Wikipedia‐ノート:著作権/引用についての抜本対策

最新のコメント:18 年前 | トピック:ガイドラインの私案を作成しました | 投稿者:Ks aka 98

ここでは引用についての抜本対策について話し合いましょう。

ここでの発言にあたっては、以下の議論を踏まえて頂きますようお願いします。

抜本対策ができるまでの過渡期的措置については「暫定対策」で話し合いましょう。

はじめに

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抜本対策というのは、要するにWikipedia:引用のガイドラインを作るということを意味します。ここで言う“ガイドライン作り”というのは、単に「こういう引用はダメですよ。こういう引用はいいですよ」ということを書くだけでなく、以下のようなことも含むものとします。

  • 決められた基準をスムーズに運用する為に必要に応じてテンプレートやカテゴリを作るなどの対策
  • Wikipedia:引用のガイドラインとそれ以外のプロジェクト文書との整合性を確保する為、それ以外のプロジェクト文書を改定する作業


ガイドラインの私案を作成しました

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利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案) を作成しました。議論が分散するのは望ましくないので、ご意見はこのセクションに集約していただければと思います。--Tamago915 2005年9月1日 (木) 10:50 (UTC)返信

  • 細かい話ですが、実際に引用を行おうとする場合
(著作権者、『著書名またはページタイトル』、ページまたは URL より引用)
の著者名、『著書名』となる部分を番号化して、
(参考文献(1)、p.xxx-yyy)
と表し、文末で改めて
参考文献
(1)永井荷風(著)・磯田光一(編)『摘録 断腸亭日乗(下)』岩波文庫版(第28刷)
(2)...
のように記述できるものであってほしいと感じました。同一文献から複数の引用を行う場合、あるいは被引用著作物を「第x版」のように正確に指定したい場合の記述の煩雑化を避けるメリットを考えてのことです--にごう 2005年9月1日 (木) 11:44 (UTC)返信
いま時点において、私Uryahは、引用を禁止することの問題点-引用が必要な場合 にて「Minoru223 2005年9月1日 (木) 05:51 (UTC)」さんによって整理された条件+Tamago915さんが起草して下さった引用のガイドライン (私案)+「にごう 2005年9月1日 (木) 11:44 (UTC)」さんが加えられた提案、の案に支持を表明します。Uryah 2005年9月1日 (木) 13:38 (UTC)返信
ちょっと修正してみました。著作権者と著書名を1つの変数で表すようにして、通し番号を付けられるようにしています。--Tamago915 2005年9月1日 (木) 23:16 (UTC)返信

大枠

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Tamago915さん、案の作成お疲れ様でした。まずは大枠のところから意見を述べさせて頂きますが、「定義」「この文書の適用範囲」「この文書に違反する引用を見つけた時の対応」という節を追加するのが良いと思います。

「定義」の節は例えば次のような内容です。

  1. この文書において特にことわりのない限り、「引用」とは著作物の引用を指します。
  2. この文書において特にことわりのない限り、「著作物」とは著作権のある著作物を指します。
  3. この文書において特にことわりのない限り、「著作権のある著作物」とは日本、アメリカいずれかの著作権法において著作権が保護の対象となっている著作物を指します。

「この文書の適用範囲」の節は例えば次のような内容です。

この文書は日本の著作権法32条で認められた引用をウィキペディアで行う際の方法について述べたものです。従いまして、著作権の切れた著作物を引用する場合や、著作権者から許可を得て引用する場合には適用されません。しかし、ウィキペディア全体の整合性を保つ為、そのような場合もできるだけ本ガイドラインに従うようにして下さい。

「この文書に違反する引用を見つけた時の対応」という節は例えば次のような内容です。

  1. 引用以外の部分の文章を変えたり、引用部分の形式を手直しすることによってガイドラインに合致する状態になる場合には、そのように編集を行って下さい。
  2. 上記の編集によってガイドラインに合致する状態にすることができない場合には、次のように対応して下さい。
    1. 著作権法に違反していると思われる場合は、削除依頼を出して下さい。
    2. 著作権法には違反していないと思われる場合は、編集によって引用部分を消して下さい。

それから、「引用の範囲」という節には数字があった方が良いかも知れませんね。例えば次のような感じです(数字は適当)。

  • ひとつの引用の文字数に対し、それを説明する部分の文字数が1.5倍以上になるようにして下さい。
  • ひとつの記事における引用の総文字数が、記事全体の文字数(但し、引用の出典を示す為の文字列を除く)の30%未満になるようにして下さい。
  • 上の2つの項目において文字数を数える場合、全角文字を1とし、半角文字を0.5とします。

--Minoru223 2005年9月2日 (金) 04:00 (UTC)返信

対応したいと思いますが、明日あさってネットから離れますので、反映は少し遅れますが、ご了承下さい。その間にも何なりとご意見を出していただければと思います。--Tamago915 2005年9月2日 (金) 14:13 (UTC)返信
指摘された部分を追加してみました。ただし、数値基準については、議論がまとまりそうにないので、手を加えずにいます。--Tamago915 2005年9月4日 (日) 13:37 (UTC)返信

Tamago915さん、修正作業お疲れ様です。各々の項目の妥当性の議論が既に一部始まっていますが、その前にガイドラインに存在すべき項目が全て網羅されているのかどうか、検証してみたいと思います。このガイドラインは、まず最低ラインとして昭和55年の判例に反する引用がされる確率を極限まで下げる為の配慮がされていること、そして、この議論の過程で出てきた直接的な著作権法違反以外の様々なリスクを極限まで下げる為の配慮がされていることが求められていると認識しています。現在のガイドライン案及びここでの議論がこれらの点を踏まえているかどうかを考えてみました。

  • 著作権法に関する判例
  1. 引用する必然性があること:「引用の前提」「引用の目的」の各節によって判例が求めるよりも狭く限定してある。
  2. 引用文と地の文が明確に区別できること:「引用の方法」という節によって区別できるように配慮してある。
  3. 地の文が主、引用文が従の関係にあること:量的な主従関係についてはこのページの「数値基準」という節で議論中。質的な主従関係については言及がないので追加する必要があると思われる。
  4. 引用元を明示していること:「引用の方法」という節によって明示の義務付けを行っている。
  • 直接的な著作権法違反以外のリスク
  1. 後から編集されて違法状態になる場合がある:このリスクを減少させる為に、「引用の前提」「引用の目的」によって引用の件数を減らそうとしていると共に、「数値基準」によってひとつの記事あたりの引用の分量を減らそうとしている。
  2. 正当な引用か否かを判定する手数を増大させる:手数を減らす為に「引用の前提」「引用の目的」によって引用の件数を減らそうとしていると共に、「ガイドラインに従っていない記事を見つけたときは」という節によって削除依頼の件数を抑制しようとしている。
  3. 国によって著作権法が異なる:日本とアメリカの著作権法に従っていれば良いという説が正しければ、「定義」の節でアメリカも含む旨明記されている。
  4. 引用の容認はコピペの増大を招く:このリスクを減少させる為に、「引用の前提」「引用の目的」によって引用の件数を減らそうとしていると共に、「数値基準」によってひとつの記事あたりの引用の分量を減らそうとしている。
  5. 違法でなくても苦情・訴訟のリスクはある:このリスクを減少させる為に、「引用の前提」「引用の目的」によって引用の件数を減らそうとしていると共に、「数値基準」によってひとつの記事あたりの引用の分量を減らそうとしている。
  6. GFDL上の自由な再利用を制限する:GFDL上の解釈につき確認中

ということで、GFDLの部分を別にすれば、項目として足りないのは地の文と引用との質的な主従関係についての配慮であり、それ以外については何らかの配慮が既に入っているようです(もちろん、「そんな配慮じゃ足りないからもっと厳しくすべきだ」というような議論はこれからしていくわけですが)。「引用の目的」の次あたりに、“引用は、解説文を成り立たせる為にのみ行うこと。引用を行わなくても解説文の意味が通る場合には引用は行ってはならない”というような規定を入れてはどうでしょうか。--Minoru223 2005年9月6日 (火) 01:40 (UTC)返信

そこまで厳しくするのもどうかな、と感じました。主従関係について直接言及しているわけではありませんが、引用の前提のセクションで引用は「引用で記事が充実する場合」「引用で記事が簡潔に書ける場合」に限っており、引用の範囲のセクションで「引用は必要最低限の部分に限る」としています。この上で引用の主従関係に言及するとすれば、「引用は、解説文を成り立たせる為にのみ行うこと」だけでよく、後段は必要ないのではないでしょうか。あと、量的な線が引けるならそれも追加することになると思います。--Tamago915 2005年9月6日 (火) 14:44 (UTC)返信

>“引用は、解説文を成り立たせる為にのみ行うこと。引用を行わなくても解説文の意味が通る場合には引用は行ってはならない” これは一般的な引用のガイドラインにも入っているものですね。当然入るべきものでしょう。上記されているガイドラインですが、その範囲がさっぱり明確ではありません。実際に削除依頼等に出たときに判断するための何の助けにもなりません。曖昧すぎます。「引用で記事が充実する」「引用で記事が簡潔に書ける」などはどうやって判断するのでしょうか?安全を考えるならば後者は引用しなくても記事が書けるわけですから対象からはずすべきと思います。--Suisui 2005年9月6日 (火) 15:32 (UTC)返信

「一般的な引用のガイドライン」とは、例えばどのようなものでしょうか。参考にしたいと思いますので実例を挙げていただけますでしょうか。できればウェブ上のものでお願いします。--Tamago915 2005年9月6日 (火) 23:45 (UTC)返信
ガイドライン私案の「引用の前提」を大幅に修正しました。文書の利用の許諾条件を問わず、引用なしで解説できる場合は引用を認めないとしてみました。ちょっと厳しくしすぎているかもしれませんが、ご意見を伺いたいと思います。--Tamago915 2005年9月7日 (水) 09:41 (UTC)返信
この「大枠」という節は、ガイドラインにはどんな項目が網羅されているべきかを議論する場所だと思いますので、質的主従関係についての何らかの言及を入れて頂いたということを以ってこの話題は終了ということで良いと思います。Tamago915さんの文面に対して意見のある人は、「引用の前提」というサブセクションを作って表明するのが良いと考えます。--Minoru223 2005年9月8日 (木) 00:52 (UTC)返信

>Tamago915さん ご自分でもガイドラインに一部かかれているのに理解されてない、と判断してよろしいでしょうか。引用する必然性があることは判例でも示されている、とご自分でお書きになっています。引用の前提には常に引用が必然性があることが求められるのでそれも前提に加えるべきと考えます。何を持って必然性があると判断するか私には見当がつきませんが。しかし今回Tamago915さんがこの質問をされたことでガイドラインそのものに対する不安感が非常に増しています。本当に理解して書かれているのでしょうか。すでに示されている問題点について本当に利迂回されているのでしょうか。ガイドラインを作成するのに適した方なのでしょうか。いろいろ大いに疑問に感じます。--Suisui 2005年9月8日 (木) 04:36 (UTC)返信

「一般的な引用のガイドライン」という言葉の意味を取り違えており、これまで話題に上げられたものとは別にガイドラインが存在するものと誤解していました。最高裁判決で提示されているガイドラインのことを指しているということですね。失礼しました。
私がガイドラインを作成するのに適任だ、と胸を張っていえるわけではありませんが、誰かがやらないといけない作業だと思います。1年前の井戸端掲示板のときのように、うやむやに終わらせたくないですし。もっとも、誰か他の方がガイドラインの作成を行っていただけるのであれば、喜んでその役割をお譲りしますが。--Tamago915 2005年9月8日 (木) 09:30 (UTC)返信

ということはやはり理解しないで書かれていた、という認識を強めました。あれだけしかないガイドラインの内容が思い浮かばないのは不自然すぎます。私も好きで文句を言っているのではありません。やるからにはそれなりに勉強してください。ガイドラインがまとまるかどうかについて残念ながら非常に疑問が大きくなりましたが、議論が終るころにTamago915さんがウィキペディアの中で誰よりも引用について詳しい、Tsamago915さんに聞けば大丈夫だ、というような状態になっていることを強く望みます。--Suisui 2005年9月9日 (金) 05:50 (UTC)返信

著作物と文書

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「定義」というところを初めとして、ガイドラインの様々な箇所で“文書”という言葉が使われていますが、引用の対象は文書だけではないので、やはり“著作物”という言葉を使った上で、その言葉自体の定義も加えるのが良いかと思います。--Minoru223 2005年9月9日 (金) 04:09 (UTC)返信

映像作品からの引用の問題が指摘されていることもあり、引用は文書に限定したほうがよいかもしれません。「文書」をきちんと定義する必要性については了解しました。--Tamago915 2005年9月9日 (金) 09:38 (UTC)返信
引用の対象を文書に限る形で修正してみました。ウィキペディアでは画像や音声の引用は行わないということです。いわゆるアスキーアート(文字で描いた絵)や、漫画のせりふ(絵の中の文書)をどう扱うかはまだ検討していません。--Tamago915 2005年9月9日 (金) 10:20 (UTC)返信
仮に文書以外の引用は許さないとしても、「定義」の節では文書以外からの引用を含めて“引用”と呼ぶ必要があると思います。今の構成ですと、“文書以外の著作物からの引用はここでは引用とは呼ばない”と言っているにもかかわらず、別のところで“文書以外の著作物からの引用は禁止する”と述べていることになり、本来このガイドラインが語る対象としていないものを禁止するという妙なことをしていることになってしまいます。--Minoru223 2005年9月12日 (月) 06:06 (UTC)返信

避けるべきリスク

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また、「著作権法と引用」というところに“違法行為のリスクを避けるため”と書いてありますが、引用に縛りをかけることの目的は必ずしも違法行為を避けることばかりではないことはこれまでに議論して来た通りです。審査の手間や訴訟リスク(敗訴するリスクではなく訴訟を起こされること自体のリスク)のことを書いた上で、「ウィキペディアでは法律が認める範囲よりも狭い範囲でしか引用を許しませんよ」ということは明記しておくべきでしょう。--Minoru223 2005年9月9日 (金) 04:09 (UTC)返信

修正しました。--Tamago915 2005年9月9日 (金) 10:14 (UTC)返信

公正な慣行

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同様の指摘なので別の節のこともついでに書いてしまいます。「ウィキペディアにおける引用のガイドライン」という節の冒頭に“著作権法でいうところの「公正な慣行」をここに定めるものとします”と書いてありますが、私たちがここでしようとしているのはそういうことではなく“ウィキペディアにおいて認められる引用”を定めようとしているのだと理解しています。--Minoru223 2005年9月9日 (金) 04:09 (UTC)返信

著作権法第32条には、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり(後略)」とあるので、ウィキペディアにおける公正な慣行を示すことで、ウィキペディアにおいて認められる引用を定めるということでこのような表現をとっています。両者は同じことを言っているのだと思いますが、違う概念でしょうか。--Tamago915 2005年9月9日 (金) 09:38 (UTC)返信
とりあえず、公正な慣行を示すことでウィキペディアにおいて認められる引用を定める、という形に書き直しました。--Tamago915 2005年9月9日 (金) 10:17 (UTC)返信
Tamago915さんのひとつ前のご発言の中の「違う概念でしょうか」という部分ですが、明らかに違う概念だと思います。著作権法では「公正な慣行に合致する引用ならしていいですよ」と言っているのに対し、ガイドライン案では「著作権法が認めるよりも狭い範囲でしか引用を認めませんよ」と言っています。後者を言い換えると「ウィキペディアでは公正な慣行に合致している引用ならなんでもしていいというわけではありませんよ」ということになります。従いまして、“ウィキペディアにおいて引用が認められる範囲”を定義することは、“公正な慣行”を定義するのとは別のことということになります。--Minoru223 2005年9月12日 (月) 06:15 (UTC)返信

了解しました。公正な慣行という記述は削除するようにしました。--Tamago915 2005年9月12日 (月) 11:51 (UTC)返信

引用の前提

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ガイドライン(私案)の「引用の前提」部分を修正しました。「その文書を引用しないで記事を書いたときに記事の本質が変化してしまう場合」を引用の前提としています。これが引用の必然性の判断基準になるのではないかと思います。--Tamago915 2005年9月8日 (木) 11:30 (UTC)返信

「本質」という言葉はやや曖昧だと思われるので、もう少し詳しく書いた方がいいように思います。また、一般的に引用箇所を削除したら文章の本質が変わるなんてことはなく、単に意味がわかりにくくなるだけだと思いますので、「その引用がなければ文章の意味が通らない場合」という感じではないでしょうか。また、“質的な主従関係”という言葉が「引用の範囲」という節に入っていますが、この節にこそ書いておくべき概念だと思います。--Minoru223 2005年9月9日 (金) 03:55 (UTC)返信
2点の指摘を反映させて修正してみました。--Tamago915 2005年9月9日 (金) 04:06 (UTC)返信

数値基準

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「ひとつの引用の文字数に対し、それを説明する部分の文字数が1.5倍以上になるようにして下さい」「ひとつの記事における引用の総文字数が、記事全体の文字数(但し、引用の出典を示す為の文字列を除く)の30%未満になるようにして下さい」は、本質的な話としては根拠はわかりません(判例など)が、Wikipediaにおける現実問題としてここで合意を得る、という意味では、賛成を表明します。Uryah 2005年9月2日 (金) 14:31 (UTC)返信

