エラ・ラメシュ・バット(Ela Ramesh Bhatt; 1933年9月7日 - 2022年11月2日[1])は、インド弁護士労働組合運動家、人権擁護活動家女性運動家であり、1972年にガンディー主義に基づく自営女性労働者協会英語版 (SEWA) を創設した。女性のための世界銀行英語版 (WWB)、女性小規模起業家を支援するマイクロファイナンス金融機関のネットワーク「サ・ダーン」、WIEGO英語版(非公式雇用における女性 ― グローバル化・組織化)、ネルソン・マンデラを中心に元政治家平和運動家、人権擁護活動家らによって結成された非政府組織エルダーズ英語版」などの創設者・代表として活躍し、マグサイサイ賞ライト・ライブリフッド賞インディラ・ガンディー賞立正佼成会庭野平和賞英語版4つの自由賞、インドの国家勲章パドマ・シュリー勲章など多くの賞を受けた。

エラ・バット
Ela Bhatt
エラ・バット(カランディア女性協同組合にて、2009年)
生誕 (1933-09-07) 1933年9月7日
インドの旗 インドグジャラート州アフマダーバード
死没 (2022-11-02) 2022年11月2日(89歳没)
出身校 M.T.B. 文科大学
L.A. シャー法科大学
職業 弁護士、労働組合運動家、人権擁護活動家、女性運動家、ラージヤ・サバー議員
団体 自営女性労働者協会 (SEWA)
受賞 マグサイサイ賞 (社会指導)、ライト・ライブリフッド賞庭野平和賞英語版インディラ・ガンディー賞4つの自由賞 (欠乏からの自由)
栄誉 パドマ・シュリー勲章パドマ・ブーシャン勲章レジオンドヌール勲章オフィシエ
公式サイト http://sewa.org/ (SEWA)
テンプレートを表示

背景

編集

エラ・バットは1933年9月7日、インド北西部グジャラート州アフマダーバードに生まれた。父サマントライ・バットは弁護士、母ヴァナリラ・ヴィアスはソーシャルワーカー・女性運動家で、教育を中心に女性の地位向上を目指す全インド女性会議英語版[2]にも参加していた[3]。バットの母方の祖父母はガンディーのサティヤーグラハ(非暴力抵抗運動)に参加し、祖父はこのために3度逮捕された[4]

教育

編集

1940年から1948年まで州立女子中等教育学校(グジャラート州スーラト)に学び、1952年にM.T.B. 文科大学で文学士を取得した。1954年にL.A. シャー法科大学(アフマダーバード)で法学士を取得し、ヒンドゥー法英語版に関する優れた研究により金賞を受賞した[5][6]

ガンディー主義

編集

1951年にボランティアで国勢調査に参加したことが、貧困の現状を直接知るきっかけとなった。また、レフ・トルストイマハトマ・ガンディービノーバ・バーベ英語版、ガンディー主義の経済学者J・C・クマラッパ英語版の著書に大きな影響を受けて、貧困撲滅のために生涯を捧げる決意をした[3]

学位取得後、しばらくSNDT女子大学英語版ムンバイ)で英語を教えた後、1955年からガンディー主義の労働組合「繊維労働者組合 (TLA)」で法務を担当した。繊維労働者組合は、インドにおける女性労働運動の先駆者アナスヤ・サラバイ英語版がガンディーの支援を受けて1920年に結成したグジャラート州最古の繊維労働者の労働組合であり、ガンディーが1917年に繊維労働者のストライキを主導したことに端を発する[7]。バットが繊維労働者組合に参加した当時は、60の繊維工場の労働者12万人が加入していたが、その多くがハリジャン(不可触民[8]であった[3]

1956年、ガンディー主義の学生リーダーであったラメシュ・バットと結婚した。ラメシュは後にガンディーの教育思想に沿って設立されたグジャラート・ヴィドヤーピート英語版国立大学(アフマダーバード)の経済学部で教鞭を執ることになる。また、グジャラート大学地域教員協会の会長に就任し、グジャラート経済協会を設立した[3]

1961年、グジャラート州労働省の雇用担当職員として採用され、グジャラート大学雇用情報課で職業指導訓練、就職斡旋を担当した。次にニューデリーのプサ就労・職業訓練所に派遣され、1966年にグジャラート州労働省に戻ると、職業情報局の代表として新たな就労機会の創出、国家職業法における職業の定義の見直し、新しい職業の定義・分類などに取り組んだ。1968年、繊維労働者組合の女性部(1954年結成)の代表に選出された。当時はまだ女性組合員の数が少なかったため、男性組合員の妻や娘に職業訓練を提供することで女性の就労を促進することが主な活動であった。バットは女性部内に職業訓練部門、製造部門、労働組合組織化部門、研究部門の4つの部門を設置した。職業訓練部門では、女性に裁縫刺繍編物、人形作り、印刷家政などの訓練を提供した。参加者はすべて正規教育を修了していない25歳未満の女性であった。製造部門は女性の教育・医療・福祉プログラムを提供し、女性たちが作った手織物は組合内店舗で販売された[3]

