三河国司
三河国司(みかわこくし)は、三河国の国司のことである。養老律令の職員令で三河国は守、介、掾、目の各1人の構成である。三河国は上国であり、養老律令の官位令が定める上国の官位相当は守が従五位下、介が従六位上、少掾が従七位上、少目が従八位下である。ただし、宝亀6年(775年)には大目1名・少目1名として大目を増員している[1]。
国司一覧
編集三河守
編集- 巨勢祖父(務大肆):大宝元年(701年)正月見、『続日本紀』。
- 坂合部三田麻呂(従五位下):慶雲3年(706年)9月任、『続日本紀』。
- 榎井広国(従五位下):和銅6年(713年)8月任、『続日本紀』。
- 坂本阿曽麻呂(従五位上):霊亀2年(716年)4月任、『続日本紀』。
- 佐伯伊益(外従五位下):天平4年(733年)9月任、『続日本紀』。
- 秦前大魚(外従五位下):天平13年(741年)12月任、『続日本紀』。
- 田辺高額(外従五位下):天平17年(745年)9月任、『続日本紀』。
- 大倭小東人(正五位下):天平勝宝5年(753年)4月任、『続日本紀』。
- 大伴御依(従五位下):天平宝字元年(757年)6月任、『続日本紀』。
- 石上宅嗣(従五位上):天平宝字3年(759年)5月任、『続日本紀』。
- 淡海三船(従五位下):天平宝字5年(761年)5月任、『続日本紀』。
- 高元度(従五位上):天平宝字6年(762年)正月任、『続日本紀』。
- 大伴田麻呂(従五位下):天平宝字7年(763年)7月任、『続日本紀』。
- 中臣伊勢老人(従四位下):天平宝字8年(764年)10月任、『続日本紀』。
- 藤原田麻呂(正四位下):宝亀2年(771年)閏3月任、『続日本紀』。
- 多治比長野(正五位下):宝亀3年(772年)4月任、『続日本紀』。
- 礒部王(従五位下):宝亀5年(774年)9月任、『続日本紀』。
- 藤原長山(外従五位下):宝亀10年(779年)2月任、『続日本紀』。
- 多治比豊浜:(従五位下)延暦元年(782年)5月任、『続日本紀』。
- 和国守:(従五位下)延暦6年(787年)2月任、『続日本紀』。
- 高賀茂諸雄:(正五位下)延暦8年(788年)2月任、『続日本紀』。
- 安倍男笠(従五位上):弘仁3年(812年)1月任、『日本後紀』。
- 橘本継(従五位下):承和6年(839年)12月任、『続日本後紀』。
- 豊前王(従五位下):承和7年(840年)1月任、『続日本後紀』。
- 藤原雄瀧(従五位下):承和12年(845年)任官
- 菅野継門(外従五位下):嘉祥2年(849年)1月任、『続日本後紀』。
- 安倍氏主(従五位下):仁寿3年(853年)1月任、『日本文徳天皇実録』。
- 斎部木上(従五位下):斉衡4年(857年)1月任、同3月越中介と為る、『日本文徳天皇実録』。
- 安倍氏主(従五位下):天安元年(857年)3月再任、天安2年6月卒、『日本文徳天皇実録』。
- 安倍良行(従五位下):天安2年(858年)6月任、『日本文徳天皇実録』。
- 下柳(御長)近人(従五位下):貞観元年(859年)11月任、貞観2年(年)3月越後守と為る、『日本三代実録』。
- 藤原安棟:(従五位下)貞観2年(860年)8月任、『日本三代実録』。
- 長岡秀雄(従五位下):貞観7年(865年)任、貞観8年(866年)1月転、近江権大掾、『日本三代実録』。
- 藤原広基(正五位下):貞観 8年(866年)1月任(権守)、摂津守と為る、『日本三代実録』。
- 藤原善友(従五位下):貞観11年(869年)1月官、『日本三代実録』。
- 藤原継蔭(従五位下):元慶5年(881年)2月任、『日本三代実録』。
- 源進(従五位上):元慶9年(885年)1月任、『日本三代実録』。
- 平篤行(従五位下):延喜3年(903年)1月任、延喜7年(907年)1月罷。
- 源等(従五位下):延喜7年(907年)1月任。
- 紀済行(従四位上):延喜19年(919年)任官
- 紀理綱(従五位下):天暦7年(953年)任官
- 大江定基:986年頃
- 大江清通:正暦2年(991年)任官
- 藤原挙直(従五位下):長徳2年(991年)1月任。
- 藤原輔公:長保6年3月(1004年)任。
- 菅原為理:寛弘5年(1008年)1月任、寛弘7年3月卒。
- 藤原定佐:寛弘5年(1008年)任官(権守)。
- 藤原為職:寛弘7年(1010年)3月任。
- 藤原中尹:寛仁元年(1017年)任官
- 源為善(従五位下):寛仁2年(1018年)12月任。
- 大江定経:治安2年(1022年)任官
- 平範国:治安2年(1022年)任官(権守)
- 大江挙周:万寿3年(1026年)任官
- 藤原保相:万寿5年(1028年)任官
- 藤原親光:長元7年(1034年)任官
- 源経相:長元9年(1036年)任官
- 源長季:長暦3年(1039年)任官
- 源経信(従四位上):永承5年(1050年)任官
- 藤原長明:延久4年(1072年)任官
- 藤原季綱:承保3年(1076年)任官
- 藤原顕頼(従五位下):永久2年(1114年)任官
- 源資賢(従五位下):天承元年(1131年)任官
- 藤原顕長(正五位下):保延2年(1136年)任官
- 藤原俊成(従五位上):久安元年(1145年)任官