(感想)引用部分30%というのは、馬鹿に多すぎないか?実質ほとんど転載のみ記事になるのでは。 --忠太 2005年9月2日 (金) 16:43 (UTC)返信
30%としたことの根拠が明確ではありません。通常の本などでの引用を考えれば1/100でも多すぎるぐらいかと思います。30%とした理由は何なのか。それで安全といえる指標あるいは判例が何なのか明らかにならない限り納得はできません。--Suisui 2005年9月2日 (金) 16:48 (UTC)返信
数値基準はいくつにしても根拠がないのですが、主従関係を壊さないためというのが目的であれば、「セクションの半分を超えないこと」くらいの条件になってくるのかもしれないと思います。Suisui さんのいわれる「1/100」というのは、ウィキペディアの全記事に対する引用の分量をいっていると思われるので、ここでの議論とは少しずれてきているのではないか、と感じました。--Tamago915 2005年9月2日 (金) 21:52 (UTC)返信
(感想)「数値基準はいくつにしても根拠がない」というのはその通りです。仮に30%だと、著作から何箇所も抜き書きして簡単なコメントを付けた程度の記事がいくらでもできてしまいます。実際に引用された状態でみないと何ともいえません。それから、著作権者が引用できる範囲をおおよそ示されている場合もあり(歌詞などは曲が特定できるとダメ、聖書協会の日本語訳は1つのサイト全体で250節まで、など)、一律な基準を作ること自体に問題があるかと。仮に数値で示すなら、「引用は原則1センテンスで、一記事5箇所程度まで、なおかつセクションの半分を超えないこと」くらいの厳しいものにするというのも一案ですが、なぜこの数値になったのか、の議論は常に再燃するでしょうね。 --忠太 2005年9月3日 (土) 01:17 (UTC)返信
(コメント/注記)念のためなんですけど、「歌詞などは曲が特定できるとダメ」というのはJASRACがそう主張しているというだけの話であり、引用の是非とは無関係です(日本の著作権法とも無関係だ)。JASRACは「引用」という言葉を使わず「利用」という言葉を使っており、その「歌詞の利用」という概念は独自の概念となっております。著作権ネタには、しばしばこのように著作権概念外の利害関係主張がまぎれこみますので、注意が必要かと。
--Nekosuki600 2005年9月4日 (日) 05:21 (UTC)返信
(感想&提案)まず、Wikipediaの運用において、基準の数値の根拠が必要という考えに同意します。
次に、(いま私が)インターネットで調べた範囲では、引用にまつわる著作権における数値は出てきません。たとえば社団法人著作権情報センターの1のページ。文化庁の総合インデックス→著作権~新たな文化のパスワード~→著作権Q&A にて引用で検索しても、「『公正な慣行』や『正当な範囲』とは、具体的にはどのようなものですか」という問いには、「質的量的に主従の関係であること」という答え、「他人の著作物を引用できる限度はどの程度までですか」という問いには、「『引用』とは、例えば自説を補強するために自分の論文の中に他人の文章を掲載しそれを解説する場合のことをいいますが、法律に定められた要件を満たしていれば著作権者の了解なしに著作物を利用することができます(第32条)。この要件とは、[1]公表された著作物であること、[2]公正な慣行に合致すること、[3]報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われること、[4]出典を明記すること(コピー以外はその慣行があるとき)です。[2]と[3]の要件については、少なくとも自分の著作物と他人の著作物が明瞭に区分されていること、引用にいてそれなりの必然性があり、自分の著作物が主で引用する他人の著作物は従たる存在であることが必要と考えられます。これらの要件を全て満たしていれば、著作権者の了解は必要ありません 」という答えになっていて、何パーセントが可・不可といった基準の数値は出ていません。
よって、<著作権上の根拠(で)はないが、Wikipedia(という場)におけるルールとして何パーセントくらいの量の引用を可とするかを決める、意見を募る>、という発想はいかがでしょうか。で、たとえばChutaさんは、「2005年9月3日 (土) 01:17 (UTC)」でいわれるように厳しい意見ですね。私Uryahは少し寛容に、「セクションの半分を超えないこと」だけでいいのではないか、と表明します。Uryah 2005年9月3日 (土) 01:59 (UTC)返信
セクションの半分を超えないことが「厳しい」基準であると判断された理由が見当たりませんし、それで法的に安全だと捉えることができる論理も判例も存在していません。まったく根拠のない話なので基準として採用するには程遠いと思われます。--Suisui 2005年9月3日 (土) 02:49 (UTC)返信
asahi.comトップ>朝日新聞社から>サイトポリシー>著作権についての引用の項に、「量的にも、引用部分の方が本文より短いことが必要です」とあります。一新聞社の(新聞記事にまつわる)表明であって、法律の条文でも判例でもないので、根拠にはならないかもしれません。が、参考にはなりませんでしょうか?
さて一方、ネットワーク上の著作権に関する新聞協会見解に、公衆送信権という言葉を見つけました。この言葉は、本ページで起こっている話し合いと関係するでしょうか。Uryah 2005年9月3日 (土) 08:53 (UTC)返信
(意見)えー、数値基準として絶対安全範囲を明示するということは、不可能です。ですから、目安にしかならない。とはいえ、目安の提示は、あまり著作権的に頭のよくないひとにはわかりやすいと思いますので、やっといてもいいような気がします。その場合の注意事項。「もともとこの割合までならば大丈夫だというような数値は存在しないという宣言」「目安であり絶対安全を保障するものではないという確認」「これはあくまでもWikipediaの運用のための目安であり安全な引用を行うための一般論ではないという注意書き」このあたりは書いておいてほしい。さもないと「Wikipediaでは**%までは引用が認められている。ここでもそうすべきだ」とかよそで言い出す馬鹿が絶対に出てくるから。
なお、目安は目安なのであり、そこを越えたからといって一律に削除対象とするのではなく、そこを超えたら審議対象とする、というレベルにしといて欲しいですね。こういうのっていつのまにか思考停止のための基準になりかねないものだから。
--Nekosuki600 2005年9月4日 (日) 05:21 (UTC)返信

主従関係は単純な数値化は不可能でしょう。そういうことをすると、しょうもない一覧(出演者とかスポンサーの羅列)で水増ししてごねる輩が出ることは目に見えています。質的なものも加味して個別に判断する以外無いと考えます。もちろん、量的にも「引用部分」>「地の部分」では論外でしょうけれど。あと、公衆送信というのは著作権法第2条で説明されています。Webなどは「自動公衆送信」にあたります。sphl 2005年9月3日 (土) 16:12 (UTC)返信

いま時点までで、本話し合いで 数値基準について出ている意見 は、下記と整理します。
  • 「ひとつの記事における引用の総文字数が、記事全体の文字数(但し、引用の出典を示す為の文字列を除く)の30%未満になるようにして下さい」-「Minoru223 2005年9月2日 (金) 04:00 (UTC)」さんの文面案提示の中での仮の数値
  • 「(略)30%未満になるようにして下さい』は、本質的な話としては根拠はわかりません(判例など)が、」「賛成」-「Uryah 2005年9月2日 (金) 14:31 (UTC)」の意見
  • 「引用部分30%というのは、馬鹿に多すぎないか?」-「忠太 2005年9月2日 (金) 16:43 (UTC)」さんの意見
  • 「それで安全といえる指標あるいは判例が何なのか明らかにならない限り納得はできません。」-「Suisui 2005年9月2日 (金) 16:48 (UTC)」さんの意見
  • 「『セクションの半分を超えないこと』くらいの条件になってくるのかもしれない」-「Tamago915 2005年9月2日 (金) 21:52 (UTC) 」さんの意見
  • 「『引用は原則1センテンスで、一記事5箇所程度まで、なおかつセクションの半分を超えないこと』くらいの厳しいものにするというのも一案」-「忠太 2005年9月3日 (土) 01:17 (UTC) 」さんの意見
  • 「『セクションの半分を超えないこと』だけでいいのではないか」-「Uryah 2005年9月3日 (土) 08:53 (UTC)」の意見
  • 「法的に安全だと捉えることができる論理も判例も存在していません」「基準として採用するには程遠いと思われます」-「Suisui 2005年9月3日 (土) 02:49 (UTC) 」さんの意見
  • 「単純な数値化は不可能でしょう」-「sphl 2005年9月3日 (土) 16:12 (UTC)」さんの意見
(一方で、「自動公衆送信」という言葉は、気になります。)Uryah 2005年9月3日 (土) 22:55 (UTC)返信

Uryahさんが正しく整理して下さいましたように、私が挙げた「30%」「1.5倍」というのは仮のものであり、別にその数字が良いと思っているということではありません。私としては「20%」でも「5%」でも構わないのですが、どの数字が妥当かを考える以前の問題として、まずは数値基準というものを作るか否かということを議論すべきかと思います。とりあえず私が数値基準があった方が便利だと考えた趣旨を説明させて頂きますが、それは必ずしも数値基準が直ちに著作権法上の合法性を保証するということではなく、次のような効果を期待してのことです。

  • 複製権への侵害の申し立てが出る確率は、記事に占める引用部分の比率が多ければ多いほど上がると考えられるので、その比率を低めておくことには苦情の件数を抑制する効果がある程度ある。
  • 引用部分が多い記事は、それを真似した“引用ではない複製”を招く可能性があるので、引用部分を抑えることによってそれを防ぐ。
  • 引用部分と解説部分の比率について制約を設けることによって、解説部分を充実させようとする動機付けを与える。解説部分の量を増やすことは、引用と解説との関連性を深めることと必ずしもイコールではないが、解説部分の量を増やす努力が結果的に引用との関連性を深める例もあると思われ、合法性を少しは高める効果がある。

もちろん、上記の効果はいずれも「ある程度の効果」であり、決して「完璧な効果」ではありません。これらの効果をもたらす為に数値基準よりも優れた案があるのであれば、私としては数値基準にこだわる考えは全くありません。--Minoru223 2005年9月5日 (月) 06:20 (UTC)返信

Minoru223さんが数値基準にこだわっている、とは私は思っていません。「Tamago915さんが試作されたテンプレートに、Minoru223さんが試加された節・文面」に、私Uryahは賛成いたします。私の「2005年9月2日 (金) 14:31 (UTC)」の発言(書き方)が、混乱を招いたかもしれません。申し訳ありませんでした。
数値基準は、次の3つの理由から求められるのだと理解します。

  1. 引用を出来るだけ認めたくない発想・立場から、引用に制限をかけたいから。
  2. 地の文と引用には主従関係が必要であり、それを明確にする基準が要るから。
  3. 管理の立場では、Wikipediaで行われた引用が合法であると主張できる明確な根拠が必要だから。

改めて、その基準は「セクションの半分を超えないこと」、その理由・参考事由は「朝日新聞社が『量的にも、引用部分の方が本文より短いことが必要です』と表明していること」、ではどうでしょうか?Uryah 2005年9月5日 (月) 12:26 (UTC)返信

改められても、法的根拠が示されていないので以前までとなんら変わりはありません。その意味でUryahさんの提案も残念ながらまったく意味がありません。また、数値基準を作ることができるとすればそれで得られるのは引用の量的主従関係の閾値だけで、質的主従関係については何も得られないと理解しています。両方の主従関係をクリアできる基準でなければ作っても意味がないことを先に申し上げておきます。--Suisui 2005年9月5日 (月) 12:38 (UTC)返信

「何パーセント以上なら不適切である」という線は引けると思います。引用と地の文の主従関係から考えて、セクションの半分というのが妥当な線でしょう。ですが、「何パーセント以下なら適切である」という線は引けないでしょう。どこの裁判でも数値基準を示した判例は出ていないし、法律でも定義されていないからです。数値基準を何のために設けるかですが、「何パーセント以下なら適切」という線を引こうとする議論は無益なだけだと考えます。--Tamago915 2005年9月5日 (月) 13:13 (UTC)返信

「数値基準を示した判例は出ていない」のであれば、根拠となる判例はWikipediaとして示せませんが、論理的には、「セクションの半分を超えないこと」で、量的な主従関係はWikipediaとして示せることになります。量については、これでどうでしょうか。
質的な主従関係については、 引用を禁止することの問題点 - 引用が必要な場合 にて議論することにしませんでしょうか?Uryah 2005年9月6日 (火) 13:27 (UTC)返信

Tamago915さん>「何パーセント以上なら不適切である」という線は引けると思います この基準は何を根拠にするのでしょうか?はじめに私が引用は無理だと指摘したときから何も話は進展していません。私ははじめからひとつのことしか言っていません。明確な基準とその根拠を示してください、と。Tamago915さんは毎回その問いだけ無視して返事を書かれています。ご自分で判例では明確な基準がなく、といいながら線がひけると思う、といわれているその矛盾点に早く気づいてください。

>Uryahさん 量的な判断の基準をWikipediaとして外に向けて示すことはそれなりの意味があることと思います。しかしその基準に法的裏づけがないのであればそれを示す意味はまったくありません。根拠を提示してください。また、はっきりした線引きができなければ引用が可能であってもそれを基にしたサイトの運営はできません。また、量的にも質的にも主従の関係になる、といったときにこの二つはそれぞれ個別にクリアするハードルがあるものではないと理解しています。わざわざ議論を分散させる必要は感じません。むしろ両方を同時に扱うべきと思います。--Suisui 2005年9月6日 (火) 15:22 (UTC)返信

Suisuiさん、では、下記はいかがでしょうか。
量的な基準について
  • 「セクションの半分を超えないこと」という基準で、Wikipediaとして、地の文と引用の間に論理的な主従関係を対外的に示すことが出来る。
質的な基準について
  • 「Q&A引用・転載の実務と著作権法」(北村行夫・雪丸真吾編 中央経済社 平成17年6月15日初版第2刷発行)という本に、「引用の要件としての『主従関係』における『従』とは、『報道、批評、研究その他の引用の目的』に照らして、被利用著作物を利用する行為の方法・程度・態様が、その目的の範囲にあるという意味です」とあります。
    この「方法・程度・態様」を限定して明確にする基準として(“引用の記述”を引用の目的の範囲に収める基準として)、(たとえば)下記の条件を設定する、というのはどうでしょう?
Wikipediaで引用を行う場合、以下の条件に合ったものでなければならない。引用を行う場合は、以下のどのケースでその引用を行うのかを宣言しなければならない(たとえばテンプレートに組み込んで、宣言を不可欠とさせる)。
  1. 学説の紹介のように、一字一句の正確性が求められる場合
  2. 語源や言葉の使い方の変遷を紹介する場合
  3. 著作物(文学・漫画・映像作品など)の一節や登場人物の台詞が非常に有名で、その作品を語る際にはその一節・台詞を引き合いに出すのが常識化している場合
  4. 人物・事物・事件についての発言が非常に有名で、その人物・事物・事件を語る際にはその発言を引き合いに出すのが常識化している場合
  5. 社会的な事件・事象・現象の説明を補強または反証する為にレポート・報告・報道を引用する場合
  6. ノートでの議論に際してある文献にどう書いてあるかが重要である場合
“引用の記述”が提示してあるケースに合致するかしないかで、引用の質的な基準に適うか否かが判定出来ます。議論が起こる場合にも、ケースの条文に適うか否かに焦点を絞ることが出来ます。Uryah 2005年9月7日 (水) 11:42 (UTC)返信
(コメント)引用するのであれば、学説かどうかに拘らず「一字一句正確」でないといけないのでは?(同一性の侵害になります)。
新聞社は有料で記事データベースを提供していますし、Wiki全体が(組織的に)むやみな引用を繰り返せば、使用料を請求されるリスクは高いと思います。映像(ディズニー)や漫画(サザエさん)も訴えられるおそれがあります。現実問題として、ほどほどの引用ならまあ文句は言われないだろう(本の宣伝にもなるし)、という分野と、相当神経を配らないと不味い分野があるように思われます。前にも書きましたが、自らの責任において執筆をする人なら問題ないのですが、何しろ厨房・工房が跋扈するWikiですから・・・ --忠太 2005年9月7日 (水) 12:16 (UTC)返信
(追記)ウィキニュースの方は余り読んでなかったのですが、引用についての判断はどうなっているのでしょう?(参照:ウィキニュース:スタイルマニュアルウィキニュース:赤提灯) --忠太 2005年9月8日 (木) 14:37 (UTC)返信

少し勇み足気味かもしれませんが、ガイドラインの私案を修正しました。「セクションの半分を超えてはならない」と明確に禁止し、半分以下であれば常に認められるわけではないと但し書きをつけています。--Tamago915 2005年9月7日 (水) 13:40 (UTC)返信

具体的に書いて頂いた方がイメージが沸くので勇み足ということはないと思います。私としては“セクションの半分”よりももっと範囲を狭くしておくのが良いと考えています。朝日新聞の「半分」という基準は参考になりますが、「朝日新聞社としては半分を超える引用には文句を言うことがありますよ」という意味であり、他の著作権者はもうちょっと厳しい基準を考えているかも知れません。ウィキペディアにおいては「できるだけ裁判で勝訴すること」ではなく、「できるだけ訴えられないこと」を目指す必要があるので、世間の相場が「50%」なのだとすれば、「40%」とか「30%」とかにしておくのが無難かと思います。また、忠太さんが提案された「原則1センテンス」というのも追加してはどうかと思います。--Minoru223 2005年9月8日 (木) 00:46 (UTC)返信

何度も繰り返しますが、Uryahさん、ガイドラインを作成したとして、それを基準に判断するにしても根拠と判断基準が明確でなければ意味を持ちません。たとえば「常識化している」というのはどういった判断を行えばいいのでしょうか? ネット上での著作権侵害が常識化している現状を見れば「常識化」の判断が非常に難しい主観の問題であることがわかるでしょう。長さの点に関しては忠太さん、Minoru223さんに同意します。50%という基準に論拠があるのであれば25%以下を基準とするのが望ましいとおもいますが、やはりそれ(50%)にも法的根拠がほしいと思います。また、Tamago915さんがすでに変更されたように半分以下でも引用と認められない場合がある、とあいまいな基準にされたのでは運用ができません。実際に判断する人が必要になることを考えてください。引用と認められない場合はどういった場合なのかそれも根拠あるルールが必要です。現在ほとんどの議論が引用が認められる場合についてに向いており、それにしたがってガイドラインを書き換えていますが、逆に認められない場合についてもしっかりした議論と論拠を持っておく必要があります。それと引用の目的で気づいたのですが、映像作品(アニメ含む)の場合、その台詞などの引用は明示的に認められてはいません。台本などが個別に一般に売られている場合は別ですが、これは作品によってまちまちですので映像作品からの引用は原則禁止すべきです。--Suisui 2005年9月8日 (木) 05:12 (UTC)返信

Chutaさん、一字一句正確でないといけないから、「学説の紹介」を引用のケースに含める、のであって、その他のケースが一字一句正確でなくていい、という意味ではありません(少なくとも、私はそう読解します。引用を禁止することの問題点 - 引用が必要な場合 参照)。それと、むやみな引用を繰り返さないための、基準をいまここで話し合っているのだと理解しています。引用の性格上、明確な引用ルールが決まったら、様々なところから事実や出来事を集めて再構成して作る場合が多いであろう地の文よりも、著作権侵害の可能性は低くなるのではないか、と私は想像しています。
Suisuiさん、数値基準の「セクションの半分を超えないこと」の根拠は、私の理解では、論理的にそれで主従関係になる、ということで、質的基準の判断基準は、ケースの条文そのもの、です。「常識化」が議論になることは、当該“引用の記述”がケースの条文に適うか否かが議論になるということで、あらゆることが突然話し合われる状況から、議論の焦点が絞られることになるのだ、と私は考えます。
ですが、それでは不足だ、ということであれば、「世間の相場が『50%』なのだとすれば、『40%』とか『30%』とかにしておくのが無難かと思います。また、忠太さんが提案された『原則1センテンス』というのも追加してはどうか」「50%という基準に論拠があるのであれば25%以下を基準とするのが望ましい」という意見に反対しません。「実際に判断する人が必要になる」ことが重いかもしれないことは、私も理解します。ですが私は、基準がルールとして決まったあとは、それに基づいて、参加者の間で話し合いが起こり、(賛成)と(反対)の多数決でWikipediaとして決まるものだと考えており、(結論)(を出す人にとって)は機械的に決まるもので、参加者の議論に資する基準があることが重要、と考えております。
「引用と認められない場合はどういった場合なのか」というと、私の理解では、量的に半分を超えるもの、質的にはケースの条文に合致しないもの、と「2005年9月7日 (水) 11:42 (UTC) 」で考えます、が、よりしっかりした議論が必要という意見に反対しません。
映像作品(アニメ含む)の話は、私はにわかに意見・提案は思いつきません。Uryah 2005年9月8日 (木) 13:51 (UTC)返信
結局のところ、数値基準は合意に達するのは難しいのではないかと思います。数値基準を決める目的は判断の明確化(言いかえれば、機械的な判断をするため)ですから、数値に従って単純に判断できなければ数値化の意味はありません。個々のケースについて個別に頭を絞るしか無いのではないでしょう。判断をしやすくするためということであれば、過去の引用を含む項目の削除依頼ログを収集・分類してガイドラインにそのリンクを列挙するほうが有効ではないでしょうか。ただ、過去の例を基準にすると慣習的に安全サイドに振った判断を継続するということになりがちなので、これに異論が出る可能性はありますが。
また、映像作品の引用禁止というのは、法的な判断を持ち出す以前に「最も安易なコピペが生じやすいから」であることを理由にしても良いと考えています。また、過去のせりふなどを含む削除依頼で調査した限り、この分野でのWebで検索できる「引用」例は引用の正当性の証明には殆ど参考になりません。怪しげな「引用」が相当数含まれており、「常識化」の例示として使われるとたまらないというのが実感です。sphl 2005年9月9日 (金) 11:09 (UTC)返信
そうなのかもしれないですね(半分を超えないことで論理的には主従関係になるから、上までの話し合いから、Wikipediaではそれよりも安全に振った30%とか20%とかで合意、でもいいのではないか、と私Uryahは思いますが)。「過去の引用を含む項目の削除依頼ログを収集・分類してガイドラインにそのリンクを列挙する」は、いい案だと思います(と表明しておきます)。Uryah 2005年9月10日 (土) 21:32 (UTC)返信

