レイナルド・メルロ
レイナルド・カルロス・メルロ(Reinaldo Carlos Merlo, 1950年5月20日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションは守備的ミッドフィールダー。
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名前 | ||||||
本名 |
レイナルド・カルロス・メルロ Reinaldo Carlos Merlo | |||||
愛称 |
Mostaza (モスターサ、からしの意味)[注 1] | |||||
ラテン文字 | Reinaldo MERLO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1950年5月20日(74歳) | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF (DMF) | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1969-1984 | リーベル・プレート | 526 | (11) | |||
監督歴 | ||||||
1986-1987 | ロス・アンデス | |||||
1989-1990 | リーベル・プレート | |||||
1991 | アルゼンチン U-20 | |||||
1993 | アルゼンチン U-17 | |||||
1995 | ボリバル | |||||
1998 | デポルテス・テムコ | |||||
1998-1999 | チャカリタ | |||||
1999 | アトレティコ・ナシオナル | |||||
2000 | ベルグラーノ | |||||
2001-2002 | ラシン・クルブ | |||||
2004-200 5 | エストゥディアンテス | |||||
2005-2006 | リーベル・プレート | |||||
2006-2007 | ラシン・クルブ | |||||
2008 | バルセロナSC | |||||
2009 | ロサリオ・セントラル | |||||
2013 | ドウグラス・アイグ | |||||
2013-2014 | ラシン・クルブ | |||||
2014-2015 | コロン | |||||
2017 | フエルサ・アマリージャ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
編集選手時代
編集1969年にCAリーベル・プレートからデビューして以来、1984年に現役引退するまで全ての期間をリーベル・プレートに捧げた。1975年から1981年までリーベル・プレートを率いたアンヘル・ラブルナ監督の下では7度のリーグタイトルを獲得し、その後はフアン・ホセ・ロペス監督、ノルベルト・アロンソ監督の下でもプレーした。ゴールキーパーのウバルド・フィジョール、ディフェンダーのダニエル・パサレラらとともに、守備的ミッドフィールダーとしてプレーしたメルロはチームの屋台骨であった。選手生活の晩年には新進気鋭のネストル・ゴロシートの良き助言者となった。同じポジションだったアメリコ・ガジェゴやゴロシートは後に指導者として成功し、メルロと対戦する機会があった。リーベル・プレートでは500試合以上に出場し、ボカ・ジュニアーズとのスーペルクラシコでは史上最多の42試合に出場した。
指導者時代
編集現役引退後には指導者養成学校の入学試験に向けて勉強し、続いていくつかの小規模なクラブを指揮した。1989年にはアロンソとともに古巣リーベル・プレートの共同監督に就任したが、シーズン中盤にパサレラの監督就任を公約とする新会長が就任すると、メルロとアロンソのふたりは解任された。その後は世代別アルゼンチン代表監督を務め、ボリビアのクラブ・ボリバルやチリのデポルテス・テムコなどアルゼンチン国外でも采配を振った。1999年、シーズン途中にコロンビアのアトレティコ・ナシオナル監督に就任し、カテゴリア・プリメーラAで優勝するなど成功を収めたが、メルロが執った戦術は不評であり、辞任に追い込まれた。2000年にはアルゼンチンの五大クラブのひとつであるラシン・クルブ監督に就任し、2001アペルトゥーラでは35年ぶりとなるリーグ優勝を果たした[2]。
2004年にエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタのカルロス・ビラルド監督が退任すると、メルロが後任監督に就任したが、2004アペルトゥーラと2005クラウスーラではプリメーラB・ナシオナル(2部)降格の危機にさらされた。エストゥディアンテスはプロデビュー戦(1969年)の相手であり、自身最高のゴールを決めた相手でもある縁が深いクラブであったが、2005年8月にはエストゥディアンテス監督を辞任した。その数週間後にはリーベル・プレートのレオナルド・アストラーダ監督が辞任してメルロが後任監督に就任した。2005アペルトゥーラは冴えないシーズンとなって優勝争いに絡めず、2006年1月9日にリーベル・プレート監督を辞任してパサレラに引き継いだ。プレシーズン途中に辞任を決めたことは議論の対象となり、マルセロ・ガジャルドは「私もチームメイトも『彼のプロジェクト』とやらに賛同しない」と発言してメルロの突然の辞職を非難した[3]。その後就任したラシン・クルブやエクアドルのバルセロナSCでは成功できなかった[4][5]。2009年にはCAロサリオ・セントラルの監督に就任したが、選手の エセキエル・ゴンサレスとの間の個人的な問題により、わずか5試合を指揮(3勝1分1敗)しただけで4月15日にクラブを離れた[6]。
2017-18シーズンよりCDFEフエルサ・アマリージャSCの指揮官に招聘されたが、公式戦3試合を2分1敗で終えた段階の2017年8月15日に解任が発表された[7]。
タイトル
編集選手
編集- リーベル・プレート
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- プリメーラ・ディビシオン : 1975M, 1975N, 1977M, 1979M, 1979N, 1980M, 1981N
指導者
編集- アトレティコ・ナシオナル
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- カテゴリア・プリメーラA : 1999
- ラシン・クルブ
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- プリメーラ・ディビシオン : 2001A
脚注
編集注釈
編集脚注
編集- ^ Mostaza Merlo: ¿De héroe a villano? Notas de Fútbol 2007年3月2日
- ^ Racing 2001 El Grafico、2001年12月27日
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月2日閲覧。 El Siglo
- ^ Merlo fue presentado como técnico del Barcelona de Ecuador Clarín, 2008年6月14日
- ^ Merlo dejó de ser el DT de Barcelona de Guayaquil MDZ online、2008年12月9日
- ^ Miguel Angel Russo llegó a Rosario Central y Diego Simeone lo reemplazará en San Lorenzo
- ^ “Como en Game of Thrones: a Mostaza Merlo lo traicionaron sus colaboradores y lo echaron de Fuerza Amarilla”. La Nación (2017年8月16日). 2017年11月5日閲覧。