠顕家・新田義貞と戦って戦死、弟・憲藤も延元3年/暦応元年(1338年)に摂津国で顕家と戦って戦死したため、父の跡を継ぐところとなった(山内上杉家)。上杉氏は元々公家であったが、武家の足利氏と結び付いて関東の新興勢力となり、従兄弟の上杉重能(宅間上杉家)や上杉朝定(二橋上杉家(後の扇谷上杉家)、弟・憲藤(犬懸上杉家)などを祖とする上杉諸家が足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力抗争を展開することとなる。
延元3年/暦応元年(1338年)に尊氏の命により、戦死した斯波家長の後任として足利義詮が首長の鎌倉府の執事に任じられる。ところが、その年のうちに突如高師冬への交替を命じられて上洛、2年後に復帰したものの、師冬と2人制を取る事になった。同僚である師冬が常陸国の南朝勢と戦ったのに対し、興国2年/暦応4年(1341年)に守護国となった越後国には憲顕配下で守護代の長尾景忠が入国し、その平定に尽力した。正平4年/貞和5年(1349年)、観応の擾乱が起きると、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から京都に呼ばれ、義詮に代わって足利基氏が鎌倉公方となって京都から鎌倉に下向した。
憲顕は師冬と共に基氏を補佐するが、直義方の上杉重能が高師直の配下に暗殺されると、直義方の憲顕は師冬と拮抗するところとなり、子・能憲と共に尊氏に敵対し、正平6年/観応2年(1351年)には鎌倉を出て上野に入り、常陸で挙兵した能憲と呼応して鎌倉を脅かし、師冬を鎌倉から追い落として基氏を奪取し、次いで甲斐国に落ちた師冬を諏訪氏に攻めさせ自害に追い込んだ。更に直義を鎌倉に招こうとしたため、尊氏の怒りを買って上野・越後守護職を剥奪された。翌正平7年/文和元年(1352年)、直義が死去して観応の擾乱は終結するが、国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は信濃国に追放された。この時、剃髪して道昌と号している。
しかし、尊氏が没し2代将軍となった義詮及び鎌倉公方となった基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐した憲顕を密かに越後守護に再任し、正平17年/貞治元年(1362年)には関東管領・畠山国清を罷免しこれに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐、翌年、憲顕を国清の後釜として鎌倉に召還しようとした。この動きを知った上野・越後守護代で宇都宮氏綱の重臣・芳賀禅可は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとするが逆に武蔵苦林野で基氏の軍勢に敗退、これに口実を得た基氏軍は討伐軍を宇都宮城に差し向けるが、途中の小山で小山義政の仲介の下、宇都宮氏綱の弁明を入れて討伐は中止された。こうして、尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって代々の東国武家の畠山国清及び宇都宮氏綱が務めていた関東管領職及び越後・上野守護職は公式に剥奪され、新興勢力の憲顕がその後釜に座り、上杉氏は代々その職に就くこととなった(関東の政変)。
正平22年/貞治6年(1367年)に基氏が死去、翌正平23年/応安元年(1368年)、憲顕が上洛した隙に蜂起した河越直重らの武蔵平一揆の乱に対しては政治工作で対抗、関東管領を継いだ甥で婿の上杉朝房が幼少の足利氏満を擁して河越に出陣し鎮圧するのを助けた。これにより、武蔵など鎌倉公方の直轄領をも、上杉氏が代々守護職を世襲することとなった。引き続き新田義宗や脇屋義治などの南朝勢力の鎮圧に後陣で当たったが、老齢のために9月19日、足利の陣中にて死去した。
関東管領は朝房と能憲が就任、氏満の補佐を務めた。息子のうち、能憲は宅間上杉家に入り、憲方は山内上杉家を相続、憲英は深谷上杉家、憲栄は越後上杉家の祖となり、憲顕の子孫も関東に土着した。
脚注
編集- ^ 江戸時代以降に作成された上杉氏の系図では越後守に補任されたとする記述がみられるが、越後の支配者である上杉氏を強調する目的で江戸時代に創作されたとみられている(木下聡「上杉氏の官途について」(黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7))。