この「数値基準」というサブセクションの議論はなんだか不可思議な雲行きになっているように感じられます。9月7日にTamago915さんが手を入れるまでは、ガイドライン案には数値基準はありませんでした。それに対して「数値基準を加えるともっと良いガイドラインになるのではないか」というのがここで出ている提案です。それに対する反対論は、「数値基準に縛られるのなんかイヤだ。もっと自由に引用をさせてくれ」という立場から寄せられるものと思っていました。しかし、現実には引用に対して否定的な見解を持つ人たちから反対論が寄せられているという不思議な状況です。そのような立場の人たちから見て、引用に対してより厳しく制約を課すことに何か不都合があるのでしょうか?--Minoru223 2005年9月13日 (火) 05:15 (UTC)返信

まず、私は気持ちのうえではWikipediaで引用が出来るようになればいいな、と思っている者です。そのうえでコメントしますが、適法な(あるいはそれよりも訴訟リスク上安全な)引用を可とするために、量・質ともに地の文と引用の間に主従関係を持つ基準を作らなければならないので、数値基準を探しているのだ、と理解します。Uryah 2005年9月13日 (火) 21:31 (UTC)返信
数値基準を設けることは、結局その数値が正しいのかという議論になりますので、ナンセンスだということが理解されたかと思います。%ではなく判例のとおり、主か従かで判断すべきでしょう。--Ligar 2005年9月20日 (火) 06:37 (UTC)返信
「質的量的に主従の関係であること」「量的にも、引用部分の方が本文より短いことが必要です」という観点からは、「半分を超えないこと」で論理的に(は)要求を満たします。
いっぽう、「Q&A引用・転載の実務と著作権法」(北村行夫・雪丸真吾編 中央経済社 平成17年6月15日初版第2刷発行)という本には、「引用と利用の率」という項の問い「他人の著作物を100パーセント利用しても引用になることはありますか」に「あり得ます。このような場合は、量的に見ると従たる利用とは言えないとの疑問を生じるかもしれません。しかし、例えば、俳句の批評のためには、通常は俳句の表現をすべて利用しなければなりません。(改行)適法な引用において、従たるものとして利用される著作物の量は、一律には決まりません。結局、批評その他の目的に必要な限度の量(率)であるか否かという具体的な事情に基づいて決せられます」と答えがあり、「引用と利用の量」という項の問い「他人の著作物を批評するときに、自分の著作物の分量が少ないと引用にならないのですか」には、「そんなことはありません。他人の著作物に対する寸鉄の評言が引用にならず、冗長な批評なら引用になるということはあってはならないことです。(改行)適法な引用において、利用する側の表現と利用される著作物の多寡は一律には決まらず、結局、具体的な事情のもとで、批評その他の目的にとって必要な限度の量の利用か否かによって、決せられます」とあります。
いっぽう、本話し合いの下記 判断の根拠 の項に挙げられているように、著述の中での引用の分量が0.8パーセントでも、「量的な面で」「社会通念からみて多すぎると主張」する考え方もあるようです。
以下は私見です。引用はもともと、それ(その記述・著作物)に反対であれ賛成であれ、その記述・その見解・その発想・その着想・(その発見)を生み出した原著作者に一目を置き、讃えながら、そして(あるいは、でも)その記述について何か言及したい・その記述を用いたいときに用いる方法、であったと思います。その精神に悖り、それを自分が生み出した発想であるかのように盗んでしまう行為を盗用といい、恥ずべきものとされました。また、継ぎ接ぎで繋いで本来の趣旨とは違う(場合によっては正反対の)意に変えてしまう行為を、悪意に基づく行為として非難されました。ですが今日、経済(学)の側面から“コンテンツの時代”と呼ばれる状況が生まれ、一節の文句が、1コマのシーンが、1枚のカットが意味のあるお金を生むようになって、「引用」には新しい側面・視点が力を持ちつつあるようです。確かに、これはなかなか、数値の基準を設定するのは無理、という気もしてきました。Uryah 2005年9月20日 (火) 14:06 (UTC)返信

数値基準の設定が困難に感じられる理由は割と単純で、本来の「数値基準のないガイドラインと数値基準のあるガイドラインとでは、どちらがよりリスク抑制に効果的か」というテーマを、「提案されている数値基準はパーフェクトなものか否か」というテーマにすり替えてしまうからです。
例として、道路行政を担当している人たちが新設された道路の法定速度を検討している場面を想像してみて下さい。その検討において「法定速度を40kmにしようと30kmにしようと交通事故がゼロになるという保証はない。だから法定速度を設定すべきでない」という主張が論理的なものでないことは言うまでもないことと思います。「法定速度によって事故がゼロになるわけではないが、法定速度がないよりもある方が事故の件数は減る。だから法定速度を作ろう」と考えるのが自然です。
話を戻して「数値基準のないガイドラインと数値基準のあるガイドラインとでは、どちらがよりリスク抑制に効果的か」というテーマについて考えてみると、まず、Sphlさんが紹介して下さった裁判事例によって、引用の分量が多いことを理由に提訴する著作権者が世の中にはいることが明らかになりました。ということは、引用の分量を抑える為の何らかの施策をガイドラインに折り込んだ方が、それをしない時よりもリスク抑制効果が高いことになります。あとは、その施策として「引用は最小限にしろ」と定性的に書くだけで十分と考えるか、数値基準を加えた方がより安全度が高まるので望ましいと考えるかという議論が残るだけのはずなのです。--Minoru223 2005年9月21日 (水) 08:32 (UTC)返信

特にご意見もないようなので先に進めます。別の節で明らかになりましたように、Suisuiさんは“ウィキペディアでは、百科事典を作るのに必要最低限な引用をガイドラインで定め、その範囲でのみ引用を認める。それに合致しない引用は著作権法に合致するものであっても認めない”というスタンスでガイドラインを作ることそのものに反対とのお立場です。一方、ここで議論しているのはそのようなスタンスに立って作られつつあるガイドライン案 をより良くしていこうということですので、Suisuiさんのご意見は本来この節でのご発言ではなかったということになります。他にも数値基準に難色を示す声はありましたが、それらはSuisuiさんからの反対意見を受けて「合意できそうもないので数値基準は外したらどうか」というものであったように思います。Suisuiさんのご意見がなかった場合には、「数値基準は設けない」というご意見はなくなるという理解でよろしいでしょうか?現時点のガイドライン案には現に数値基準があるわけですから、それに反対する方は、その旨主張を展開して頂きますようお願い致します。もちろん、ここでお聞きしたいのは、ガイドライン案 の基本線を認め、それをより良くしていこうという立場の方々の声ですので、別の立場の方々は別の節でご主張をお願いします。--Minoru223 2005年10月5日 (水) 04:33 (UTC)返信

映像関係の引用

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上の続きです。Suisui さんいわく、「映像作品(アニメ含む)の場合、その台詞などの引用は明示的に認められてはいません。台本などが個別に一般に売られている場合は別ですが、これは作品によってまちまちですので映像作品からの引用は原則禁止すべきです。」なのですが、これの根拠は何でしょうか。想像するに、商業作品として公開するための契約条項の中に、第三者による利用を認めないような記述があるのだと思われますが。「明示的に」とあるので、何か明示されたものがあれば提示願います。--Tamago915 2005年9月8日 (木) 23:04 (UTC)返信

引用は著作権法で明示的に認められています。しかし映像作品、漫画作品の著作権の扱いには著作権法が規定された時点で映画以外のいわゆる映像が存在しなかったためにさまざまな解釈が存在します。ほかにも問題となりそうな点は存在しますが、ウィキペディアで問題となる映像作品の台詞を取り出すことについてだけを単純に対象とすると、映像作品は連続する映像と音楽、言葉などの集合した著作物です。これから台詞だけを抜き出すことは翻案にあたり、二次著作物の作成に相当するのではないか、という疑問です。その場合引用は成立しません。類似の判例は私が知る限りないようです。大昔にノート:シャア・アズナブルに書いた疑問への明確な回答が必要と考えています。ノート:未来少年コナン/削除にも関連する議論があるので参考に。どちらも疑問には誰も答えていませんが内容的には上述したことを多く含んでいます。なお台詞単独ではなく抜き出して引用した場合、漫画作品については絵を含んだ引用が可能であると判断された有名な判決があります。[1] [2] 最高裁は上告を棄却しているので東京高裁判決で結審しています。同一性保持の観点から見ると関連する判決と思われます。--Suisui 2005年9月9日 (金) 05:32 (UTC)返信
(質問)本話し合いの趣旨から外れるので小さい文字で書きます。上記のノート:未来少年コナン/削除を見て気になったので、一般論としてSuisuiさんに質問したいのですが、記事のノートでの議論では、削除の妥当性の議論は、合意形成完了と目されるまで、長く続けられています(ノート:未来少年コナン/削除では2004年1月15日から2005年5月15日まで)。一方、削除依頼での議論については、「削除依頼」の性格からして、期間は出来るだけ限られるべきなのだと理解しますが、話し合いに合意が見られるまでは継続議論、という観点もルールにはあるのだと私は思っています(削除依頼の削除の手続きに、「ページが削除されるためには、原則としてリストに少なくとも一週間以上掲載されつづけている必要があります。もちろん、削除の合意が必要です」とあります)。削除依頼における議論では、話し合いは続いていると目される場合でも、たとえば10日程度で結論を打たなければならない、というルールあるいは慣習になっていますでしょうか。Uryah 2005年9月11日 (日) 09:18 (UTC)返信
せりふの引用ができるかどうかは、専門家に問い合わせてみる必要があるように思います。著作権情報センターが著作権の電話相談を受け付けているので(メールでは受け付けていません)、明日にでも電話してみたいと思います。--Tamago915 2005年9月10日 (土) 21:37 (UTC)返信
問い合わせをするなとは言いませんが、専門家の見解を聞くのならば公平な立場の専門家に聞くべきであり、著作権情報センターのような権利者側の組織に聞くのは悪手だと思います。JASRACだって専門家ではあるわけですが、権利者側組織の専門家はあの手この手で著作権の拡大解釈を主張するのが仕事なんで(そしてそれは職務の主旨を考えた場合には間違ったことではない)。著作権というのは利権の対立という側面を強く持つ権利なわけですから「誰に何を問い合わせるのが正しいのか」はシビアに考える必要があります。Nekosuki600 2005年9月11日 (日) 01:28 (UTC)返信
そうですね。単に安全策に振るなら権利者側の見解を聞いておくのも悪くないとは思いますが、今回の問題はそんなに単純ではないように思います。この議論に、著作権に詳しい方(弁護士など)が参加されていればよいのですが。--Tamago915 2005年9月11日 (日) 01:37 (UTC)返信
可能であれば、聞いてみて欲しいなと思います。相談受付時間帯は忙しいことがことが多くて自分では難しいので。今は権利者よりの意見であったとしても、専門家の意見は知りたいところですし、著作権情報センターの意見で可と出ることがあるなら、意見は大きく動くと思いますので。--すぐり 2005年9月11日 (日) 03:31 (UTC)返信

著作権情報センターに問い合わせてみました。司法機関ではないということで、どのような引用が認められるというはっきりとした言質はいただけませんでしたが、漫画、音声、映像資料のせりふも、引用の要件を満たした上でそのままの形を守るのであれば、引用として認められる可能性はあるということでした。音声を文字に落とすのは多少不安が残りますが、漫画のせりふは引用対象として認められるものに含めてもよいような印象を受けました。また、以下の書籍を紹介していただいています。

  • 『Q&A引用・転載の実務と著作権法』北村行夫、雪丸真吾、中央経済社 ISBN 4502926809

2520円の書籍ですので簡単に購入できないかもしれませんが、参考にはなると思われます。--Tamago915 2005年9月12日 (月) 04:17 (UTC)返信

音声のセリフを文字に書き起こすことの法的問題についてもう少し詳しく知りたかったので、わたしも著作権情報センターに問い合わせてみました。
仮に引用の要件は満たしたとして、という前置きで聞いてみたところ、書き起こして引用することは可能で、翻案にはならない、という回答をいただきました。
Hachi 2005年9月16日 (金) 13:41 (UTC)返信

テンプレート

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Tamago915さんの私案の中でもっともユニークなアイディアはテンプレートを用意してその中で引用を行うというものだと思います。このアイディアにはおそらく様々なメリットがあることと思いますが、一方で以下のようなデメリットも気になります。メリットとデメリットを相殺してお釣りが来るのかどうか、私にはよくわからないのですが、この辺りについてのみなさんのお考えをお聞かせ頂ければと思います。尚、私は引用の形式としてはインデントまたは鍵括弧(「」でも『』でも可)を想定していましたので、以下に挙げるデメリットはそれと比較した場合です。

  • 現在この形式で引用を行っている例はないので、すべての引用箇所について編集作業が必要となる。
  • テクニカルな面で難易度が高く、この形式に従ってくれない人が多くなることが懸念される。また、従っていない引用を発見した時に直してくれる人も少ないのではないかと懸念される。
  • 地の文の途中に引用を行うことができなくなる。例:ジョン・レノンは記者団の質問に答えて「僕はビートルズがキリストより有名だと言ったわけじゃない」(ヨーコ・オノ著「ジョン・レノン語録」30ページより引用)と述べた。これによって一連の騒動はようやく決着した。
  • 引用部分が妙に目だってしまい、そこが記事の中心であるかのように見えてしまう。見た目が美しくないし、引用と地の文の主従関係という点からは却ってマイナスのようにも思える。

--Minoru223 2005年9月5日 (月) 06:20 (UTC)返信

個別に回答したいと思います。
  • 現在この形式で引用を行っている例はないので、すべての引用箇所について編集作業が必要となる。
    記事の先頭または末尾にテンプレートを挿入する方法でも、すべての引用記事についてテンプレートを挿入する必要があり、デメリットとしてはそれほど強いものではないと考えています。
  • テクニカルな面で難易度が高く、この形式に従ってくれない人が多くなることが懸念される。また、従っていない引用を発見した時に直してくれる人も少ないのではないかと懸念される。
    安易に引用を行うことを控えてもらうため、多少敷居を高くしています。形式さえ守っていれば何を引用してもよいというわけではありませんが、この形式に従っている引用文は適切である可能性が高くなると考えています。
  • 地の文の途中に引用を行うことができなくなる。例:ジョン・レノンは記者団の質問に答えて「僕はビートルズがキリストより有名だと言ったわけじゃない」(ヨーコ・オノ著「ジョン・レノン語録」30ページより引用)と述べた。これによって一連の騒動はようやく決着した。
    これは問題ですね。文の途中で段落を変えて、
    ジョン・レノンは記者団の質問に答えて
    僕はビートルズがキリストより有名と言ったわけじゃない
    (ヨーコ・オノ著「ジョン・レノン語録」30ページより引用)
    と述べた。
    という形にすることはできますが、あまり美しくはないと思います。
  • 引用部分が妙に目だってしまい、そこが記事の中心であるかのように見えてしまう。見た目が美しくないし、引用と地の文の主従関係という点からは却ってマイナスのようにも思える。
    現状、枠で囲っていますが、枠線を消すなどして単なるインデントに見せることは可能です。引用部分を目立たなくすることで、このデメリットは解消されると認識しています。
そしてメリットですが、以下のようなものが上げられると思います。
  • 引用の形式を固定することで、引用部分と地の文とが明確に識別される。閲覧する側にとっても引用部分が引用であることが直感的に理解できる。
  • 引用テンプレートに引用元の情報を示す引数を与えているため、引用元の情報が明記される。
  • 引用文があることを示すテンプレートを挿入する場合、そのテンプレートの文言を検討する必要があるが、引用部分にテンプレートを挿入する方式では文言そのものが必要ない。
--Tamago915 2005年9月5日 (月) 09:19 (UTC)返信
Tamago915さんのお考えは、引用を使っている記事にはそのことを示すテンプレートを貼るということを大前提にしているようです。もちろん、そのような案を新たに出すことは自由ですが、今のところその案は暫定対策のもので、抜本対策の議論では出ていないと理解しています。従いまして、Tamago915さんの挙げている3つのメリットのうち、3番目のメリットは存在しません。残るメリットは次の2つです。
  • 引用の形式を固定することで、引用部分と地の文とが明確に識別される。閲覧する側にとっても引用部分が引用であることが直感的に理解できる。
  • 引用テンプレートに引用元の情報を示す引数を与えているため、引用元の情報が明記される。
まず、1番目のメリットですが、“枠線を消すなどして単なるインデントに見せる”ということをするのであれば、インデントで記述しても見た目は同じであり、同様の効果をもたらすことができます。2番目のメリットについては、「引用箇所の後に括弧でくくって、著者名・著書名 or サイトタイトル・ページ or URLをこういう形式で書け」と規定することによって同じ効果をもたらすことができます。地の文の途中に引用を入れることができないというデメリットと合わせて考えると、テンプレートを使用する必然性は薄いように思います。--Minoru223 2005年9月8日 (木) 01:01 (UTC)返信
1番目。インデントにするか枠で囲うか、あるいは単に前後にかぎ括弧をつけるかなど、引用が引用であることを示すにはいくつかの方法があります。テンプレートを用いることで、その方法を統一でき、また引用の方法を変更する必要が生じた際も、引用を用いている記事一つ一つを修正していく必要がないというメリットがあります。
2番目。単に規定するだけではなく、「仕組み上引用元の情報を入れないと引用できなくする」ことにメリットがあると考えます。引用元の情報を明記するようにガイドラインで示しても、それに従わない記事が現れるのは避けられませんが、引用元の情報をテンプレートに組み込むことで避けることが可能です。
3番目。抜本対策ではテンプレートを必要としていない旨、了解しました。ただ、暫定対策で入れたテンプレートをまたはがすのだったら、最初から引用部分をテンプレートに組み込む私の案で、テンプレートをずっと使い続けるほうが手間がかからないように思うのですが、どうでしょうか。--Tamago915 2005年9月8日 (木) 03:45 (UTC)返信
  1. すでに指摘がありますが、本文中に引用を組み込んだ場合に対応が難しいと感じます。東方正教会純粋理性批判などでの例をご覧ください。(どちらもPDになっている文章を引用ないし参照して筆者自身が訳したものですので著作権上の問題はないと理解しています)。とくに後者をテンプレートを使いいちいち段組をかえていたら、相当読みづらい文章になるだろうと思います。
  2. テンプレートは変数をいれなくても使用できます。どう「避けることができる」のか不明です。

以上の点から暫定的にでもそのような措置をとらないことを支持します。--Aphaia 2005年9月8日 (木) 09:37 (UTC)返信

いい案だと思ったんですけどねえ。反対意見が多いので、テンプレートで引用部分を明示する案は撤回したいと思います。--Tamago915 2005年9月10日 (土) 00:43 (UTC)返信

引用の対象

編集

引用の対象を文字資料に限りたいと思います。画像、音声、動画などのマルチメディアは、そのままの形で引用すると主従関係が逆転することが多く、また文字に落とすことで翻案となり、著作権を侵害する可能性が指摘されているからです。