1970年、イスラエル労働総同盟英語版が1960年に創設したアフリカ・アジア労働・協同組合研究所の研究奨励金を受けて、テルアビブで3か月間、主に深夜労働拡大の可能性について研究し、「国際労働・協同組合」の学位を取得した[9]。バットは、イスラエルではすべての労働が組織化されていること、労働者の妻もまた労働組合に加入していることを知り、労働組合や協同組合を組織・運営することの重要性を痛感した[5]

自営女性労働者協会 (SEWA)

編集

自営女性労働者の実情

編集

インドでは多くの女性が家計を助けるために繊維産業に携わっていたが、ほとんどが自営(在宅)労働者で、道具類を借りるのに高い賃貸料を払い、金貸し、委託元、役人などから日常的に搾取や嫌がらせを受けていた。古着・古布の回収、青果売り、魚売り、タバコ巻き、水汲み・水運び、雑役婦、(石炭木材穀物、機械類など重い荷物の)荷車引きなどの職業においても同様で、労働者としての権利があり、州法によって保護されるのは企業の被雇用者のみであり、バットが引き続き参加した1971年の国勢調査でも自営女性労働者は「労働者」扱いされていなかった。彼女は同僚とともに調査を行い、自営女性労働者の97%がスラム街に住んでいること、93%が非識字者であること、平均4人の子どもがあること、低賃金労働者であること(月収は繊維労働者の50ルピーから青果売りの355ルピーまで)、多くが金貸し(特に高利貸し)を利用していること(最高は女性青果売りの79%)などの実情を明らかにした[3]

SEWA労働組合

編集

バットはこうした女性の労働条件を改善するためにはまず労働組合を組織しなければならないと考え、1971年12月に繊維労働者組合の会長アルヴィンド・バックの協力を得て、繊維労働者組合の女性部の主導により、労働組合「自営女性労働者協会 (SEWA)」を設立。翌1972年に1926年インド労働組合法に基づく正式な労働組合として登録された。アルヴィンド・バックが初代会長を務め、バットは1996年まで書記長を務めた[7]。SEWAは順調に発展を遂げ、創設3年でアフマダーバードの自営女性労働者5,258人が加入し、4年目には9,000人に達した。さらに、バーヴナガル(グジャラート州)に機織り職人のセンターが開設されると、機織りの女性2,000人が加入し、宗教的・文化的に異なる部族の女性の連帯につながった[5]。1983年には国際食品関連産業労働組合連合会に加盟した。これは、非正規労働者が労働組合運動において初めて労働者として認められたことを意味した[10]。SEWAの最終目標は女性の完全雇用と経済的自立であり、現在、インド14州(2014年2月現在で組合員1,732,728人)と他の南アジア諸国(スリランカブータンネパールバングラデシュパキスタンアフガニスタン)で活動を展開している[3]

SEWA協同組合銀行

編集
 
エラ・バットとSEWA会員の女性たち、SEWAを訪れたヒラリー・クリントンとともに (1995年)

SEWAの次の課題は女性の負債軽減であった。バットはこのためにSEWA協同組合銀行した。各組合員が10ルピーずつ出資した。SEWA協同組合銀行の株主は現在4,500人以上、約1万人の女性が預金口座を有している(2014年2月現在)。SEWA協同組合銀行は、低金利融資と併せて、収益拡大の方法を教え、貯蓄を奨励し、自立心を育成するなど女性の経済的自立を支援することを目的とした。この結果、組合員の8割以上が定期的に(もしくは、不定期にではあっても)融資を返済し、徐々に土地資産生産手段を手に入れることができるようになった[3]

SEWAは専門技能・知識の向上のために71の協同組合を設立した。さらに識字教育、託児所の設置、低家賃住宅の確保、医療・育児・寡婦手当の確保、ハラスメント対応などにも取り組んでいる。

このように、SEWA運動は、労働組合運動、協同組合運動、女性運動という3つの運動が合流することにより発展した[11]。バットは、「貧しい人々を貧しいままにしておくことは暴力であり」、SEWAの目標は、「貧困の撲滅を通して平和を築く」ことであると語っている[12]

その他の国内外での活動

編集

バットはSEWA労働組合の書記長、SEWA協同組合銀行の社長を務める一方で、グジャラート女性農業労働者組合、自営女性労働者組合および建設労働者組合の副会長、グジャラート州成人教育委員会および(子供の人権を守るために活動する独立系の国際非政府開発組織)「SOS子供の村」の諮問委員会委員などを歴任した[3]。さらに、女性小規模起業家を支援するマイクロファイナンス金融機関の全国規模ネットワーク「サ・ダーン (Sa-Dhan)」[13]、女性を対象としたマイクロファイナンス学校、在宅労働者の国際ネットワークホームネット (HomeNet)[14]露天商国際同盟を創設した[4]

1976年には、ガーナの起業家でマイクロクレジットの先駆者エスター・アフア・オクルー英語版[15]、1950年代に当時まだ男性社会であったウォール街の金融業界で活躍したミカエラ・ウォルシュ英語版とともに女性のための世界銀行 (WWB) を設立し、1984年から88年まで会長を務めた。これは世界40のマイクロファイナンスその他の金融機関のネットワークで[16]、WWBジャパンも1990年に設立された[17]

