ツァヴタット
クロアチアの町
ツァヴタット(クロアチア語: Cavtat,イタリア語: Ragusavecchia,ギリシア語: Επιδαυρος)はクロアチア、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡にある町で、ドゥブロヴニクの南15kmのアドリア海沿岸に位置しコナヴレ基礎自治体の中心である。
ツァヴタット Cavtat | |
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丘からのツァヴタットの町の眺め | |
位置 | |
ツァヴタットのクロアチアでの位置 | |
座標 : 北緯42度34分46秒 東経18度13分15秒 / 北緯42.57944度 東経18.22083度 | |
行政 | |
国 | クロアチア |
郡 | ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡 |
基礎自治体 | コナヴレ |
ツァヴタット | |
人口 | |
人口 | (2001年現在) |
域 | 2,015人 |
その他 | |
等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) |
夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) |
郵便番号 | 20000 |
市外局番 | +385 022 |
ナンバープレート | DU |
歴史
編集ツァヴタットはクロアチアにある町の中でも長い歴史がある場所である。原型は紀元前6世紀にギリシャ人たちによってエプダウロスと呼ばれる都市が築かれた時に遡る。エピダウロスの名はペロポネソス半島のアスクレーピオスを守護神とするエピダウロスにも見られる[1][2] 。周辺部にはイリュリア人たちが住んでおり、ツァヴタットのことをザプタル(Zaptal)と呼んでいた[3]。
エプダウロスの名が変わったのは紀元前228年にローマ帝国の支配下になってからである。東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝第二代皇帝であるユスティニアヌス1世はゴート戦役時、戦艦を送り込み町を占拠した[4]。7世紀に入るとアヴァールやスラヴ人により略奪や破壊に見舞われる[5]。 中世、町はラグーサ・ベッキーア(Ragusa-Vecchia)として再建されている[6][7] 。暫くして、近隣の強大なラグーサ共和国の影響下に入った。今日のクロアチア語での町の名となっているツァヴタットは古くからの由来とドゥブロブニクとの関係を表している。ツァヴタットはラテン語で旧市街を意味するティヴィータス・ヴェトゥース(Civitas Vetus)から来ている。現代のツァヴタットは著名な観光地として多くのホテルやプライベートホーム、貸しアパートや貸し部屋が立地する他、海沿いにはレストランやショップが林立している。フェリーによって近隣のムリニやドゥブロヴニクとも結ばれている。
姉妹都市
編集脚注
編集- ^ Aulus Hirtius, De Bello Alexandrino XIV
- ^ Austria: Her People & Their Homelands by James Baker,""... dates back to the sixth century BC., when the Greeks founded here Epidaurus"
- ^ Dictionary of Greek and Roman Geography: Abacaenum-Hytanis. 1854 by Sir William Smith
- ^ Ostrogoths were at war with Byzantine Empire in the 6th century.
- ^ Researches on the Danube and the Adriatic by Andrew Archibald Paton (1861). Contributions to the Modern History of Hungary and Transylvania, Dalmatia and Croatia, Servia and Bulgaria- page 247
- ^ Notizie Istorico-Critiche Sulla Antichita, Storia, e Letteratura de' Ragusei (published in two vols) by Francesco Maria Appendini.
- ^ The Biographical Dictionary of the Society for the Diffusion of Useful Knowledge Volume 3, Part 1. 1843. Great Britain