ということで、引用できるものとして

  • デジタルデータ化された文献資料
  • 手書きの文献資料(動画、写真に含まれているものを含む)を翻字したもの
  • 漫画など、画像と文字から構成されている著作物の文字部分

引用できないものとして

  • 画像、動画、音声資料
  • 音声資料から文字を書き起こしたもの

というガイドラインにしたいと思いますが、この点についてもご意見をいただければと思います。--Tamago915 2005年9月10日 (土) 00:53 (UTC)返信

質問ですが、“映像作品の台詞”と“書籍・雑誌”は上に挙げられているうちのどれに当てはまるのでしょうか?--Minoru223 2005年9月14日 (水) 03:46 (UTC)返信
基本的に、文字になっているものは引用可能、文字になっていないものは引用不可とすることを考えています。この考え方によると、映像作品のせりふは音声の状態なので引用不可、書籍・雑誌は文字の状態なので引用可能となります。先に上げた例に含まれていないので、ガイドラインにするときは追加するようにします。--Tamago915 2005年9月14日 (水) 03:52 (UTC)返信
「文字になっているものは引用可能、文字になっていないものは引用不可」というのはわかりやすいですね。一方で、(ここでの提案とは順番が逆ではありますが)自ら著作権情報センターに問い合わせをされ、音声や映像についても引用できる可能性があるとの回答を得たTamago915さんがどうして“文字になっているものだけ可”という提案をなさっているのかがいまひとつピンと来ないのですが、その辺りをご説明頂けますか?--Minoru223 2005年9月15日 (木) 02:27 (UTC)返信

インデントを戻します。「そのままの形であれば」引用できる可能性のある回答をいただいたので、音声を文字に変換する際にそのままの形を保持できるとはいえないため、音声の引用は不可としたほうがよいと判断しました。音声の場合、文字に現れない抑揚や間合い、文字として発音されない句読点や記号類を正確に再現することは困難だということと、言い間違いや滑舌の問題などで正確に再現することが適切でない場合があるということです。--Tamago915 2005年9月15日 (木) 03:42 (UTC)返信

Tamago915さん、解説ありがとうございます。よくわかりました。私としてはコンセプト的には賛成致します。一方で現実問題を考えると、この基準によってNGとなる例は殆どないようにも思います。音楽の歌詞は殆どの場合歌詞カードによって文字になっていますし、映像作品の台詞についても「その著作物の一節や台詞が非常に有名で、その作品を語る際にはその一節・台詞を引き合いに出すのが常識化している」という条件に合致するものは書籍・雑誌・新聞などに載ったことがあるはずだからです。ただ、後者については文字の出典を探すのが面倒だということで、心理的敷居が高くなるという効果はありますね。映像作品からの引用を是非行いたいという人から強い反発があるようならこの基準は取り下げても良いと思いますが、そうでないなら加えて良いと思います。--Minoru223 2005年9月16日 (金) 04:03 (UTC)返信
楽曲の歌詞ですが、これだけは一律禁止にしておいたほうが安全のように思います。音楽の著作権を管理している JASRAC が、著作権について強く主張してくる傾向があり、こちらが正当な引用と判断しても「複製だから利用料を支払え」とクレームが付く可能性が高いからです。--Tamago915 2005年9月25日 (日) 01:15 (UTC)返信
了解しました。--Minoru223 2005年9月26日 (月) 03:54 (UTC)返信

引用の範囲

編集

引用の範囲は「必要かつ最低限」としていますが、もう少し限定したほうがよいかもしれません。引用部分だけで何を言っているかがわかって、引用元を参照しなくてもよくなることは禁止にしたいのですが、この方針でよいかどうか、明文化するならどのようなガイドラインにすればよいか、ご意見をいただければと思います。--Tamago915 2005年9月13日 (火) 09:41 (UTC)返信

反対。引用部分だけでは何を言っているのか判らないようにしてしまうと、そもそも引用の意味が殆ど消失し、しかもその引用が正当なものかどうか一見わかりません。実は引用元の文章は正反対のことを言っているのに切抜きの妙技で権威だけ借りてくるような行為に口実とそれが不自然に見えない環境を与えたくありませんし、さらにその不思議な禁止事項のために不正引用の事実を指摘することが困難になります。いちいち引用元を当たらせるのでは、参考文献としてだけ載っているのと殆ど変わりません。LR 2005年9月13日 (火) 11:03 (UTC)返信
私もそれは(その文言は)反対です。「引用元を参照しなくてもよくなることは禁止にしたい」は引用の精神に適っていると思いますが、「引用部分だけで何を言っているかがわか」らなくていい、のであれば、引用する意味がありません。Uryah 2005年9月13日 (火) 21:15 (UTC)返信
LRさんとUryahさんの反対論は、Tamago915さんの提案内容を誤解したものであるように思います。“引用部分だけで何を言っているかがわかってはダメ”というのは、“引用部分だけを読んだ時と、引用部分と解説部分を合わせて読んだ時とで読者が理解する内容が同一ではダメ”という意味でしょう。これが同一だと著作権法で言うところの「報道、批評、研究その他の引用の目的」を満たしていないことになります。Tamago915さんのご提案はこのことを具体化する試みだと理解しています。私としては、ガイドラインにそこまで書かなきゃダメだとは必ずしも思いませんが、書いて困ることはないと思います。--Minoru223 2005年9月14日 (水) 01:28 (UTC)返信
なるほどですね。そういう意味なら賛成します。文面は、いま俄かに思いつきません。Uryah 2005年9月14日 (水) 15:08 (UTC)返信
同じく了解、「引用」と強弁して「転載」をいい抜けることを禁じるため、なら反対しません。ただやはり、文面の工夫が必要だと思いますLR 2005年9月16日 (金) 07:35 (UTC)返信

自分もうまく説明できておらず、申し訳ありませんでした。このことはガイドラインに盛り込んでおいたほうがよいと思いますので、文面の検討をお願いします。自分でも案を検討してみます。--Tamago915 2005年9月25日 (日) 01:13 (UTC)返信

「引用部分が記述の中心的事項となる場合や、引用に対する解説文を必要としない場合の引用は、Wikipedia では正当な引用とは認められません。」といった文面ではどうでしょうか。まだわかりづらいでしょうか。--Tamago915 2005年10月5日 (水) 13:07 (UTC)返信
なるほどです。上記提示文言で意味は(私は)わかります。同意もします。上記文言を見て考えついた文言なのですが、また、ちょっと“きちんとした”表現ではない感じがする文言なのですが、「引用を用いる(率いる)主役が無い記事は認められません」という表現(を付け加えるの)はどうでしょうか?Uryah 2005年10月5日 (水) 16:14 (UTC)返信

文面についての直接的な意見ではないのですが、このことをガイドライン案のどこに書くべきかということについて、他の節との統廃合を含めて考えを述べさせて頂きます。Tamago915さんが提案されている内容は『引用の前提』という節の中の太字部分と一部かぶるので、ここと合わせて整理するのが良いと思います。また、『引用の前提』と『引用の目的』を合併した上で、タイトルを『引用の目的・対象』として、前半に目的のこと、後半に対象のことを書くという具合に整理するとすっきりするかと思います。--Minoru223 2005年10月14日 (金) 07:26 (UTC)返信

上記の文面を追加し、Minoru223 さんの助言に従ってガイドラインの構成を修正しました。--Tamago915 2005年10月15日 (土) 01:18 (UTC)返信

数値基準(2)

編集

#数値基準の節が38キロバイトあるとの警告が出たので、節を改めました。で、要請があったので数値基準を入れましたが、私自身は数値基準は必要ないと考えている一人です。どんな基準にしたところでそれが合理的であると考えることはできないでしょうし、「必要最低限の範囲に限る」と強く明記することで無用な引用を排除することができるのではないかと考えるからです。--Tamago915 2005年10月5日 (水) 09:23 (UTC)返信

数値基準を明記することの欠点というのがあって、法的な数値基準なんかあり得ないという話は置いといても、「引用は半分以下でなければならない」なんつうと「半分までは引用でいいのか」という逆解をするやつがいっぱいいるというあたりが悩みのタネ。んでいろいろ考えたのだが、たとえは半分として(半分は多すぎると思うが、まあ仮に)、「引用部分が半分を超えたら問答無用でアウト、半分以下の場合は正当性があるかどうかを判断」というような表現にすれば多少は逆解するお馬鹿を抑制できるんじゃないかと。数値基準にはほとんど意味がないと思うけれども、何も考えずにかっぱらいをやるひと対策としては、削除する側も何も考えずに問答無用で削除できる規定を置くのは楽ができていいと思う。
なお、個人的には「全体の半分以下」とかいうのはあとからの編集への耐性が低そうに思うので、「それぞれの小項目内で半分以下」というような規定のが判断がらくだと思うな。まっとうな引用をやろうってひとならそのくらいの条件なら容易にクリアできるでしょうし。
Nekosuki600 2005年10月9日 (日) 08:24 (UTC)返信

私は数値基準の中身としてはNekosuki600さんがおっしゃるのよりも厳しい数値を想定していますが、数値基準の位置づけについてはNekosuki600さんに賛成です。しかし、ガイドライン案の構成を考えますと、「引用部分が半分を超えたら問答無用でアウト、半分以下の場合は正当性があるかどうかを判断」とあえて記述する必要はないと考えます。ガイドライン案は(1)引用の前提、(2)引用の目的、(3)引用の方法、(4)引用の範囲という4つの基準によって引用に歯止めをかける構成になっています。「半分までは引用でいいのか」という逆解をするような人の引用は、(4)を満たしても(1)~(3)のどれかで引っ掛かるはずです。この(1)~(4)のいずれについても、「それさえ満たしていればいいってもんじゃないよ」ということは当てはまるわけで、そのことを明確にしたいのであれば、『ウィキペディアにおける引用のガイドライン』という節の冒頭部分に「以下の4つの基準のひとつにでも抵触したらダメだよ」と書いておくのが良いと考えます。--Minoru223 2005年10月12日 (水) 01:23 (UTC)返信

Minoru223 さんの提案に従ってガイドライン案を修正しました。数値基準ですが、質的な基準がある程度具体的になってきているので、量的な数値基準はなくてもよいのではないかと、もう一度主張します。「必要かつ最低限」で「引用部分が記事の中心となるような引用は認めない」のであれば、その分量は自ずと限られてくるでしょうし。--Tamago915 2005年10月17日 (月) 13:04 (UTC)返信

セリフおよびアスキーアートの扱い

編集

編集方針として、著作権侵害にならなくとも、

  • 漫画のセリフ
  • 映像作品(アニメ・ドラマなど)のセリフ
  • 2ちゃんねるなどで使われている、いわゆるアスキーアート

の引用を認めないとしたいと思いますが、この点についてご意見をいただければと思います。

署名を忘れていました。--Tamago915 2005年10月17日 (月) 12:42 (UTC)返信

台詞はその理由は明らかですが、アスキーアートの引用を認めないとする理由がよくわかりません。なぜでしょうか? --yfuruhata 2006年7月17日 (月) 17:41 (UTC)返信

2005年10月17日 (月) 12:42 (UTC)時点での議論には参加していないのですが、AAは著作物であるかどうかについて確定した見解が示されておらず、著作物とした場合に、wikipedia上でAAを書く場合にはほぼ全体を示すことが予想され、その場合は著作物の本質的な部分を感得させるために引用とみなされないというリスクがあるなど正当な引用の要件を満たすことが困難であり、また多くのAAは著作権者が不明であるために複製・公衆送信などの許諾を得ることも困難であることが理由となると思われます。また、匿名掲示板などで自由に利用されていることをもって著作権者の黙示の許諾を得ているという考えもありますが、当該掲示板内でのみの許諾である可能性もあり、いちがいにすべての使用について許諾を与えていると判断することはできないという見方もできるため、これについては司法判断を待たなければリスクを抱えることになります。加えて、AAが映画や漫画などの場面を元にしていた場合は元の著作物の著作権の侵害になりますし、実在の人物であった場合は、描き方によっては名誉毀損などに繋がる可能性もあります。--Ks aka 98 2006年7月17日 (月) 18:34 (UTC)返信

まだ結論が出ていないこと

編集

一定の範囲で引用を認める案としては、利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案)をベースにしたいと思います。この中でまだ結論が出ていないのは、大きく分けて以下の3点です。

  1. 引用できる著作物、引用できない著作物をどこで線を引くか。文字になっているもののみ引用可能で、文字になっていても歌詞、漫画のセリフ、アスキーアートは引用不可とすることを提案しています。
  2. 引用の目的として6~7個の項目が挙げられているが、これで必要十分か。「常識化している場合」のように、判断に困る表現が含まれているが手直しの必要はないか。
  3. 引用する範囲の数値基準をどのように取るか。

それぞれ議論するためのセクションが設けられていますので、意見を出していただければと思います。--Tamago915 2005年10月17日 (月) 13:00 (UTC)返信

判断の根拠

編集

引用を認めるにしても、禁止するにしても、判断の根拠が必要だという意見がありましたのでセクションを追加しました。今のところ、引用についての根拠となる資料は

  • 著作権法第32条(引用)および第48条(出所の明示)
  • 最高裁第三小法廷昭和55年3月28日判決(判例時報967-45)

のみであり、個別の引用についてそれが適切かどうか、恣意的に判断せざるを得ない部分はどうしても生じてくるものと認識しています。個別の判断がぶれないようにすることが、今回のガイドラインを作る目的であると把握していますが、法体系が大まかにしか整備されていない以上、判断の根拠となるガイドラインはウィキペディア独自のものにならざるを得ないと考えます。

根拠を定めるためのガイドラインに根拠を求めるのは、鶏と卵の議論のように、無限の循環に陥ってしまう危険性があります。不適切な引用がなされるリスクを最小限にする、という目的を見失わない前提で、根拠に縛られることなく、コミュニティの総意でガイドラインを策定する必要があるのではないでしょうか。--Tamago915 2005年9月8日 (木) 09:52 (UTC)返信

根拠など不要だと言っておられるのでしょうか。Tietew 2005年9月11日 (日) 03:42 (UTC)返信
上に挙げた法文と判例しか根拠となるものがない、という主張です(判例はほかにもあるかもしれませんが)。それ以上の根拠はこれから作ろうとしているので、ガイドラインの中に根拠のない基準ができてもやむを得ないのではないか、といいたいわけです。すべての根拠が不要と主張しているわけではありません。--Tamago915 2005年9月11日 (日) 04:00 (UTC)返信
追記。例を挙げると、引用は何パーセントまで許される(許されない)のか、という数値基準を作ろうとしても、根拠となるものは「引用が従でなければならない」というガイドラインだけであり、何パーセントにしようともその根拠はないわけです。それでも何らかの数値基準を作る場合、根拠のない基準とならざるを得ない、ということです。--Tamago915 2005年9月11日 (日) 04:04 (UTC)返信

参考になる別な判例として、東京高裁の判例(2002年4月11日)をあげておきます。裁判は引用の正当性に関するもので、「翻訳したものを引用する場合には翻訳者についても氏名表示権の対象となる」というのが結論なのですが、一審の地裁判決(2001年6月13日)では目的上も正当な引用ではないとされていたのに対し、高裁判決では「前記で認定したところによれば、控訴人Aは、音楽とは何か、人間とは何か、という最終的なテーマと密接に関連し、同テーマについての控訴人Aの記述の説得力を増すための資料として、著名な指揮者・作曲家の見解を引用、紹介したものであるということができ、かつ引用した範囲、分量も、本件書籍全体と比較して殊更に多いとはいえないから、原告翻訳部分の本件書籍への引用は、引用の目的上正当な範囲内で行われたものと評価することができる。」として判断を変更しています(控訴人・被控訴人とも上告せず判決確定済み)。つまり、翻訳者を明示しなかったことだけが著作権法違反とされたことになり、それ以外は正当なものであるとされました。量的な面で言うと、引用は問題となった書籍319ページ中2.7ページ(0.8ページ)ですが、被控訴人(第一審の原告)はこれでも社会通念からみて多すぎると主張しましたし、質的にも主従関係が不充分であるとしています。結果としてこの被控訴人の主張は容れられませんでしたが、こうした訴えが起こされる可能性があるということと、やはり裁判所でも判断に揺れがああるということは考慮すべき点かもしれません。sphl 2005年9月11日 (日) 12:48 (UTC)返信

上記提示の判例内容、「こうした訴えが起こされる可能性があるということと、やはり裁判所でも判断に揺れがああるということ」、大きく受けとめます。Uryah 2005年9月12日 (月) 13:58 (UTC)返信

一般の削除依頼や保護依頼など、管理者の作業が必要になる案件についても、決して根拠ある基準に基づいて運用されているわけではないというのが現状です。妥当と思われる(≠根拠のある)基準を作って運用し、問題が発生すればその都度基準を変更していっています。そういう意味では、引用に関しても、妥当と思われる基準を検討し、その基準に従って運用し、問題があれば基準を見直すことでよいのではないでしょうか。現時点で私は、引用を認めるべきだという立場でいますが、コミュニティが引用は認めないことを妥当とするのであれば、その決定に従うこともやむを得ないと考えています。--Tamago915 2005年9月20日 (火) 14:15 (UTC)返信

財団への問い合わせ

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早い段階で、財団に方針の確認を取ることを提案します。財団の方針がガイドラインの根拠となりますし、財団には著作権に詳しい方もいるだろうと思いますので。私が提案しているガイドラインの私案ですが、いったん凍結したほうがよいのかもしれません。--Tamago915 2005年9月11日 (日) 13:21 (UTC)返信

どこの財団に問い合わせるつもりなのかが「財団」ではわかんないのですが。
前にも述べましたが、著作権者側の組織のなんかの財団に問い合わせることには反対です。専門家のコメントが欲しいのであれば、著作権について詳しい弁護士に相談をするとかいうのが筋で、利害対立の相手側の立場に立つ専門家のコメントを得てもあまり意味があるとは思いません。逆に相手側に警戒心を抱かせ、重点監視リストに入れられるとかいう好ましくない結果になるのがオチでしょう(もちろん、弁護士に相談するとなると金とかかかっちゃいますけどね)。
--Nekosuki600 2005年9月12日 (月) 08:17 (UTC)返信
運営関係で「財団」と言えば、普通はウィキメディア財団でしょう。 -- NiKe 2005年9月12日 (月) 08:22 (UTC)返信

はい、ウィキメディア財団のつもりで「財団」と書いています。混乱させてすみません。ここでいくら議論しても、その方針ではだめだと財団に拒否されたらすべてが無駄になるわけで、その意味でも早めの確認が必要だと思ったのです。異論がなければ、明日くらいにも私からメールを出してみようと思います。--Tamago915 2005年9月12日 (月) 09:06 (UTC)返信

問い合わせのメールを財団あてに送信しました。返事がありましたら追って報告します。--Tamago915 2005年9月13日 (火) 14:46 (UTC)返信
「日本の法律のことはわからん」「訴えられるおそれがあると心配しているならやめたらどうか」といったところが予想されるものの、回答をお待ちしています。 --忠太 2005年9月13日 (火) 15:07 (UTC)返信
お待ちします。どういう返事が来ても、1つの参考(あるいは根拠)になると理解します。Uryah 2005年9月13日 (火) 21:19 (UTC)返信

1週間たっていますが、財団からは返答は来ていません。おそらく重要な案件のため、回答が出せない状態にあるのだと推測しています。今のところ催促のメールは出していませんが、あまり長期間ほったらかしにされるようであれば、状況確認のメールを出そうと思います。--Tamago915 2005年9月20日 (火) 14:06 (UTC)返信