また、1997年に設立されたWIEGO(非公式雇用における女性 ― グローバル化・組織化)運営委員会の委員長を創設時から2005年まで務めるほか、ロックフェラー財団管理委員会委員など[18]、世界規模の慈善事業団体で委員を務め、2007年には、ネルソン・マンデラ、ジミー・カーターフェルナンド・エンリケ・カルドーゾグロ・ハーレム・ブルントラントマルッティ・アハティサーリメアリー・ロビンソングラサ・マシェルデズモンド・ムピロ・ツツムハマド・ユヌス李肇星ラクダール・ブラヒミフランス語版アウンサンスーチー(自宅軟禁中のため欠席)とともに、マンデラを中心とする元政治家、平和運動家、人権擁護活動家らの非政府組織「エルダーズ」を立ち上げた。バットは2016年以降、名誉会員である[19]

1986年、ギャーニー・ジャイル・シン大統領にラージヤ・サバー(連邦議会)議員に任命され(任期3年)、議会内の「自営女性労働者に関する国家委員会」委員長を務めた[6]

2006年、オックスフォード大学出版局からバットの著書『私たちは貧しい、しかし、多数だ ― インドの自営女性労働者の物語』が出版された。

受賞・栄誉

編集

著書

編集
  • Bhatt, E. R. (2006). We are poor but so many: the story of self-employed women in India (私たちは貧しい、しかし、多数だ ― インドの自営女性労働者の物語). Oxford University Press.

脚注

編集
  1. ^ VoI, Team (2022年11月2日). “Ela Bhatt, The Face Of Gentle Revolution, Dies Aged 89” (英語). Vibes Of India. 2022年11月2日閲覧。
  2. ^ 全インド女性会議は、「マーガレット・カズンズ英語版のイニシアティヴで、女性教育を検討するためにサロージニー・ナーイドゥー、ターター夫人をはじめ、全インドのヒンドゥームスリムパールシー(インドのゾロアスター教徒)、ヨーロッパ女性たちが2,000人ほど参加し、第1回会議を1927年1月5日から8日までプネーで開いた。第1回会議の大成功以来、毎年年次大会を開き、全インドからほとんどの有名女性、参加者が集まる画期的なものであった」(出典:長崎暢子第III部:開発・政治・女性運動 第7章 20世紀のインド社会と女性 ― 民族運動と現代政治」『南アジアの社会変容と女性』シリーズ研究双書470、223-251頁、日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所、1997年)。
  3. ^ a b c d e f g h i Ela Ramesh Bhatt” (英語). Akshara Network | livelihoods (2014年2月). 2019年6月9日閲覧。
  4. ^ a b Jisha Francis (2014年8月4日). “A Gandhian revolutionary: The humble beginnings of Ela Bhatt” (英語). Women's World Banking. 2019年6月9日閲覧。
  5. ^ a b c Organizing The Unorganized - Ela Bhatt” (英語). Akshara Network | livelihoods (2009年1月). 2019年6月9日閲覧。
  6. ^ a b Ela Bhatt | Biography & Facts” (英語). Encyclopedia Britannica. 2019年6月9日閲覧。
  7. ^ a b Self Employed Women’s Association | About Us | History” (英語). www.sewa.org. 2019年6月9日閲覧。
  8. ^ ハリジャンは「神の子」の意で、カースト差別撤廃を唱えたガンディーが不可触民の代わりにこの呼称を用いるよう提唱した(出典:ハリジャン - コトバンク
  9. ^ Rajni Bakshi (2008年9月1日). “A cooperative in India: the Self Employed Women's Association (SEWA)” (英語). Socioeco.org. 2019年6月9日閲覧。
  10. ^ The History of Organizing Informal Workers” (英語). www.wiego.org. 2019年6月9日閲覧。
  11. ^ 第27回庭野平和賞 贈呈理由”. 庭野平和財団. 2019年6月9日閲覧。
  12. ^ 第 27 回庭野平和賞受賞記念講演 エラ・ラメシュ・バット - 女性・仕事・平和”. 庭野平和財団. 2019年6月9日閲覧。
  13. ^ Sa-Dhan” (英語). 2019年6月9日閲覧。
  14. ^ HomeNet” (英語). HomeNet - The International Network for Homebased Workers. 2019年6月9日閲覧。
  15. ^ Esther Afua Ocloo Biography” (英語). The Famous People. 2019年6月9日閲覧。
  16. ^ Women's World Banking | Women's Financial Inclusion” (英語). Women's World Banking. 2019年6月9日閲覧。
  17. ^ 【WWBジャパン】地方創生、田舎で起業 - WWBジャパンについて”. www.p-alt.co.jp. WWBジャパン. 2019年6月9日閲覧。
  18. ^ Entretien avec Ela Bhatt, fondatrice des coopératives SEWA” (フランス語). base.d-p-h.info. Centre for Education and Documentation (CED). 2019年6月9日閲覧。
  19. ^ Who we are” (英語). The Elders (2018年9月17日). 2019年6月9日閲覧。

参考資料

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集