- 平頼盛:保元3年(1158年)10月任 - 平治元年(1159年)12月、尾張守に転任。
- 平知度:治承3年(1179年)11月任。
- 源範頼:元暦元年(1184年)8月6日任、『平家物語』[2]。
- 世良田頼氏:鎌倉時代中期の上野国の武将。松平氏・徳川氏につながる世良田氏の祖
- 宇都宮貞綱:鎌倉時代中・後期の武将。宇都宮氏第8代当主
- 宇都宮貞泰:鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。貞綱の弟
- 河越高重:鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。武蔵河越氏8代当主
- 徳川家康:三河国の戦国大名。後の征夷大将軍[3]。
- 以下の者は「歴名土代」で確認できない。
三河介
編集- 山田御井広人:(従五位下)天平宝字8年(764年)10月任、『続日本紀』。
- 秦智麻呂:(外従五位下)神護景雲元年(767年)8月見、『続日本紀』。
- 大伴良雄:(位階欠)宝亀4年(773年)9月任。
- 葛井河守:(外従五位下)宝亀11年(780年)3月任、『続日本紀』。
- 佐伯瓜作:(従五位下)天応元年(781年)4月任、『続日本紀』。
- 三島大湯座:(従五位下)延暦4年(785年)7月任、『続日本紀』。
- 中臣必登:(従五位下)延暦5年(786年)8月任、『続日本紀』。
- 御使浄足:(外従五位下)延暦6年(787年)2月任、『続日本紀』。
- 文室波多麻呂:(正五位下)延暦9年(790年)3月任、『続日本紀』。
- 路年継:(従五位下)大同元年(806年)1月任、『日本後紀』。
- 佐伯鷹成:(従五位下)大同元年(806年)2月任、『日本後紀』。
- 淡海有成:(従五位下)弘仁3年(812年)1月任、『日本後紀』。
- 百済縄継:(従五位下)承和元年(834年)1月任、『続日本後紀』。
- 藤原貞敏:(従五位下)承和7年(840年)1月任、『日本三代実録』。
- 大原真室:(従五位下)仁寿3年(853年)1月任、『日本文徳天皇実録』。
- 菅原河道:(従五位下)斉衡2年(855年)1月任、『日本文徳天皇実録』。
- 壱志大春日吉野:(外従五位下)貞観元年(859年)1月任、『日本三代実録』。
- 紀正守:(従五位下)貞観5年(853年)2月任
- 太貞長:(外従五位下)貞観9年(867年)1月任、同11年3月再任、『日本三代実録』。
- 紀有朋:(官位欠)元慶元年(877年)1月任、『古今和歌集目録』。
三河掾
編集- 民總麻呂:(外従五位下)天平神護2年(766年)閏6月任、『続日本紀』。
- 神直大神虎主:(外従五位下)斉衡元年(854年)3月任、『日本文徳天皇実録』。
- 文屋康秀:貞観年中任官、『古今和歌集目録』。
- 菅原高視:寛平2年(890年)8月任。
- 大春日晴蔭:延喜元年(990年)1月任(掾)。
- 柰癸弘吉[6]:寛弘4年(1007年)(月欠)任。
- 藤原経遠:永久4年(1116年)1月任(大掾)。
- 久米荻方:保安2年(1121年)1月任(少掾)。
- 紀安次:保安3年(1122年)任(掾)。
- 伴吉久:大治4年(1129年)2月任(大掾)。
- 大江俊言:大治4年2月(1129年)任(少掾)。
- 中原有継:久寿(1154年)元年1月任。
- 藤原政親:治承2年(1178年)1月任(大掾)。
- 三善助道:養和元年(1181年)3月見(掾)。
武家官位としての三河守
編集江戸時代に入ると、徳川氏発祥の地である三河守は武家の間で遠慮され、親藩の例のみ見られた。
脚注
編集- ^ 『続日本紀』、宝亀6年(775年)3月2日 (旧暦)の条
- ^ この日の除目では範頼とともに源義経も左衛門尉に補任されたという。
- ^ 三河統一後の1566年叙任『歴名土代』に記述あり。同時に松平から徳川に姓を変えている。
- ^ 天文10年(1541年)9月に信秀は三河守に任官。これは、山科言継(「歴名土代」の筆者)と親交のあった信秀が室町幕府に守護職を求めず、朝廷から直接に三河守を受領したものとされる。伊勢外宮社司の記録である『外宮引付』の記述から、この叙任の背景として、伊勢神宮外宮の式年遷宮に当たり、信秀が外宮仮殿造替費として銭700貫文を寄進したことが朝廷に評価されたものとする。今谷明『戦国大名と天皇― 室町幕府の解体と王権の逆襲―』(福武書店、1992年)。
- ^ 日本中世史の研究者・今谷明によれば、永禄3年(1560年)4月(旧暦)に桶狭間の戦い(田楽狭間の戦い)に繋がる西上を控えて、朝廷に三河守任官の奏請をなし、同年5月8日(旧暦)には口宣案が出されたが、同19日に三河国田楽狭間で陣没してしまった。今谷明『戦国大名と天皇― 室町幕府の解体と王権の逆襲―』(福武書店、1992年)。
- ^ …印は上に「木」、下が「示」という漢字。
参考文献
編集- 太田亮『日本国誌資料叢書〈第9巻 - 三河国〉』(臨川書店、1992年)ISBN 4-653-02395-6
- 今谷明『戦国大名と天皇― 室町幕府の解体と王権の逆襲―』(福武書店、1992年)講談社学術文庫より2001年に再刊
- 佐藤謙三 校注『平家物語(下巻)』(角川書店、1998年)ISBN 4-04-400702-0