財団の理事経由でメールを頂きました。このメールについて考えたことを書いてみます。

  • アメリカ法を考慮した場合の問題については、財団に問い合わせるか、法律関連の問題を議論する非公開リストであるJuriwiki-lに問い合わせることで回答が得られると期待できるように思います。また英語版の方針も参考になるかも知れません。
  • 日本法を考慮した場合の問題については、Juriwiki-lに現在いるメンバーでは対応できないし、財団にも回答するだけの能力・資源の持ち合わせがない。日本語版としてある程度調査した結果をまとめて、財団に報告し、判断を仰ぐような形にすると多少は見込みもあるかも知れません。
  • Yahoo! が韓国でサーバクラスターを提供しているなどの事情を考えると、ウィキペディアで引用をした場合にどの国の法律や法廷が関わってくるのかという点が気になるところですが、そうした各国の法律を考慮した場合の方針についても米独仏など一部を除いては事情は似たようなものだろうと思います。

どうして僕のところにメールが回ってきたのかははっきりわかりませんから、もう少し理事会と話を続けると違った展開もあるかも知れませんがとりあえずの感触ということで。。。Tomos 2005年9月29日 (木) 07:32 (UTC)返信

英語版の引用についての方針は、どこかに文書になっているでしょうか。Tomos さんか、ご存じの方がいましたらよろしくお願いします。--Tamago915 2005年10月2日 (日) 00:28 (UTC)返信
Tomos さん、よろしければ、Juriwiki-l にアクションを起こして頂けますでしょうか(それとも、私が起こしたほうがいいですか?)。少なくとも、フェアユースの概念がないところ(日本)で、GFDL のもとで引用が認められているのかどうかについては、回答をいただきたいと思っています。--Tamago915 2005年10月2日 (日) 07:55 (UTC)返信

今後の方針

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前提の再確認

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議論が煮詰まってきたので、自分なりにまとめてみます。現時点で前提として共有されていると思われるのは、

  • 著作権法上、他者の著作物を引用して利用することはできる。
  • 最高裁判所の判決によって、引用のガイドラインが示されている。
  • 引用の具体的基準については明確ではなく、引用か複製かを判断することは司法機関を除いて誰にもできない。
  • 引用ガイドラインを作って(「引用は認めない」というものも含めて)、実際に運用可能なものとしていきたい。

といったところだと認識しています。--Tamago915 2005年9月21日 (水) 14:33 (UTC)返信

下で Minoru223 さんによる指摘がありますが、法的なところを見過ぎてしまっているようです(もちろん、法的リスクは大きな問題ですが)。書き直すとこんな感じになると思います。
  • 著作権法上、他者の著作物を引用することが認められ、そのガイドラインが最高裁判所の判決という形で示されている。
  • 引用には法的なもの、ライセンス上のものなど、様々なリスクが存在し、そのリスクは引用を避けることによって発生するリスクよりも大きい。
  • 百科事典の執筆にあたり、引用を行うことが必要な場面が発生する可能性が高い。
  • 引用の具体的基準については明確ではなく、引用か複製かを判断することは司法機関を除いて誰にもできない。
  • 引用ガイドラインを作って(「引用は認めない」というものも含めて)、実際に運用可能なものとしていきたい。
法的問題以外の問題がすぐに思い浮かばないので、どうしても法的な部分に軸足を置いた表現になってしまいますが。--Tamago915 2005年9月22日 (木) 12:49 (UTC)返信

課題

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今後詰めなければならない課題は、私は以下の点を指摘することができます。

  • 引用ガイドラインをどのような位置づけとするか。ガイドラインだけですべての引用を含む記事を運用可能なものにするのか、コミュニティの判断を加える余地を与えるのか。
  • 基準を設ける場合、その基準が妥当であるか。あるいは何らかの根拠のある基準か。
  • どのような著作物を引用可能とするか。
  • 引用における主従関係をどのように定義するか。
  • 量的な基準を設けるか否か。設ける場合、正当とする範囲を定義するのか、不正とする範囲を定義するのか。

各点について議論、あるいは追加の課題がありましたらご意見お願いします。--Tamago915 2005年9月21日 (水) 14:33 (UTC)返信

課題については既に「ガイドラインの私案を作りました」という節で議論が行われており、上記のTamago915さんの整理はほぼ的を射たものだと思いますが、「前提の再確認」という箇所に異論があります。どういうわけかこの議論は、いつの間にやら著作権法や判例といった世界だけにフォーカスされてしまう傾向があるようです。法律や裁判は確かに重要ですが、私たちが議論している世界の一部に過ぎません。
日本の船が竹島のそばに行ったら韓国軍に攻撃されます。それじゃあ竹島から何km離れれば絶対に安全であるかは確定することができません(確定できるのかも知れませんがたとえ話なので勘弁して下さい)。しかし、いくらなんでも有明海で舟遊びをするのであれば安全なはずです。私たちは、有明海で舟遊びをする計画を立てているだけなのに、「竹島から何km離れれば韓国軍の攻撃を受けずに済むか」ということを深刻に議論してしまっているが為に、妙に話をややこしくしてしまっている気がします。
現時点で前提として共有されているのは、以下のようなことなのではないでしょうか。
  1. 引用には様々なリスクがあるので、できるだけ引用は避けた方が良さそうだ。(合法の範囲が明確でないことは数あるリスクのひとつに過ぎない)
  2. 一方で、百科事典を作るにあたっては、どうしても引用を行わなければならない場合があるようだ。(但し、それがどんな場合がそれに当たるかは現時点では出てきた声をそのまま列挙しただけであり、個々の場合が本当に引用を行わなければならないか否かは今後議論の必要あり)
  3. 上記1と2からの必然的な帰結として「ウィキペディアでは引用を著作権法が認めるよりも狭い範囲で認める」という結論が導き出され、その具体案を決める為にTamago915さんがガイドライン案を作成した。
上記の整理は後付であり、実際には上記3のような合意が明確に行われたわけではありません。その為、「ウィキペディアでは引用を著作権法が認めるよりも狭い範囲で認める」というガイドライン案の根本スタンスが共有されていないのです。今更ですが、この根本スタンスを認めるかどうかを確認し合った上で、合意に達することができないようであれば、別の意見の方々は別のガイドライン案を作り、Tamago915さんの案(を今後の議論によって改訂したもの)と投票に諮るのが今後の進め方としては自然かと思います(財団からの返事によってはこの進め方は成り立たないかも知れませんが)。--Minoru223 2005年9月22日 (木) 08:40 (UTC)返信
Minoruさんのいうとおりですね。私は著作権のきれた文章の引用はもちろん、著作権のきれていない文章も自由に引用を行いたい。しかしその範囲はあくまでも百科事典の解説として限定的なものでいいのです。例えば、”これについてリチャード・ドーキンスは『虹の解体』で「~~~」と批判した。”という具合に。(「」内が引用)引用は曖昧さをなくすためにはどうしても「ひとつの方法として」必要な記述方法なのだと思うのですが、間違っているのでしょうか。--Ligar 2005年9月22日 (木) 09:23 (UTC)返信
百科事典の執筆にあたって、引用を用いることは必要だと考えます。むろん無制限の引用を認めてほしいわけではなく、百科事典の執筆に必要な範囲に限定されていてもよいというのも Ligar さんに同意します。この限定がどの程度であればリスクを十分に小さくでき、かつ妥当であるかが議論されるべきだと思います。--Tamago915 2005年9月22日 (木) 12:53 (UTC)返信
>有明海で舟遊びをする計画を立てている
つもりで韓国どころか北朝鮮の領海内に入ってしまいかねないのではないかと危惧しています。引用が認められた場合、ここで議論なさっておられるような「著作権法に精通した識者」だけではなく、引用と転載の区別もつかないユーザーまでが「引用」をどんどん始めることは皆さまも予想されておられることと存じます。
もし引用を認めることになるなら
  1. 「訴訟リスクの高い引用は削除対象とする」と削除の方針に明記すること
  2. 適切な引用が後の編集で出典を消されるなど不適切な形になった場合は「即時特定版削除」を認める
など、危険回避の方法もご検討ください。--miya 2005年9月22日 (木) 15:01 (UTC)返信
上記で挙げられている前提の確認と課題、「引用ガイドラインを作って(「引用は認めない」というものも含めて)、実際に運用可能なものとしていきたい」「『ウィキペディアでは引用を著作権法が認めるよりも狭い範囲で認める』というガイドライン案の根本スタンス」が認められるかどうか確認が必要、引用を認めるとするなら「危険回避の方法」の検討が必要であること、に賛成を表明します。Uryah 2005年9月23日 (金) 08:01 (UTC)返信
ご理解ありがとうございます。
>「『ウィキペディアでは引用を著作権法が認めるよりも狭い範囲で認める』というガイドライン案の根本スタンス」
については、「敗訴しない範囲」ではなく「訴えられる心配の無い範囲」にすべきでしょうね。--miya 2005年9月23日 (金) 12:01 (UTC)返信
キモチはとってもよくわかるんだけどもぉ。
民事訴訟はどんな無理筋でも訴訟を起こすことは可能で、いかなるガイドラインを作ったとしても「いやがらせ目的の訴訟」から逃れることはできないんですわ。応訴するだけで手間暇金はかかるので、相手方にその手間暇金をかけさせることだけを目的とした訴訟というのは、別段珍しいもんじゃありません。にちゃんねるに対する某化粧品会社の億単位損害賠償請求訴訟なんかその部類だわね。だから「訴えられる心配の無い範囲」というのは、ないのです(なお、刑事訴訟は様態が異なり、政治的理由があるとかいうのでもない限り、無理筋訴訟はありません)。
ま、「訴えられるリスクが許容範囲になるように、そしていざ訴えられたとしても負けることがないように」くらいが限度じゃないでしょうか。なお、このあたりのことは、Wikipediaに限らず、Webを作る・blogを持つ、などにも共通したものです。
--Nekosuki600 2005年9月23日 (金) 15:17 (UTC)返信
Miyaさんの「敗訴しない範囲ではなく訴えられる心配のない範囲」という考え方に賛成です。一方でNekosuki600さんのおっしゃるように、「訴えられる心配の無い範囲」というものを確定的に定義することは不可能でしょう。Nekosuki600さんの結論と同じですが私なりの表現をすると「この程度の引用であれば訴える著作権者は殆どいないだろうと思われる範囲」をガイドラインで定めるということだろうと思います。尚、“訴える”という言葉が使われていますが、厳密には“ネット上だけで対応できないような苦情を寄せる著作権者が殆どいないと思われる範囲”ということになるかと思います。「代表者は自宅まで来て謝罪せよ」とか言われても困りますので。--Minoru223 2005年9月26日 (月) 04:37 (UTC)返信

謝罪だけで済むのならまだいいのですが、著作物の使用料を払え、という話になってくると困ったことになります。かといってすべての引用を禁止するようなガイドラインを策定したところで、「ウィキペディアで他の著作物の引用ができることを確認する訴訟」を起こされたりしたらまた一からやり直しになるわけで、やはり一定の範囲で引用を認めるガイドラインを作るほうがよいのではないかと考えます。--Tamago915 2005年9月27日 (火) 00:04 (UTC)返信

ガイドラインの位置づけ

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ガイドラインの位置づけを明確にしておく必要があります。ここまでの議論で、適法な引用と認められる客観的な基準が存在しないことは前提となっていますので、

  • 不適切な引用を例示し、これを行わないように呼びかける
  • 客観的な基準はガイドラインに盛り込まず、削除対象とするかどうかは個別にコミュニティの判断にゆだねる

という位置づけにすべきと考えますが、いかがでしょうか。--Tamago915 2005年9月24日 (土) 14:36 (UTC)返信

も、いいと表明します。「『ウィキペディアでは引用を著作権法が認めるよりも狭い範囲で認める』というガイドライン案の根本スタンス」が認められるかどうかの確認(投票?)(という方向)はどうしますか?Uryah 2005年9月25日 (日) 00:48 (UTC)返信
1週間ほど待って(10月2日までですね)、反対がないようなら上記の方針を採用するということでどうでしょうか。--Tamago915 2005年9月25日 (日) 01:08 (UTC)返信
私Uryahは、それで了解です。Uryah 2005年9月25日 (日) 02:23 (UTC)返信
『ウィキペディアでは引用を著作権法が認めるよりも狭い範囲で認める』という文言は私(Minoru223)が書いたものですが、我ながらあまりにいい加減な表現なので、ガイドライン作りの根本スタンスとするにはもうちょっと誤解の余地のない表現にしておくべきですね。『ウィキペディアでは、百科事典を作るのに必要最低限な引用をガイドラインで定め、その範囲でのみ引用を認める。それに合致しない引用は著作権法に合致するものであっても認めない』といったあたりかと思います。ちなみに、この根本スタンスを採用した場合、「引用は一切認めない」というガイドラインはあり得なくなることにご留意下さい。また、この根本スタンスとTamago915さんが提案なさっている「不適切な引用の例示」「削除するか否かは個別判断」というアイディアは相容れないように思います。私としては、現在のガイドライン案の延長線上のものを想定しています。--Minoru223 2005年9月26日 (月) 03:53 (UTC)返信
>「引用は一切認めない」というガイドラインはあり得なくなることにご留意下さい」
この点に関してはっきり反対であることを申し上げます。これだけ議論が交わされながらどの範囲の引用が法的に安全であるという一切の根拠は挙げられていません。そのため現段階でのガイドラインかには反対致します。--Suisui 2005年9月26日 (月) 04:30 (UTC)返信
いかなる引用も法的に安全(訴えられる可能性がない)とはいえませんが、現時点で著作権者から訴えられていない引用の例を挙げて、そこから演繹的に安全と思われる範囲を求めることは可能でしょうか。--Tamago915 2005年9月27日 (火) 00:10 (UTC)返信
素人には不可能でしょう。安全かどうかの判断は法律の専門家にゆだねるべきでは?法律の専門家を複数集めて意見を聞いてみたらいかがですか?
Nekosuki600 さんの「訴えられるリスクが許容範囲になるように、そしていざ訴えられたとしても負けることがないように」は確かにその通りだと思います。問題は、「ここから先はリスクが高すぎる」(歌詞やディズニーなど)というのは素人でもわかるのに対して、「ここから先は訴えられたとしても負けることがない」という判断は専門家でないと難しい、もしくは説得力が無いのではないかということです。
このごろ、ウィキペディアの記事をコピペしてアクセスアップを狙うとみられるサイトが急増中です。そういうサイトに孫引きされて立腹した著作権者が、孫引きサイトといっしょにウィキペディアを訴える可能性も出てきているのではないかと心配しています。--miya 2005年9月27日 (火) 02:30 (UTC)返信
結局は裁判になって初めて適法か違法か判断されることですから、法律の専門家でも(専門家ならなおさら)「わからない」と答えるしかないと思われます。--Tamago915 2005年9月27日 (火) 03:34 (UTC)返信
Suisuiさんの9月26日のご発言によって、やはり以下の2つの認識からどのような結論を引き出すかについてコンセンサスができていないことが明らかになりました。
  1. 引用には様々なリスクがあるので、できるだけ引用は避けた方が良さそうだ。
  2. 一方で、百科事典を作るにあたっては、どうしても引用を行わなければならない場合があるようだ。
上記のように2つの価値観が対立的な状態にあるわけですが、それについて「なんとか2つの価値観を両立できないか」と考えているのが『ウィキペディアでは、百科事典を作るのに必要最低限な引用をガイドラインで定め、その範囲でのみ引用を認める。それに合致しない引用は著作権法に合致するものであっても認めない』という考え方であり、現行のガイドライン案はその考え方に立脚して作られつつあります。一方、Suisuiさんは何らかの理由で「2つの価値観のうち後者を捨て、前者を取るべきである」という考え方を採っておられます。私としては、この2つの考え方の間でもう少し議論を行い、合意に至らなければSuisuiさん(及び同じ考え方の方々)には別のガイドライン案を作成して頂くのが良いのではないかと考えますがいかがでしょうか?--Minoru223 2005年9月28日 (水) 10:41 (UTC)返信

明らかになったというか、元から明らかだったような気もしますが。引用禁止を主張されている方は「引用禁止」がガイドラインそのものですから、何か作成してもらう必要はないのではないかと思います。引用を認めることによって発生するリスクを洗い出し、そのリスクを回避するようなガイドラインを作っていくのがいいのではないでしょうか。--Tamago915 2005年9月28日 (水) 13:07 (UTC)返信

私の説明不足だったようで、すみません。Tamago915さんのガイドライン案とSuisuiさんの案を投票に諮るという手法を採るのであれば、Suisuiさん(の意見に賛同する方々)にも文面案を作って頂く必要があるという趣旨です。引用という言葉の定義とか、なぜ禁止なのかとか、引用があったら削除なのか編集による消去なのかといった点など、具体的に文章にしなければならないことは多いと考えます。(ただし、独立したガイドライン案ではなく、Wikipedia:削除の方針の文面改定案という形でもOKです)
また、Tamago915さんの「引用を認めることによって発生するリスクを洗い出し、そのリスクを回避するようなガイドラインを作る」というご提案が今ひとつわかりませんでした。Tamago915さんを中心に既に作られつつあるガイドライン案は正にそういうものだと理解しているのですが。--Minoru223 2005年9月30日 (金) 10:39 (UTC)返信
引用を禁止するとしてもガイドラインが必要との意見、了解です。どなたかに作って頂ければよいのですが、誰も作らないようでしたら自分で文案を考えてみます。ただし私は引用を認めてほしいと考えていますので、十分に意見をくみ取れるかどうかはわかりませんが。
リスク回避の提案については、私が作成したガイドラインが骨組みだけしかできていない状態なので、肉付けの部分としてリスクマネージメントを考えておかなければならない、ということです。具体的には、引用を認めることでどのような問題が発生するかを検討し、その問題に対処するためにはガイドラインをどのように設定しておけばよいかを考えるということです。--Tamago915 2005年9月30日 (金) 12:40 (UTC)返信

引用禁止のガイドラインを、とりあえず作成してみました。下のほうに新しくセクションを設けましたので、そちらに意見をいただければと思います。2つのガイドラインを比較して、最終的に1つの形にまとまればよいと考えています。--Tamago915 2005年9月30日 (金) 14:38 (UTC)返信

Tamago915さん、作成ありがとうございます。が、できれば今後は提案から実行まで72時間は待って頂けないでしょうか?もう一度現状を整理しますと、
  1. これまでの議論で「#引用には様々なリスクがあるので、できるだけ引用は避けた方が良さそうだ」「百科事典を作るにあたっては、どうしても引用を行わなければならない場合があるようだ」という2つの対立的な価値観が導き出された。
  2. この2つの価値観の対立に関して「できるだけ2つの価値観を両立させていこう」という考え方と、「2つの価値観のうち後者は捨て、前者のみを採用しよう」という考え方が対立している。
  3. 今後の進め方として、今出ている案は「2つの考え方の間で、もう少しコンセプト的な議論を続ける」「2つの考え方の支持者がそれぞれのガイドライン案を作り、投票に諮る」の2つである。
2つのガイドラインを作って投票を行うというのはまだ決定事項ではありません。その方針で良いのかどうか、特に前者の価値観のみを採用するという考えの方からのご意見を踏まえる必要があると考えます。--Minoru223 2005年10月4日 (火) 02:09 (UTC)返信
私も、現時点で投票に諮ろうとは考えていません。2つのガイドライン案を検討し、両方の欠点を補ったガイドラインが作られればよいと考えています。引用を禁止することを主張している方からの意見をふまえる必要については私も同感です。--Tamago915 2005年10月4日 (火) 12:07 (UTC)返信

