ロアルド・ホフマン
ロアルド・ホフマン(Roald Hoffmann、(1937年7月18日 - )は、アメリカ合衆国の化学者・ホロコースト生還者。出生名はロアルド・ザフラン(Roald Safran)。
Roald Safran Roald Hoffmannロアルド・ホフマン | |
---|---|
ロアルド・ホフマン (2015) | |
生誕 |
Roald Safran 1937年7月18日(87歳) ポーランド ゾーロチウ (現 ウクライナ) |
国籍 | アメリカ合衆国 |
研究機関 | コーネル大学 |
出身校 |
コロンビア大学 ハーバード大学 |
博士論文 | Theory of Polyhedral Molecules: Second Quantization and Hypochromism in Helices. (1962) |
博士課程 指導教員 | ウィリアム・リプスコム |
主な業績 |
ウッドワード・ホフマン則 拡張ヒュッケル法 |
主な受賞歴 |
ノーベル化学賞(1981) アメリカ国家科学賞(1983) |
公式サイト www | |
プロジェクト:人物伝 |
|
量子化学で化学反応におけるウッドワード・ホフマン則を明らかにし、1981年度のノーベル化学賞を福井謙一とともに受賞した。
来歴
編集ポーランド第二共和国のガリツィア・ズウォチュフ(現ウクライナのゾーロチウ)でユダヤ系の家庭(父ヒレル・ザフラン、母クララ・ローゼン)に生まれ、探険家ロアール・アムンセン(ロアルド・アムンゼン)にあやかって名づけられた。第二次世界大戦で一家はまずソ連占領下に置かれ、1941年からはナチス・ドイツ占領下に置かれて強制収容所に送られた。彼と母は1944年に父の努力で脱出し、匿われたが、父は殺された。1944年6月にソ連の赤軍によって解放され、プシェムィシルを経てクラクフに移り、母はパウル・ホフマンと再婚した。
1946年に一家はポーランドを脱出し、チェコスロバキアを経て、オーストリアのリンツ近郊にあるビンダーミッヒル避難民キャンプに移動し、1947年には西ドイツのアーレン近郊のヴァッサーアルフィンゲン収容所からミュンヘンに移動、1949年に渡米し、ニューヨークのブルックリンに定住した。コロンビア大学を1958年に卒業、ハーバード大学大学院でウィリアム・リプスコムについて学び、1962年に博士号を取得した。1965年コーネル大学の准教授になり、1968年に教授に就任。
有機化合物・無機化合物の両方を研究対象とし、拡張ヒュッケル法(彼が1963年に提唱した)などの計算機化学的方法を発展させた。またこれを用いて、ロバート・バーンズ・ウッドワードとともに、有機化学反応の立体選択性を予測する法則であるウッドワード・ホフマン則を明らかにした。
科学に関する啓蒙書を書いているほか、詩人としても2巻の詩集を出している。また科学的発見をテーマとする劇 "O2 Oxygen" を書いている。
2009年、ホフマンの主導により故郷ゾーロチウにホロコースト犠牲者の記念碑が建てられた。
受賞歴
編集参照
編集- Roald Hoffmann Nobel Foundation