ゆうきみほ
ゆうき みほ(1949年7月20日[1] - )は、日本のバレリーナ。元女優でもある。
ゆうき みほ ゆうき みほ | |
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本名 | 靭啓子[1] |
別名義 | 靭啓子 |
生年月日 | 1949年7月20日(75歳) |
出身地 | 日本 東京都 |
職業 | バレリーナ・女優 |
ジャンル | 映画・テレビドラマ |
活動期間 |
1960年代 - 現在(バレリーナ) 1972年 - 1974年(女優) |
著名な家族 | 靱勉(父) |
主な作品 | |
『赤い靴』 |
人物
編集東京都出身[1]。国際電信電話社長などを務めた靱勉の次女[2]。「良家のお嬢さん」とも紹介されたことがある[3]。
4歳で橘秋子主宰「橘バレエ学校」入学[1][4]。小学2年生の時にバレエの「白鳥の湖」の主役に選ばれる[4]。同校卒後、牧阿佐美主宰「牧阿佐美バレエ団」に入団。16歳の時に「白鳥の湖全幕」に出演してプロのバレエダンサーとしてデビューを果たす。1968年と1970年の 二度にわたりニューヨークにバレエ留学をした[1]。この当時は、本名の靫啓子(うつぼ けいこ)[1]と名乗っていたとする文献もある[5]
1972年、TBSテレビ(東京放送テレビ局)系で放送された連続ドラマ『赤い靴』(製作・TBSテレビ、東宝)のヒロイン・小田切美保役を勝ち取り、この際に現在の芸名「ゆうきみほ」として女優としても活動。この芸名の名付け親は作家の五味川純平[6]。同作品は、「牧阿佐美バレエ団」が監修・協力し、実際の同バレエ団のレッスン場や舞台での撮影も行われている。その他テレビドラマ出演歴がある。
一方でこの1972年当時、カーマニアであることを明かしたことがあり[1]、「もし男に生まれていたら、カーレーサーになっていたかも」と話していたことがある[7]。
女優業を引退し、バレリーナの活動に専念してからも引き続き「ゆうきみほ」として舞台出演を続けており、1978年、ベルギー王立バレエ団の団員として契約・渡欧を果たした。1985年、第11回橘秋子賞優秀賞[8]、1988年、服部智恵子賞。
2008年、自らのバレエ団「Yuki Miho Ballet」を設立。それ以後も牧阿佐美バレエ団、橘バレエ学校の講師も務め、後進の指導に当たるほか、「全国舞踏コンクール(東京新聞主催)」「名古屋バレエコンペティション21」「こうべ全国洋舞コンクール(神戸新聞主催)」「NBAバレエコンクール(NBAバレエ団主催)」[9]などの各種バレエコンクールの審査委員を務めている[10]
2016年、「Yuki Miho Ballet」を発展解消し、「バレエスタジオ・エトワールYUKI」を発足[11]。千葉県八千代市にて教室を開いている。
女優としてのテレビドラマなど出演歴
編集- 赤い靴(上述 主演)
- この放送期間中に「小学館の学年別学習雑誌」にこれと連動した少女向けのバレエ教室の読み物を執筆している。
- どっこい大作(NET・1973年、第42話・第43話、山岸美沙 役)
- 走れ!ケー100(TBS・1974年、第42話)
- 隠密剣士 突っ走れ!(TBS・1974年、第11話・第12話、朱実 役)
- 白い牙(日本テレビ・1974年、第22話「クレージーライダー」)
- 夜明けの刑事(TBS・1974年、第5話「猛犬は追いつめる」)
出典
編集- ^ a b c d e f g 週刊TVガイド 1972年11月17日号 175頁 - 177頁 本人の記事。
- ^ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)う101頁
- ^ 朝日新聞朝刊 1972年11月6日24面「今週の顔」
- ^ a b 小学二年生 1973年6月号 70頁 - 71頁「ゆうきみほものがたり」
- ^ ヤング4人による連夜の「白鳥の湖」の思い出 (2003.10.20)(山口's ホームページへようこそ)
- ^ 週刊文春 1972年10月9日号 78頁 - 79頁『赤い靴』記事。
- ^ 週刊プレイボーイ 1972年10月3日号 184頁 - 185頁「レーサーになりたかった!!TVドラマ“赤い靴”に進出したバレリーナ ゆうき・みほ」
- ^ 音楽の友 1985年6月号 95頁 本人の記事。
- ^ NBA全国バレエコンクール・審査員(過去の審査員の欄に記述あり)
- ^ etoile-yuki TEACHER
- ^ 2015年から2016年に(ゆうきみほのブログ)
外部リンク
編集- etoile-yuki
- Facebook・BalletStudio Etoile-yuki
- ゆうきみほのブログ
- バレエスタジオ【エトワールユキ】 (@balle_studio_etoile_yuki) - Instagram