ガイドラインの妥当性

編集

どうしても著作権のほうにフォーカスされてしまうので、新たにセクションを立てました。どんな状況でも訴訟を起こされる可能性がある以上、いかなる範囲の引用も法的に安全ではありません。著作権だけ考えれば他の著作物からの引用を全面的に禁止するのが簡単なのですが、それが果たして百科事典の執筆という面から見て妥当な措置なのかと考えると、私の頭ではどう考えても妥当でないとしか結論が出ないのです。とはいえ、何が妥当かという具体的で客観的な基準は出てこないと思いますので、ない知恵を絞って考えているわけで……。--Tamago915 2005年9月26日 (月) 10:45 (UTC)返信

引用が不可欠な場合

編集
「どういう場合」あるいは「どういう項目」で「引用が不可欠」かを考えた方が現実的ではありませんか? で、そういう場合以外は原則禁止とする・・・例えばロボット三原則を引用無しに書くのは並大抵のことではないだろうと私でさえも思います。また演説や宣言は、引用がないと難しいかも知れません。それ以外に、引用が不可欠な項目があれば教えてください。--miya 2005年9月27日 (火) 02:30 (UTC)返信
Wikipedia:中立的な観点にあるように、誰々は何々といった(書いた)という表現のしかたを取る場合、その発言内容については引用が必要になります。引用できなければ中立的な観点を失うことにもなりかねません。--Tamago915 2005年9月27日 (火) 03:39 (UTC)返信
別にどんな場合でも引用である必要はありませんでしょう。どの旨述べたかのほうが重要です。 Kzhr 2005年9月29日 (木) 08:21 (UTC)返信
なんだか話がとっても循環していますね(笑)。Miyaさんがおっしゃっていることは正にその通りで、そのような考え方に立ってガイドライン案が作られつつあるわけです。Miyaさんがご興味のある事項はガイドライン案の「引用の目的」という節にあります。現在、引用が不可欠、または不可欠とまでは言い切れないがそれに近いものとして6つの場合が挙げられています。今後、「ガイドラインの私案を作成しました」というセクションの中に「引用の目的」という節を設けて、その6つで妥当なのかどうかを議論していくことになるのだと思います。--Minoru223 2005年9月28日 (水) 10:50 (UTC)返信
ポインタをありがとうございました。大変分かりやすく書かれており、「この節に該当しない引用は削除」と判断しやすくてよさそうですね。5.以外はおおむね妥当なものだと感じました。
>5. 社会的な事件・事象・現象の説明を補強または反証する為にレポート・報告・報道を引用する場合
は「新聞報道からの引用」多発の元凶になりそうで、賛成しかねます。--miya 2005年10月5日 (水) 21:58 (UTC)返信
その懸念はあると思います。ばっさり削除するか、表現を修正して引用の多発を避けるようにすべきですね。また、上にも書きましたが、
7. Wikipedia:中立的な観点に従い、ある人物の発言や著述を評価や意見のひとつとして取り上げる場合。
というのを追加していただきたいと思います(5.の差し替えになるかもしれません)。--Tamago915 2005年10月5日 (水) 23:52 (UTC)返信
なるほどですね。miyaさんが「2005年10月5日 (水) 21:58」で表明された心配は尤もだと思いました。Tamago915さんが「2005年10月5日 (水) 23:52」で提示された目的7.を採用して5.と差し替え、に賛成します。Uryah 2005年10月6日 (木) 10:15 (UTC)返信
NPOVは引用を要求していません。説の概要および賛同者についての記述が必要なのであって、どのような言葉を選んだかが重要でないかぎり、引用する必要をNPOVに求められないでしょう。 Kzhr 2005年10月8日 (土) 04:00 (UTC)返信
NPOV のために引用できるようにしておきたいのであって、NPOV のために引用しなければならないとは主張していません。今の論調ですと NPOV で記述するためにも引用が認められない、となりそうですので、その方針には反対です。--Tamago915 2005年10月9日 (日) 04:39 (UTC)返信
NPOVで記述する、というのはどういう意味なんでしょう。 Kzhr 2005年10月9日 (日) 12:54 (UTC)返信
社会に存する様々な意見・主張・評価・ムーブメントをWikipediaに載せる・記載する場合、Wikipediaの執筆者がWikipediaの執筆にあたって(自身の主張として)記述することは認められない、「有名な人物・既に社会的に意見を公表している人物・世の中で起こっているムーブメントの代表的な人物と目される者」の言葉を引用して「社会にこれこれの認識がある・ムーブメントがある」とする記述(書き方)は(社会の出来事も記事に含める)百科事典的な記述だ、という趣旨ですから、「2005年10月8日 (土) 04:00 (UTC)」のKzhrさんの認識は間違っている、と思います。Uryah 2005年10月9日 (日) 07:55 (UTC)返信
間違った認識、ですか。まあそれでもいいけれども、Uryahさんの仰るところの趣旨は、間違っていると思います。そんなことを云っていたら、百科事典的な記述ではなく転載が出来上がります。「編輯」が必要なのです。 Kzhr 2005年10月9日 (日) 12:54 (UTC)返信

インデントを戻します。

>NPOVで記述する、というのはどういう意味なんでしょう。 Kzhr 2005年10月9日 (日) 12:54 (UTC)返信

中立的観点で記述する、ということですが、編集が入る限り中立でなくなる場面というのも考えられなくありません。もっとも中立的に記述できるのは、誰が何といったかをそのまま残すことであり、そのためには引用が必要であろう、と考えています。--Tamago915 2005年10月9日 (日) 13:11 (UTC)返信

引用する言葉を選ぶ作業自体編輯なのではありませんか? そして、その選んだ言葉が、NPOVの実現に有用である根拠は? また、文脈を破壊せずに引用をする、しかも転載にならないように、という環境を作るためには、素材の入念な編輯作業なしにはなしえないのではありませんか? いまのままのTamago915さんの説明では、引用の必要性を認めることが出来ません。 Kzhr 2005年10月9日 (日) 13:24 (UTC)返信
誰かの発言を利用して中立的記述に用いる場合、引用のままにするか、それを編集するかについてであると認識しています。はじめの2つの質問は、引用文を編集する場合でも同様のことが言えますから、引用を認めるべしと主張する立場から回答する必要はないのではないかと考えます。3番目ですが、素材の入念な編集作業がなされれば、引用を認めてよいと受け取ってよろしいでしょうか。素材の入念な編集作業というのがどのような作業を指すのか、もう少し説明していただければと思います。--Tamago915 2005年10月10日 (月) 02:20 (UTC)返信
発言を引用しただけで事態が的確に示せるような人が、そんなにいるかどうか知りませんが。私は引用文を編輯する場合なる場合を想定していません。引用しないで適切な解説を書くことが望ましいと考えています。そして、それに対してそんな編輯者の恣意が入るからいけない、引用することで恣意を排除せよとの旨仰いますのでその根拠を問うたのが初めの二つの質問です。3つ目の質問は、引用文であるからには全文を引くわけには行かず(=転載にならないように)、また、引用文を誤解を引き起こすような場所に置くことなく(=文脈を破壊せずに)、文脈の適切な解説(=素材の入念な編輯作業)とともに示す必要があり、それは結局、引用をすること「で」の「恣意の排除」には繋がらないのではないか、ということです。 Kzhr 2005年10月10日 (月) 14:36 (UTC)返信

この件に関しては、これ以上議論してもお互いの主張の溝が埋まらないと思います。とりあえずどちらかで運用を開始して、問題があるようなら適宜見直すということでどうでしょうか。引用を認めてしまうとそれを禁止にするのは難しいと思いますので、まずは中立的観点による記述からの引用は認めない方向でガイドラインを作り、記事の記述がうまくいかない場面が多発するようであれば解禁する、という方針で考えています。--Tamago915 2005年10月10日 (月) 23:40 (UTC)返信

当面禁止に賛成します。他の場面についても議論しましょう。現在挙げられている“引用が許される6つの場面”のうち、厳密な意味で「引用しなければ記事を書くことが不可能」と言い切れるのは6番だけです。他の5つは「引用しなければ優れた記事を書くことはできないかも知れないが、充実していない記事なら書くことができる」というものだと思います。この辺りについて「記事を充実させたい」というニーズと「引用のリスクを抑制したい」というニーズのバランスをどう考えるか、みなさんのご意見をお聞かせ頂けると嬉しいです。--Minoru223 2005年10月11日 (火) 10:31 (UTC)返信
1番も残しておくべきだと考えます。「学説の紹介」といった曖昧なものではなく、
ある事物について定義された文章が著作物になっており、その文章を記事に取り込む必要がある場合
などのように、定義文に限ることを明記するほうがよいかもしれません。--Tamago915 2005年10月11日 (火) 10:41 (UTC)返信
なるほどです。Wikipedia:中立的な観点には以下の記述があります。
「ある意見についての事実を述べる時には、その意見に対立する意見についての事実を述べ、かつ、それらの意見のどれか一つが正しいと示唆せずにおくことも重要です。一般的に、それら対立する意見の背後にある考え方や、誰がそうした意見を支持しているかについての事実を提供することも重要です。(その意見を代表するような人物を引用することが、しばしば最適の方法です。)」「あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです。ある作品についての一般的な解釈の概説をすること、それもできればその解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて、はよいことです。」。
という観点から、7. Wikipedia:中立的な観点に従い、ある人物の発言や著述を評価や意見のひとつとして取り上げる場合。を支持するものでありました。
ただ一方、Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意の引用の項に
「さて、英語版ウィキペディアを見に行くと日本語版よりもずっと引用に関しておおらかです。なにしろ、映画作品についての記事をみるとなんと作品中のシーンがそのまま貼り付けられています。これは、米国でのフェアユースという慣習(公共の目的なら著作物の流用が比較的自由)に基づくもので、日本では認められていないことです(実は英語版でもフェアユースにGFDLと親和性があるのかという議論が起こっているのですが)。」とあるので、
‘引用を用いて意見・主張・評価・ムーブメント(という社会に存する事実)を把握する・記述する・“事実として”これを並べていく’やり方は、日本語版のWikipediaにはそぐわない、Wikipedia:中立的な観点にも日本語版としての(における)注釈が必要、という立場はあり得ると(は)思います。また、「2005年10月10日 (月) 23:40 (UTC)」のご意見のように溝は埋まらない見込みは大きそうですので、私としては残念ですが、上記ご提案に賛同を表明します。Uryah 2005年10月11日 (火) 10:44 (UTC)返信
Wikipedia:中立的な観点 の引用を用いて、と書かれている部分には、 (注:現在のところ、日本語版では基本的に引用は認められていません。ガイドライン参照)(注:現在のところ、日本語版ではこの用法での引用は認められていません。ガイドライン参照) などの注釈が、たとえば、よいと考えます。Uryah 2005年10月12日 (水) 13:20 (UTC)返信

>7. Wikipedia:中立的な観点に従い、ある人物の発言や著述を評価や意見のひとつとして取り上げる場合。

これは漠然としすぎているので取り下げを求めます。「評価や意見のひとつとして取り上げる」のは引用が無くても可能なはずです。不可欠という例があればお示しください。--miya 2005年10月13日 (木) 00:52 (UTC)返信

そうですか?中立的な観点によって記事を作成しようとするとき、つきつめるとどうしても引用が必要になってきますよ。その具体例がWikipedia:言葉を濁さないに書いてありますが、この文書を読んでいてその発言がでるとは私には思えないのですが。まあ、言葉を濁した記事なら可能でしょうけど、それはWikipediaの中立的観点のポリシーからは外れるように思いますね。--Ligar 2005年10月13日 (木) 02:46 (UTC)返信
たとえば、記事引用の趣旨の項「著作権法の目的の一つに『文化の発展に寄与すること』(法第1条)がある。自己の論説を展開するうえで、他者の著作権を侵害しない範囲において、引用することが認められる。」(2005年8月16日 (火) 15:57 の版)が、(2005年8月16日 (火) 16:37 の版)では「著作権法の目的の一つに『文化の発展に寄与すること』(法第1条)がある。自己の論説を展開するうえで、他者の著作権を侵害しない範囲において、引用することが認められる。さしたる必要性もないのに、むやみに引用することは許されない。」に、(2005年8月19日 (金) 13:08 の版)では「著作権法の目的の一つに『文化の発展に寄与すること』(法第1条)がある。自己の論説を展開するうえなどで、他者の著作権を不当に侵害しない範囲において、引用することが認められる。さしたる必要性もないのに、むやみに引用することは許されないと解される。」と変更されていきますが、引用についての議論の最中に、その議論の参加者によって変えられていくこの記述は、 Wikipedia:言葉を濁さない でいうところの 個人的な見解 の例ではないでしょうか。Uryah 2005年10月14日 (金) 20:25 (UTC)返信
引用または、引用の法の精神について、<さしたる必要性もないのに、むやみに引用することは許されない(と解される)>という発想・立場が社会に存することは理解します。いっぽう、<発見や発想や表現を(つみ)重ねることで人の文化は編み出されてきたのだという観点から、その記述・表現を生み出したのは誰々だ、という原著作者の名誉と権利が侵されない限り(守られる限り)、引用は制限・否定されるべきではない>という発想・立場が社会に存することも理解しています(私個人は、これを支持する立場です)。
さて、社会に存するこれら見解・評価・立場・意見を百科事典Wikipediaの記事に盛り込む、記事として取り上げる場合には、Wikipedia(の執筆者)の見解としてこれを記述することは好ましくなく、(法曹界にあるいは社会全体に潮流として在るのであればその旨と)その代表的な人物の名前を引いてくることや、その人物の言葉や著作を引用して社会現象としての事実としてこれを記述するのが好ましい(奨められる)というのが Wikipedia:中立的な観点 、Wikipedia:言葉を濁さない の趣旨だ、と理解します(その調査がしばしば困難なものであることは、Wikipedia:言葉を濁さないにても言及されているところではありますが)。
よって、記事引用の先に挙げた部分は、引用を用いれば記事を充実したものにする可能性のある記述であり、しかし現状では、Wikipedia:言葉を濁さない でいうところの 個人的な見解 を述べた百科事典的ではない記述の例である、と考えます。Uryah 2005年10月15日 (土) 12:22 (UTC)返信

>7. Wikipedia:中立的な観点に従い、ある人物の発言や著述を評価や意見のひとつとして取り上げる場合。

について、「2005年10月11日 (火) 10:44 (UTC)」にて認めない方向に賛同を表明しましたが、「2005年10月13日 (木) 00:52 (UTC)」~「2005年10月15日 (土) 12:22 (UTC)」にて考え直しました。私は、取り上げを求めます。Uryah 2005年10月17日 (月) 12:20 (UTC)返信

一週間、反論もないようですし、ガイドラインへの記述をお願いしてもよろしいでしょうか(下記引用の目的の3.)。Uryah 2005年10月24日 (月) 12:34 (UTC)返信
了解しました。ただ、引用の目的は全体的に議論の途中であるため、記述する方向で検討していくという状態になりますが、よろしいでしょうか。--Tamago915 2005年10月25日 (火) 10:09 (UTC)返信
なるほどです。では、本不可欠な場合で挙げられている項目として、現時点のガイドラインに、7.~として記述をお願いできますでしょうか?Uryah 2005年10月25日 (火) 10:38 (UTC)返信
とりあえずガイドラインを修正しましたが、継続して検討をお願いします。--Tamago915 2005年10月25日 (火) 13:35 (UTC)返信

引用の目的

編集

引用の目的として6項目ないし7項目を挙げていますが、6を除いて Minoru223 さんが以前書かれた「引用しなければ優れた記事を書くことはできないかも知れないが、充実していない記事なら書くことができる」というものです。充実していない記事を書いても仕方がないので、充実した記事を書くための引用は大いに認めるべきであると改めて主張します。で、この目的ですが、もう少し大まかに示したほうがよいのではないかと思います。たとえば、

  1. ある事物について定義された文章が著作物になっており、その文章を記事に取り込む必要がある場合
  2. ある事物について論述された文章があり、その事物について説明する際にその論述が必要となる場合
  3. Wikipedia:中立的な観点およびWikipedia:言葉を濁さないに従い、ある人物の発言や著述を評価や意見のひとつとして取り上げる場合
  4. 議論に際して、ある文献にどう書いてあるかが重要である場合

のような形です。この例の2点目がガイドライン案の2~4に相当し、3点目が5および7に相当します(継続審議となると思いますが)。--Tamago915 2005年10月17日 (月) 13:20 (UTC)返信

上記ご提案に賛同を表明します。Uryah 2005年10月20日 (木) 12:37 (UTC)返信
これもさ、逆の「引用の目的として認められない場合」ってのを作って、「自分で書くのがめんどくさかった場合」「自分には書く才能がないので他人の記述を使おうと思った場合」てのを付け足しておくというのはどうだろうか。--Nekosuki600 2005年10月20日 (木) 13:28 (UTC)返信
それはいいアイデアですね。引用が認められない場合として、
  1. ある事物の説明の省力化のために、著作物を利用する場合
  2. 優れた記事が書けないため、著作物を利用して記述を水増しする場合
の2点を追加すればよいかと思います。適用範囲が広がりすぎて、何も引用できなくなる可能性もあるので、文言は見直しの必要があるかもしれません。--Tamago915 2005年10月20日 (木) 13:40 (UTC)返信
いい、と表明します。ただ、その文言・語句は、本気で言ってますか?何かのジョークですか?そのまま書いた方が“エスプリが効く”のかもしれませんね?(^_^;)Uryah 2005年10月21日 (金) 14:56 (UTC)返信
さすがに上記のままではガイドラインの文面にならないので、表現を修正して利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案)#引用の目的に入れました。--Tamago915 2005年10月21日 (金) 15:06 (UTC)返信
Tamago915さんが上記で私案に入れられた文言にも賛成です。ですが、Nekosuki600さんの「2005年10月20日 (木) 13:28」の文言でも私は賛成です。といいますか、いま私案に入れられた文言のほうが、本気!?と困惑してしまうかも(冗談だと思われてしまうかも)。Uryah 2005年10月21日 (金) 15:17 (UTC)返信
本気なんですけど……。きちんとした表現にまとまらないので、文案を考えていただけると嬉しいです。--Tamago915 2005年10月22日 (土) 11:15 (UTC)返信
「2005年10月21日の14:56と15:17」の書き方が失礼でしたらまずお詫びします。すみませんでした。趣旨は本気だと理解します。表現も、上記までに本話し合いおよび私案に出ている文言のどちらにも同意します。趣旨の提案と文面の考案、ありがとうございます。Uryah 2005年10月23日 (日) 00:00 (UTC)返信
すんまへん。おれの表現の末尾に(大意。てきとーに書き直して)とか入れておけばよかったっすね(=^_^;=)。まあ、あの2項目の大意で、大半の問題ある他人著作物の再利用は網にかかるでしょうから、あとはよしなに。--Nekosuki600 2005年10月23日 (日) 00:47 (UTC)返信

引用を認めることで発生するリスク

編集

引用には様々なリスクがあることは承知しています(これは議論の前提にもなっています)。ただ、実際にどのようなリスクがあるのかを洗い出せていないように感じました。このセクションで引用のリスクについて洗い出して、ガイドラインでリスクを回避するような運用にしていければいいのかなと思います。どのようなリスクが考えられますでしょうか。--Tamago915 2005年9月28日 (水) 13:34 (UTC)返信

  • 正当な引用でないとして、著作権侵害で訴訟を起こされるリスク(訴訟費用、損害賠償など金銭面のリスクも含む)
  • 引用と称した転載がはびこって対処不能になるリスク(ジャンル限定? 漫画、テレビ、アニメなど)
  • 正当な引用でも事後の修正により不当な状態になるリスク
あと何かありましたでしょうか。--Tamago915 2005年9月28日 (水) 14:26 (UTC) 注記追加 --Tamago915 2005年9月28日 (水) 23:58 (UTC)返信

この部分はかなり重要だと思うのでもう少し補足してみます。突然参入してこんなことを書くのも何ですが。。。 訴訟については以下の4通りがあると思います。

  • ウィキメディア財団がウィキペディア日本語版のコンテンツが元で訴えられる可能性
  • 管理者がウィキペディア日本語版のコンテンツが元で訴えられる可能性
  • 引用部分の投稿者が、その引用行為について訴えられる可能性
  • 引用を含んだ記事の編集をした人が、訴えられる可能性

それから、訴訟と、ウィキペディア内の自治・管理体制の問題のほかに、再利用に関わる問題もあるかも知れないと思います。これは過去にどこかの議論で、考慮しなくてもよいという議論もありましたから、そういう風に片付けるのもありかも知れません。

  • 法的にグレーなコンテンツが多いために、再利用者が躊躇する可能性。ひいていは、ウィキペディアのコンテンツは危なくて使えない、という評判が出来上がる可能性。

財団が訴えられる可能性というのは最近までは僕にはほとんど思い浮かばなかったのですが、財団が何らかの意思表示をしたり、意思表示を怠ったりした結果、不法な引用が増加した場合には、MGM v. Grokster で先の最高裁判決が示したような「侵害を誘発した」という責任を問われることがないのかどうかが今はちょっと気にかかっています。

それから、提訴されたばかりでどう展開するのか僕にはよくわかりませんが、Googleが図書館の蔵書をスキャンしてデータベースを作成、検索できるようにしていることについて著作者の団体から訴えられています。まだ訴状などは読んでいませんので詳細について大きな誤解をしているかも知れませんが、ここで考えられるひとつの問題は、Googleは検索語の周囲の1文なり数文なりを検索結果として提示するので、「理論上は」、検索を繰り返すことによって1冊の本なり1章なりが丸ごとGoogleから引き出せてしまうという点です。これが米国法上問題になるのだとしたら、ウィキペディアの中に含まれている引用をつなぎあわせるとある著作物の相当な割合になってしまうようなケースを想定して、何か予防策を講じないといけないのかも知れません。

編集をした人が訴えられる可能性については、ちょっと不当な感が否めませんが、編集することによって現在の版が過去の版になり、現在の版は少し違うものになるので、日本の著作権法上は翻案や複製にあたるのだろうと思います。(米国法でも同じようなものだと思います)。そして、その複製物ないし翻案物を投稿する(公衆送信化する)かどうかを決めたのは編集を行った人ですから、その人の編集した版が不法な引用を放置してあり、かつ、広く閲覧されたり他の形で流通したりした場合には、責任を負わされる可能性も、理論上は考えられそうに思いました。

管理者の場合には、削除権限を持っているせいで、もう少し責任が重く、不法な引用を含んでいる記事を編集しなくても、それを読んだことがあるなら、もしかすると削除義務を負うことになるかも知れません。著作権法の専門家でもない一管理者がグレーな引用の分まで責任を負うのはおかしな話だと思いますし、どこまで注意しなければいけない義務があるのかというのはよくわからないので、あくまでもそういう考え方もできそう、という程度のアイディアレベルですが。。。それから、これは別に引用に限った話ではありませんが、削除依頼で議論をしたけれども削除しない方向で合意が形成されたが、後になってそれが法的判断としては誤りだったということになれば、その削除依頼に関わっていた管理者は責任を負わされうるとも思います。

最近追いかけていないのですが、数ヶ月前に読んだ文部省の審議会議事録では、著作権法改正の今後の課題として法定賠償のような制度の導入の検討も挙げられていました。具体的なデザインがどうなるかはもちろん僕のような素人には予想がつかないですし、その制度のはらむ問題点はもちろん委員会の委員の方たちは承知で議論をしているわけですからあまり案ずるには及ばないかも知れません。ですが、大枠ではこれは、訴訟のコストが大きく、著作物を不当に利用されても得られる賠償金の額が少ない場合があることを受けて、賠償金の最低額のようなものを法的に定めようという話のようです。これは今まで訴訟を起こせずにいた著作権者の方々には救済として作用しますが、ウィキペディアのようなところで活動している人に対して訴訟を乱発しても採算がとれる可能性があるということでもあるかも知れません。(訴訟まで行かなくても示談で適当な金額を払って解決してしまうとかいうこともあるでしょうし) また時間に余裕ができたら探してみようと思いますが、今は数年前の審議会の説明資料のリンクだけ張っておきます。。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/012/03100701/003.pdf

とりあえず思いつくのは以上です。 Tomos 2005年9月29日 (木) 08:01 (UTC)返信

「後になってそれが法的判断としては誤りだったということになれば、その削除依頼に関わっていた管理者は責任を負わされうるとも思います。」この点については疑問です。著作財産権を侵害しているという当該著作権者からの警告に基づく削除依頼で、削除しないという判断は別ですが、それ以外の無関係者(一般ユーザー)からの削除依頼において、誤った判断をしたからといってただちに責任を問われるものではないと思います。これについては『北川みゆき対談記事転載差止事件控訴審』(東京高裁判決平成17年3月3日)において
「インターネット上においてだれもが匿名で書き込みが可能な掲示板を開設し運営する者は,著作権侵害となるような書き込みをしないよう,適切な注意事項を適宜な方法で案内するなどの事前の対策を講じるだけでなく,著作権侵害となる書き込みがあった際には,これに対し適切な是正措置を速やかに取る態勢で臨むべき義務がある。掲示板運営者は,少なくとも,著作権者等から著作権侵害の事実の指摘を受けた場合には,可能ならば発言者に対してその点に関する照会をし,更には,著作権侵害であることが極めて明白なときには当該発言を直ちに削除するなど,速やかにこれに対処すべきものである。」
とあり、「著作権侵害であることが極めて明白なときには」の但し書きがついていることからも、一見して「極めて明白でない場合は」この限りではない点が推察されるからです。--Ligar 2005年9月29日 (木) 08:57 (UTC)返信
(11月時点での補足)大変遅い返事で申し訳ないのですが、少しだけ補足させて下さい。Ligarさんの挙げられた判決部分は、「直ちに削除する」などの対処が必要とされる場合の基準を述べたもので、削除依頼へ対応する場合にはまた基準が違ってくる可能性もあるかも知れない、とも思います。具体的には、プロバイダ責任制限法の図解として総務省が作成したものの2ページ目にありますが、著作権などの権利を侵害された被害者と主張する人に対して、削除しなかったことの責任を負うのは「権利侵害を知っていた」「権利侵害を知りえた相当の理由があった」という場合だと思います。きわめて明白、とはいえないような場合であっても、裁判所が「きちんと法令を理解していないために判断を誤ったけれども、理解していれば権利侵害があったことを知りえたはず」というような判断を下せば、賠償責任が発生する可能性はあるのではないかな、と思います。「法令」だったら理解していないことについて免責は得られないような気もしますが、法令の解釈の微妙なところまでは責任を負わされることはないか、かなり減免されるのではないかというのが(特に根拠もない)僕の予想です。例えば引用の際に従うべき「公正な慣行」が何であるかというのは判例を通じてかなり具体的に特定されているわけですが、条文だけを読んでもそのような特定の解釈にたどり着く可能性は非常に少ないように思います。ではその部分を間違えて判例に照らせば侵害であるような引用を侵害ではないとしてしまって削除しなかったら、それについて後で責任を負わされる可能性があるか、というと、自信があるわけではないのですが、可能性としてはありそうに思います。Tomos 2005年11月27日 (日) 13:08 (UTC)返信

Tomos さんの文章をきちんと読み切れているかどうか自信はないですが、訴える著作権者の立場からすると、自分の著作物を無断で記述した個人が特定できればその個人を、特定できなければウィキペディアのサービス提供者(おそらく財団ということになるのでしょう)を訴えることになると思います。管理者も管理責任があるという意味で訴えられる可能性はあります。

ただ、どういう場合に裁判という手段に出るかを考えると、引用の範囲を超え、複製権が侵害されてしていると判断した場合と、自分の気に入らない主張の根拠として自分の著作物が引用されているので、その主張を押さえるために著作権侵害だという主張を行う場合とがあると思います。前者は引用のスタイルを厳密に適用し、引用する文章を最小限に制限することで、後者は百科事典制作という根本に立ち返って中立的な記述を心がけることで、リスクを軽減できるのではないかと考えます。--Tamago915 2005年9月29日 (木) 13:10 (UTC)返信

ボーダーケースでの訴訟が提起される恐れというのは、あんましないんじゃないでしょうか。ボーダーケースで訴訟を起こして敗訴すると「そこまではOKなのだ」という判例を作ってしまうことになるわけですから。あのこうるさいJASRACですらやってなかったと記憶しています。「明確な著作権侵害かどうかは微妙だが主張が気に入らないので著作権侵害という理由で訴えてみる」というのは、小林よしのり訴訟くらいしか思い浮かびません(あの訴訟はそういう意味でとってもありがたかったわけですが)。
ま、民事ならどんな訴訟でも起こせるわけで「絶対」はありませんが、訴訟リスクという意味では、やはり「明白な著作権侵害」がなければ見過ごしていいような気がします。で、「明白な著作権侵害」というのは、出典非明記をはじめとする形式判断が可能なものがメインとなります。Nekosuki600 2005年9月29日 (木) 14:53 (UTC)返信
実際問題、財団または管理者に、訴訟の前に何らかのクレームがあるものと思われます。それが単に記述の削除を求めるものであればよいのですが、使用料を支払えという話になってしまうと、誰がどうやって払うのか(あるいは拒否するのか)という問題が生じます。ボーダーラインでの訴訟リスクは低いにしても、こういったクレームが発生するリスクは考慮しておいたほうがよいかと思います。--Tamago915 2005年9月29日 (木) 22:38 (UTC)返信
気持ちの上では、百科事典の価値という本質論では、Tamago915さんの「2005年9月26日 (月) 10:45 (UTC)」の意に賛成を表明します。ガイドラインやテンプレートの作成を試みてくれた(くれている)Tamago915さんやMinoru223さんに、私としては、感謝の気持ちで一杯です。いっぽう、「Wikipedia」の現実の運用の問題として、訴訟やクレームへの対応、手間暇(という言葉では軽すぎるであろう負担)を引き受けることになる可能性が高いのは、管理者の方々であるわけで、SuisuiさんやTietewさんほか(通常Wikipediaの運用についての仕事をされていることだけでもありがたいことですが)、その負担は重いであろうことは、大きく受けとめます。Uryah 2005年9月30日 (金) 16:54 (UTC)(自発言、直後に微修正)Uryah 2005年9月30日 (金) 17:04 (UTC)返信

議論が錯綜しつつあるのでまとめます。現在のところ、引用を認めるという前提では以下のようなリスクが指摘されています。

  1. 複製権の侵害であると判断され、記述者/編集者/管理者/財団がクレームを受けるリスク。
    • 記述の削除を要求される。
    • 著作権使用料を請求される。
    • 訴訟に持ち込まれる。
  2. (おそらく一部の分野で)引用の形態を取った転載記事が多数作成され、対応不能になるリスク。
  3. 記述時は正当な引用でも、事後の修正によって不正な引用になるリスク。

2点目は引用を認めない分野の記事をガイドラインに示すことで、転載を防ぐことは可能であると考えられます。想定しているのは、漫画やアニメのセリフの引用です。3点目は引用を含む記事の修正の際の注意点をガイドラインに示して、不正な状態にならないようにすることで対応可能ではないかと考えます。

ということで、やはり問題は1点目になると思います。クレームを発するのは著作権者のほうですから、どんな状態ならクレームを受けるのかを明確に線引きすることはできないというのは議論の前提になっていたと思います。とはいえ、クレームを発しにくい状態にすることは可能ではないかと考えます。どういうことかというと、最高裁判決で示された引用のガイドラインを遵守し、ウィキペディアでは正当な引用と考えて利用していることを明確にすることで、著作権法に認められた引用の範囲内であると主張することはできるのではないか、ということです。それでもクレームが発生するのであれば、個別に対応することにならざるを得ないと思いますが。--Tamago915 2005年10月2日 (日) 07:11 (UTC)返信

2点目の問題点についても、ガイドラインで定めてあるとは言っても、削除・再編集の手間をできるだけ減らす為に、問題記事ができるだけ少なくなるような配慮は必要というのが今までの議論から自然に導き出される帰結だと理解しています。
また、1点目の問題についても、著作権者との無用の争いを避ける為、「最高裁判決に従っていれば良い」のではなく、「たいていの著作権者はこの程度の引用なら文句を言わないだろう」と考えられるレベルにまで引用を減らすというのが今までの議論だと理解しています。--Minoru223 2005年10月4日 (火) 01:35 (UTC)返信

引用を認める場合の方針案

編集

上記のリスクに意見がないようなので、自分の意見をもとに方針案をまとめてみます。

  1. 複製権の侵害であると判断されないよう、以下の方針を守って引用する。
    • 引用する部分は記事の記述に必要な最低限の範囲とする。(必然性・主従性)
    • 引用部分をかぎ括弧で囲うなど、地の文との区別を明確にする。(引用部分の明確化)
    • 引用元の書籍とページ、またはサイト名とURLを明記する。(引用元の明記)
  2. 引用を認めない分野を定める。
    • 漫画・アニメ・映像作品のセリフ(必然性のない引用が多数行われる可能性があるため)
    • 歌詞(著作権を持つ JASRAC が著作権を強く主張する傾向にあるため)
    • その他文字になっていないもの(そのままの形で適切に引用することが困難であるため)
  3. 引用部分や引用元の記述を改変する場合も、第1項にある方針を守る。(事後の編集により引用が不正にならないように)
  4. 上記方針にあわない引用・複製を発見した場合は、著作権侵害事項として削除依頼で対応する。
  5. これらの方針を守っていた場合でも、著作権者から記事削除などの請求が発生した場合には、当該記事に対して速やかに対応する。

第4項は私のガイドラインでは編集対応もできるように書いていますが、安全のためには削除したほうがよいと考えるため、方針を変更しています。第5項は著作権者からのクレーム対応ですが、個別に対応することを明記する形にします。引用を認める場合、この程度の方針は必要かと思いますが、その他追加すべき事項、ご意見などありましたらお願いします。--Tamago915 2005年10月3日 (月) 23:56 (UTC)返信

上記の案から具体的にどのようなガイドラインの文面が導かれるのかがわからないのでコメントしにくいのですが、上の節にも書きましたように、リスク回避という面では逆行の懸念を感じます。著作権者からの苦情をできるだけ抑える為にはできる限り引用を行わず、行う場合にはできるだけ少ない引用にするしかありません。私としてはTamago915さんが既にまとめて下さっているガイドライン案 に対して以下の変更を加えたものが完成形だと思っているのですが。
  1. 「引用の前提」という節にTamago915さんが主張なさった“引用部分だけを読んだ時と全体を読んだ時とで読者が理解する内容が同一ではダメ”という内容を加える。
  2. 「引用の目的」という節に引用をして良い6つの場合が挙げられているが、これらの中には“どうしても引用をしなければ記事が書けない”とまでは言い切れないものが含まれているので、本当にこの6つで良いのか議論してその結果を反映させる。
  3. 「引用の範囲」という節では引用の分量を“セクションの半分以下”としているが、もっと厳しくするかどうかを議論してその結果を反映させる。
  4. 著作権が切れた著作物についてのニュアンスが節によって乱れているので整理したり、「六甲颪」や「バカヤロー」は著作物でないことを明記するなど、ガイドラインの解釈を巡る争いを避ける配慮を入れる。
Tamago915さんが新たにおっしゃっている“編集ではなく削除”という案は、ガイドラインがどの程度の引用まで許すか次第だと思います。許す範囲を十分絞っておけば編集で足りるし、そうでないのなら削除の方が適切と考えます。--Minoru223 2005年10月4日 (火) 01:58 (UTC)返信
私もベースとなるのは利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案)であると考えています。そこに冒頭に挙げた方針を組み込んで形にしていくのがよいのではないかという認識でした。Minoru223 さんが指摘された点を反映させるのも必要な作業ですね。
  • 「引用の前提」のところの文言の追記は必要だと思います。概念をうまく表現するのが難しいですが。
  • 「引用の目的」は、再度見直す必要があります。中立的観点からの記述のための引用や、定義文の引用は必要だと思いますが含まれていませんし。
  • 「引用の範囲」は、数値基準を設けるかどうかと言うところから議論し直す必要があります。
3日ほど待って、反論がないようなら上記3点を新たなセクションを設けて議論していきたいと思います。--Tamago915 2005年10月4日 (火) 13:27 (UTC)返信
利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案)をより良くしていこうという趣旨なのであれば、「ガイドラインの私案を作成しました」の節で話をしませんか?話をゼロベースに戻しているようでわかりにくいのです。それから、ついでですがこのページは容量が膨大になり、構造も複雑になってしまいましたので、例えば「ガイドラインの私案を作成しました」を独立したページにするなどの整理をしてはどうかと思うのですが、いかがでしょうか?--Minoru223 2005年10月5日 (水) 04:41 (UTC)返信
「ガイドラインの私案を作成しました」の節で議論をする旨、了解です。別ページに分けるのはかまいませんが、今のページ構成のままでもそれほど問題を感じていないので、このままでもかまいません。--Tamago915 2005年10月5日 (水) 09:15 (UTC)返信

引用禁止のガイドライン

編集

骨子部分だけですが、利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案・引用禁止)を作成してみました。私の本意ではないですが、もっとも厳しく著作物の利用を制限したガイドラインとしています。ここまで制限してしまうと運用時に妥当性を欠くと思うのですが、妥当性の観点からも議論が進めばと思います。--Tamago915 2005年9月30日 (金) 14:30 (UTC)返信

引用禁止ガイドラインの構造

編集

ずーっと考えていたんですけど(途中でだいぶなまけてもいたけど(笑))。

どういうケースが問題になるのかというと、「引用には該当しない蓋然性が高いものを、引用であると言い張るやつが出てきた場合」というのがいちばん大きいと思うんですね。んで、「どういう場合に引用していいのか」を記すより「どういう場合に再利用してはいけないのか」をやや広めに記しておく、という構造の方がいいのじゃないだろうかと。たとえばこんな感じ。

  • 出典を記さずに他者の著作物をそのまま使うことは禁止。
  • 他者の文章を再利用する場合「どこからどこまでが再利用範囲なのか」が明確にわからないような使い方は禁止。

あ。「引用と言い張るやつ対策」は、こんなもんで済んでしまうのかもしれない。んで、問題ケースはおそらくこのあたりの禁止事項に簡単にひっかかってくれますからばさばさ削除できることになります。

なお、平行して「どういう場合に引用が可能なのか」の説明なんかは、もちろんあった方がいいです。

--Nekosuki600 2005年10月5日 (水) 09:45 (UTC)返信

引用不可の場合を列挙しておくのはよいアイデアだと思います。が、Nekosuki600 さんの提案では足りない部分があるように感じました。いちばん危惧しているのは、漫画やアニメ作品からセリフを引き写して、「引用だから問題ない」と言い張った場合に対処できるのか、ということです。ひとつ許してしまうと際限なくセリフの引き写しがなされると言うのは目に見えていますので、セリフの引き写しは明確に禁止しておくのがよいかと思います。ですが文芸作品からのセリフは引用を認めたいし、そのあたりどこで線を引くかが難しいと感じています。--Tamago915 2005年10月5日 (水) 12:37 (UTC)返信
えー。例示は例示にすぎなくて「これで十分」という話じゃないので付け足してくだされ。とりあえず「引用範囲におさまらないものを引用だと言い張るやつ対策」としてはあの2行があれば十分かな、ということで、それ以外の問題についての禁止事項は検討しなければなりません。
せりふの引用とかについては、「それが即座に著作権侵害になる」という論理で行かず、「(過去の事例からして)非抑制的に行われる恐れが強く、これまで管理の手間がかかってきた」とか「百科事典に必要であるとは考えにくい」とかいった理由で禁止しても十分合理的ではないかと思ったり。ま、マンガやアニメの記事に執着するライターさんからは反発くらうかもしれませんが。
--Nekosuki600 2005年10月5日 (水) 12:59 (UTC)返信

アニメ・漫画作品の台詞引用問題は著作権問題とはいえず、純粋に「編集方針の問題」だと思うのですが、なぜそこにTamagoさんがこだわるのかよくわかりません。アニメ・漫画作品の台詞引用は正しい引用ならそういう編集方針だからという理由で単純なRevert(差し戻し)、間違った引用なら著作権問題として削除でいいのでは。--Ligar 2005年10月13日 (木) 08:09 (UTC)返信

リバートでもいいのですが、アニメや映像作品からの引用は歯止めが利かなくなるので、一律禁止にしておく方針にするのが安全ではないかと考えています。正当な引用なら残しても構わないのですが、こと映像作品に関しては必然性のない引用(複製)が多くなることが予想されますので。--Tamago915 2005年10月13日 (木) 14:51 (UTC)返信
ちょっと「禁止」について確認しますが、ここでいう「禁止」は、引用があった場合著作権問題として場合によっては何十編集にもさかのぼって版を削除することを「禁止」というのですよね?『引用だから問題ないと言い張った場合に対処できるのか』という理由でアニメ・漫画の台詞に限って著作権違反にしようとするのが、無理やりな感じになっているという印象です。「編集方針」で決まっているなら、歯止めが利かなくなることはないでしょう。引用以前の問題ですから台詞の引用が増えることもないと思います。--Ligar 2005年10月14日 (金) 05:33 (UTC)返信
えーと。マンガやアニメからの台詞の引用を禁止する場合ですが(前述の通りおれは禁止しちゃっていいと思っていますが)、それは「著作権侵害」を理由とするのではなく「編集方針」の方がいいと思います。「著作権侵害」を理由とした場合には、著作権侵害ではないという抗弁が可能になりますし、そもそも著作権侵害ではないものを著作権侵害の虞れとかゆーて削除するとそうでなくてもややこしい著作権問題がなおさらややこしくなりかねません。まあ禁止事項として併記するのは、他に書くところもないしやむなしでしょうが、まーとにかくなんだ、理由として「著作権侵害(およびその虞れ)」を挙げるのには反対。「編集方針で」十分。
--Nekosuki600 2005年10月14日 (金) 05:52 (UTC)返信
同意します。「編集方針として」、映像関係の著作物からの引用を認めないことにしておくのでよいと思います。--Tamago915 2005年10月14日 (金) 12:45 (UTC)返信
話題がずれてきたので、上のほうに#セリフおよびアスキーアートの扱いの項を設けました。議論はそちらで行いましょう。--Tamago915 2005年10月15日 (土) 01:22 (UTC)返信

引用を禁止することのリスク

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引用を全面禁止にした場合、どのようなリスクが発生するかは議論されていたでしょうか。引用を禁止することで、引用したいけれどできないので複製、改変して記事にする場合が増え、結果的に著作権侵害の案件を増やすことになることは容易に想像できます。このリスクを避けるためにも、ある一定の範囲で引用を認めるべきだと改めて主張しますが、いかがでしょうか。--Tamago915 2005年10月6日 (木) 13:55 (UTC)返信

賛否意見の確認

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投票ではありませんが、意見の集約を目指すため、それぞれの意見に賛成・反対の署名を入れていただければと思います。また、項目を随時追加していってください。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:17 (UTC)返信

締め切りを決めていませんでしたが、最後の賛否表明があってから1週間誰も書き込みがなければ、そこで締めたいと思います。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 23:28 (UTC)返信
一度締めます。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

一定の範囲内で引用を認める

編集

もっとも根本の問題、一定の範囲内で引用を認めるかどうかについてです。いかなる引用も認めないとする方は「反対意見」に署名をお願いします。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

  • コメント
    • 以前は「一定の範囲内で引用を認める、としてもよい」と考えていましたが、意見が変わりました。この議論が行われている真っ最中にもいい加減な引用まがいの編集が行われ看過されていました。「引用禁止」を明言し、どうしても認めざるを得ないような例外についてはいちいち審議する、という形にすべきです。--miya 2005年10月28日 (金) 00:27 (UTC)返信
    • ただし、「引用を認める」ということはできれるだけ明記しない。もちろん「引用を禁止する」とも明記しない。わざわざ「認める」と言って厨を勇気付ける必要はないだろう。かといって「禁止する」と書いて厨な削除要請を引き出しても面倒になるだけ。Nekosuki600 2005年10月28日 (金) 02:26 (UTC)返信
    • 正規の引用も含めていかなる引用も一律に認めないという方針を立ててしまえば、たとえその後審議制によって個別救済をはかるといっても正規の引用は著しく困難化します。結果、正しい引用を行って記事の充実に努めようとする執筆者はWikipedia日本語版での存在を事実上否定され、より巧妙な改変転載だけが跋扈するでしょう。これは百科事典プロジェクトにとっての自殺行為です。--にごう 2005年10月28日 (金) 03:01 (UTC)返信
    • 「一定の範囲内で引用を認める」というのは、「引用まがいの編集を認めない」に通じます。要はジョージ・ウォーカー・ブッシュのような形の引用は認めない(引用元を明記していないため、という理由がつけられます)とすればいいということで、何もかも禁止にする必要はないでしょう。--Tamago915 2005年10月28日 (金) 03:42 (UTC)返信
    • 引用まがいを防止するために引用を禁止するという主張は、文書による投稿で著作権侵害が多発しているので防止するために文書による投稿を禁止すると言っているのと同じで説得力がありません。もしどうしても引用を禁止するのなら、「引用禁止ペディア」を別につくってそこで活動すべきです。Modeha 2005年10月29日 (土) 12:48 (UTC)返信

一定の範囲内で引用を認める意見が多数となりましたので、ガイドラインはその方向で作りたいと思います。現在公開しているもの(利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案))が素案になると考えています。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

引用の対象を文書に限る

編集

文書の引用のみを認め、画像・動画・歌詞・漫画のせりふの引用を認めないという方針について。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

  • コメント
    • 画像・動画についても、条件が合致すれば引用してもいい。ただし条件に合致させるのはきわめて困難。歌詞・漫画のせりふについて引用を禁止する場合、それはあくまでも著作権がらみではなく編集方針であるとすべきという点について再確認。Nekosuki600 2005年10月28日 (金) 02:26 (UTC)返信
    • 文書と歌詞、せりふの差異が不明。そもそも差異をつける積極的な理由がない。動画や画像についても同様。Modeha 2005年10月29日 (土) 12:48 (UTC)返信

意見が分散しましたので、継続して議論したいと思います。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

引用の目的

編集

各目的をガイドラインに含めるかどうかについてご意見お願いします。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

定義が著作物になっている場合

編集

ある事物について定義された文章が著作物になっており、その文章を記事に取り込む必要がある場合。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

  • コメント
    • この項目の意味がよくわからないのだが、被引用物についての著作物性についての議論はしたくない(著作物ではないのだから制限無く再利用が可能、という主張をされたとき厄介だから)。Nekosuki600 2005年10月28日 (金) 02:26 (UTC)返信
    • この質問の意味が分かりません。特に「禁止に賛成」なのか「利用に賛成」なのか、「ガイドラインに○○について」の項目を作ることに賛成か反対、というだけで、別に利用に賛成や禁止に賛成なのかは聞いていない」のかが全く分かりませんのでどちらにも票を入れられません。提案者には詳しい説明を求めます。Modeha 2005年10月29日 (土) 12:48 (UTC)返信
    • 提案者です。医学のDSM-4ICD10のようなものを想定して項目を立てています。これらのように定義文が著作物に含まれている場合、その定義を引用してウィキペディアに載せることを認めるかどうか、意見を伺いたいと思います。--Tamago915 2005年10月29日 (土) 13:04 (UTC)返信

賛成多数ということで、ガイドラインに含めます。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

語源や言葉の使い方の変遷を紹介する場合

編集

語源や言葉の使い方の変遷を紹介する場合。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

これも賛成多数ですね。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

著作物の一節が非常に有名な場合

編集

その著作物の一節や台詞が非常に有名で、その作品を語る際にはその一節・台詞を引き合いに出すのが常識化している場合。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

微妙ですね……。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

ある発言が非常に有名な場合

編集

人物・事物・事件についての発言・記述が非常に有名で、その人物・事物・事件を語る際にはその発言・記述を引き合いに出すのが常識化している場合。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

これも賛成多数。ただし#事物についての説明で必要な引用との関係もあるのでガイドラインに取りこまない可能性もあります。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

レポート・報告・報道の引用

編集

社会的な事件・事象・現象の説明を補強または反証する為にレポート・報告・報道を引用する場合。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

賛否が二分しましたので、継続審議としましょう。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

新聞の引用
編集

レポート・報告・報道の中でも特に新聞引用について

これも継続審議で。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

議論の際の引用

編集

議論に際してある文献にどう書いてあるかが重要である場合。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

これは反対もないし、問題ないですね。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

中立的な観点のための引用

編集

Wikipedia:中立的な観点およびWikipedia:言葉を濁さないに従い、ある人物の発言や著述を評価や意見のひとつとして取り上げる場合。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

  • コメント
    • 記事が引用だらけになる虞があります。--miya 2005年10月27日 (木) 23:37 (UTC)返信
    • 「必要最低限の範囲」でという縛りをかけます。この言葉は飾りではなく、実際に運用していくために使うつもりです。それで引用だらけになるというのであれば、不要と判断した引用を積極的に削除することで対処できるのではないでしょうか。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 23:46 (UTC)返信
    • 「記事の中立化に努める」というWikipediaの大原則と、いわゆる主従関係論とのバランスをとるのは困難でしょうが、個々の記事で着地点を見出していくべきです。--にごう 2005年10月28日 (金) 03:01 (UTC)返信

ガイドラインに含めておきます。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

事物についての説明で必要な引用

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ある事物について論述された文章があり、その事物について説明する際にその論述が必要となる場合。上の、#著作物の一節が非常に有名な場合#ある発言が非常に有名な場合を統合したものと考えてください。--Tamago915 2005年10月27日 (木) 09:30 (UTC)返信

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    • 範囲が漠然としており、だれが「必要」と判断するか明示されていません。執筆者が「必要」と判断すれば、たいていの引用は可能になってしまいます。--miya 2005年10月27日 (木) 23:37 (UTC)返信
    • その執筆者以降の執筆者も必要と判断すれば自然に残り、不要と判断されれば削除される(あるいは加筆によって希薄化する)だけのことです。--にごう 2005年10月28日 (金) 03:01 (UTC)返信

賛成多数ですので、こちらをガイドラインに含めるように修正したいと思います。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 07:48 (UTC)返信

賛否意見の確認 (数値基準)

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引用を認める範囲の数値基準について、どこまでを認めるかの案と意見集約を行いたいと思います。選択肢は適宜付け足してください。また、ひとりでいくつの意見に賛成してもかまわないものとします。前回同様、1週間意見が出ない状態が続いたところで締めたいと思います。--Tamago915 2005年11月8日 (火) 15:05 (UTC)返信

選択肢

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※適宜付け足してください

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ガイドラインを修正しました

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利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案)を修正しました。一応の形にはなってきたと思いますので、とくに反対がなければ Wikipedia 名前空間に移動させて「草案」としたいと思いますが、いかがでしょうか。--Tamago915 2005年11月5日 (土) 08:01 (UTC)返信

もうちょっと煮詰めてからの方が無難ではなかろーか、と思う。--Nekosuki600 2005年11月8日 (火) 17:12 (UTC)返信
了解です。一人では煮詰められないので、検討へのご協力をお願いします。> みなさま --Tamago915 2005年11月9日 (水) 03:43 (UTC)返信
私Uryahは、このまま草案でも、とくに反対はない、ことを表明します。(煮詰めるのもよい考え、と考えます) Uryah 2005年11月9日 (水) 11:17 (UTC)返信
14日間、反対の表明はありません。初出から参加者の居なかった議論の場なら話は別ですが、この議論はそうではありませんから、(反対)意見が出ないのは反対意見はないことだ、と見て、草案に移してよいのではないでしょうか?草案は草案であって「決定したガイドライン」ではないので、皆様になにか判断や思うところがあれば、そこでまた意見が付く、という理解でいいのではないでしょうか。Uryah 2005年11月19日 (土) 10:28 (UTC)返信

じゃ、動かしますね。--Tamago915 2005年11月19日 (土) 10:40 (UTC)返信

いま気付きました……。できたら元の場所に戻して頂きたいのですが、いまさら言っても遅いでしょうか。「Wikipedia:記事の分割と統合」のような例があるように、草案といえども Wikipedia 空間に置くことで強い影響力を持つ可能性があります。動かすのはもう少し内容を整えてからにすべきだと考えます。―غاز(Ghaz) 2005年11月22日 (火) 14:52 (UTC)返信
「Wikipedia:記事の分割と統合」はまだ草案らしいですが、ある時点(2005年2月)で、「Wikipedia:記事の分割と統合」の記述内容にそった削除依頼の処理が行われたために影響力をもっているのです。Wikipedia 空間に置いていることが即、影響力を持つわけではありません。Wikipedia 空間に置いても今回はテンプレートで拘束力がないことを宣言していますし、問題ない移動だと思います。--Ligar 2005年11月22日 (火) 15:57 (UTC)返信
(ちょっと書き方が不十分だったかな……) テンプレートがあることを考慮に入れても悪影響が発生することが予想される内容であると考えるので、元の場所に戻すことを強く希望します。文章の位置付けが明確になされていない点、削除依頼に関わる記述が過去の判断と大きく食い違っている点、節名「免責事項」が GNU FDL の General disclaimer と衝突している点、「GNU FDL 上では引用は不可能である」との矛盾についてなんら解釈が示されていない点などが大きな問題だと考えます。―غاز(Ghaz) 2005年11月23日 (水) 02:32 (UTC)返信
了解。いったん元に戻しました。--Tamago915 2005年11月23日 (水) 03:06 (UTC)返信
ガイドラインをWikipedia:引用のガイドライン/草案に移動させました。Wikipedia:引用のガイドラインは10月13日現在のものに戻しています。--Tamago915 2005年12月2日 (金) 20:37 (UTC)返信

著作権と引用の関係( 数値基準 - 2005年9月20日 (火) 14:06 (UTC) 、引用が不可欠な場合 - 2005年10月15日 (土) 12:22 (UTC) )と、コピーライトとGNU FDL/コピーレフトの関係は、思想・哲学的に共通するものなんですね。 さて、

  • 文章の位置付けが明確になされていない点
この意味がわからないので、もう少しご説明をください。
  • 削除依頼に関わる記述が過去の判断と大きく食い違っている点
新しく改訂しようとする案ですから記述・判断などが違っている部分があるのは当然ですが、問題のある変更のご指摘があればありがたいです。その変更は不可なのか、修正するのか、そのままでOKなのか、議論が出来ます。
  • 節名「免責事項」が GNU FDL の General disclaimer と衝突している点
どのように衝突しているか、少しご教示いただけるとたいへんありがたいです。
  • 「GNU FDL 上では引用は不可能である」との矛盾についてなんら解釈が示されていない点
GFDLの中に引用を持ち込むことは、たしかに解決しなければならない問題を含むと理解します。本話し合いでそれを詰めるべきだという考え方があれば、それに(私は)同意します。ただ、「GNU FDL 上では引用は不可能である」と確定した共有された認識はない、と理解します。Wikipedia:中立的な観点 には中立的な観点を保つために(は)引用を使うことが好ましい方法である旨の記述があります。また、Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意(2005年8月31日(水)05:06の版)によると、英語版Wikipediaでも、引用は行われている、とあります。Uryah 2005年11月23日 (水) 09:39 (UTC)返信
GFDL と引用の整合については、GFDL のほうで何も言及されておらず、ウィキメディア財団やJuriwiki-lなどで検討する案件であると認識していますが、今は議論が止まってしまっているようです(このあたりの事情に詳しい方がいましたら補足願います)。
「免責事項」の節は、GFDL1.2 で追加された「Warranty Disclaimers」が相当すると考えられます。Warranty Disclaimers に相当する文書は日本語版ウィキペディアではWikipedia:免責事項ですので、他の文書に免責事項があると問題になるかもしれません(作成した本人が言うのもなんですが)。--Tamago915 2005年11月23日 (水) 10:47 (UTC)返信
غازさんが 2005年11月23日 (水) 02:32 (UTC) にてご指摘の「節名『免責事項』が GNU FDL の General disclaimer と衝突している」が、Tamago915さんが 2005年11月23日 (水) 10:47 (UTC) にて述べている事であれば、免責事項の節にWikipedia:免責事項へのリンクを記述すれば免責事項の件は解決する、と考えます。Uryah 2005年11月23日 (水) 11:07 (UTC)返信

日本語版限定のガイドラインであるなら、そう明記しておく方が良いように思われます。Hermeneus (talk) 2005年11月23日 (水) 20:33 (UTC)返信

すみません、そう明記しておく、は何を指しているか、ご教示ください。Uryah 2005年11月27日 (日) 10:39 (UTC)返信
Juriwiki-lの件ですが、これまでのところm:user:Soufronさんから公開可能な意見を頂いています。(特に財団の意見としてということではなく、個人的な意見だと思います。)
ベルヌ条約によって引用の権利は保障されているので、アメリカ法に限らず、原則として引用は可能で、GFDLの文書内に他人の著作物を引用することも可能だということです。 
ベルヌ条約の該当箇所は、こちらの10条1項だと思います。Tomos 2005年11月27日 (日) 13:23 (UTC)返信
ありがとうございます。財団か FSF の公的な見解が聞ければもっと確実なのですが、草案(とりあえずは利用者:Tamago915/引用のガイドライン (私案))に反映させておきます。--Tamago915 2005年11月27日 (日) 13:30 (UTC)返信
公式見解は今のところ出ていないというのが僕の予想・理解ですが、例えば、(今は財団の理事長である)ジンボさんが、(FSFの理事長である)リチャード・ストールマンさんにも話した結果の意見として、m:Do_fair_use_images_violate_the_GFDL?に書き込みがあります。アメリカ法の文脈では、引用というのはフェア・ユースの一種になりますが、フェア・ユースがGFDLと齟齬をきたすか、という問題について、ジンボさんは問題ないという意見で、ストールマンさんもそう考えているようです。ジンボさんもストールマンさんも法律の専門家ではありませんが、クリエイティブ・コモンズのラリー・レッシグさんにも同じ件で意見を聞いたとも書いてあります。Tomos 2005年11月27日 (日) 13:42 (UTC)返信
ということは、GFDLと引用の関係は問題なし、という理解でいいですね?Uryah 2005年11月28日 (月) 15:20 (UTC)返信
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