1997年ナミビア空中衝突事故

1997年ナミビア空中衝突事故(1997ねんナミビアくうちゅうしょうとつじこ、:1997 Namibia mid-air collision、:Flugzeugkollision vor Namibia 1997)は、1997年9月13日にナミビア共和国ウィンドフック・ホセア・クタコ国際空港からイギリスアセンション島ジョージタウン=ワイドアウェイク基地へ向かって北西方向に飛行していたアメリカ空軍ロッキード C-141Bと、ニジェール共和国ディオリ・アマニ国際空港からナミビア共和国ウィンドフック・ホセア・クタコ国際空港へ向かって南東方向へ飛行していたドイツ空軍ツポレフ Tu-154Mがナミビア共和国沖より西へ65海里 (120km) 地点の大西洋上で空中衝突、両機の乗員乗客33人全員が死亡した事故である[1]

1997年ナミビア空中衝突事故
1997 Namibia mid-air collision
Flugzeugkollision vor Namibia 1997
事故の概要
日付 1997年9月13日 (1997-09-13)
概要 ドイツ空軍機のパイロットエラーによる空中衝突
現場 ナミビアの旗ナミビア共和国沖より西65海里地点の大西洋
南緯18度30分 東経11度03分 / 南緯18.500度 東経11.050度 / -18.500; 11.050座標: 南緯18度30分 東経11度03分 / 南緯18.500度 東経11.050度 / -18.500; 11.050
死者総数 33 (全員)
生存者総数 0
第1機体

1995年8月に撮影された事故機
機種 ロッキード C-141B スターリフター
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ空軍
機体記号 65-9405
出発地 ナミビアの旗 ウィンドフック・ホセア・クタコ国際空港
目的地 イギリスの旗 ジョージタウン=ワイドアウェイク基地
乗客数 0
乗員数 9
負傷者数
(死者除く)
0
死者数 9 (全員)
生存者数 0
第2機体

1993年9月に撮影された事故機
機種 ツポレフ Tu-154M
運用者 ドイツの旗 ドイツ空軍
機体記号 11+02
出発地 ドイツの旗 ケルン・ボン空港
第1経由地 ニジェールの旗 ディオリ・アマニ国際空港
最終経由地 ナミビアの旗 ウィンドフック・ホセア・クタコ国際空港
目的地 南アフリカ共和国の旗 ケープタウン国際空港
乗客数 14
乗員数 10
負傷者数
(死者除く)
0
死者数 24 (全員)
生存者数 0
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事故機は両機とも空中衝突防止装置 (TCAS) を装備しておらず、ドイツ空軍機に至ってはナミビアの航空管制と交信を行っておらず、管制官はアメリカ空軍機と衝突する可能性のあるドイツ空軍機の存在に気が付いていなかった。また、ドイツ空軍機は半円形ルール (semicircular rule) に違反した高度を飛行していた。

その後のアメリカ空軍の調査で、事故の原因はドイツ空軍機のパイロットエラーであると結論付けられた[2]

事故機

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事故機の機体記号65-9405のアメリカ空軍ロッキード C-141B スターリフターニュージャージー州マクガイア空軍基地の第305航空機動部隊所属で、事故当時はナミビア共和国へ国際連合の地雷撤去チームを派遣していた[3]コールサインREACH 4201(以下4201便)の事故当該便はピーター・ヴァレーホ(34歳)の指揮下にあり、ジェイソン・ラムジー(27歳)とグレゴリー・M・シンドリッチ(31歳)が操縦を担当していた。また、その他航空機関士2人やロードマスター2人など6人が搭乗していた[4][5]

機体記号11+02のドイツ空軍ツポレフ Tu-154M国家人民軍航空軍(東ドイツ空軍)から引き継がれた機体で、以前はオープンスカイズ条約の下で検証目的で使用されており胴体にはカメラとセンサーが装備されていた[6]。コールサインGAF 074(以下074便)の事故当該便は南アフリカ海軍75周年を祝うレガッタに出場するため、途中ニジェール共和国ニアメとナミビア共和国ウィンドフックに燃料補給のため着陸しながら、ドイツ連邦共和国ケルンから南アフリカ共和国ケープタウンまで12人のドイツ海兵隊員とその配偶者2人の14人を輸送していた[7]。操縦を担当していたのは経験豊富なラルフ・ラインホルド(元・国家人民軍航空軍司令官ヴォルフガング・ラインホルト大将の息子)とクラウス・エールリッヒマンであった[8]

事故

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飛行計画

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ドイツ空軍074便は1997年9月13日にケルン・ボン空港を離陸し、燃料補給のためにディオリ・アマニ国際空港に着陸した。ディオリ・アマニ国際空港で燃料補給を行っている間に、乗員はウィンドフック・ホセア・クタコ国際空港まで35,000フィートの巡航高度を要求する飛行計画を提出した。協定世界時10時35分、074便はディオリ・アマニ国際空港を離陸し南へ飛行を開始し、ガボン共和国管制空域を飛行中に僅かな経路変更指示を受けた。074便はアフリカ大陸西部を通過し高度を変え、進路を南東に変更した。

アメリカ空軍4201便は協定世界時14時11分にウィンドフック・ホセア・クタコ国際空港を離陸し、提出された飛行計画によるとジョージタウン=ワイドアウェイク基地へ向かって巡航高度35,000フィートで北西方向に飛行していた。4201便離陸時の天候は良好で有視界気象状態であった[9]

航空管制

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1996年、国際航空パイロット協会 (IFAPA) は、安全性の懸念と不十分な航空交通管制のためアフリカの空域の75%を「重大な欠陥」と分類した。同年、南アフリカの航空会社のパイロットはアフリカ大陸上を飛行中に70回以上のニアミスを報告していた[10]

4201便は離陸後にナミビア航空管制の管轄下に置かれた。ナミビアの管制官は074便から飛行計画または出発信号を受信しておらず、074便が飛行情報区に進入してきたことを認識していなかった。最後に074便と交信したのはガーナ共和国アクラの管制官であった。また、アンゴラ共和国ルアンダの管制官はナミビアの管制官に連絡せず、国際民間航空機関規則で要求されている航空機の存在の通知を行わなかった。074便は管制官の知らないうちに高度を変更していた。航空管制官間の情報交換を促進するシステムである国際航空固定通信網は当時機能していなかった。ウィンドフックの航空管制センターは4201便から高周波無線を介して、最後の交信となる現在35,000フィートを飛行中であるとの交信を受けた[11]

空中衝突

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協定世界時15時10分、ナミビア沖より西へ65海里 (120km) 地点の大西洋上で074便と4201便が空中衝突した。074便は4201便の胴体下部に衝突し、爆発を引き起こした。この爆発はアメリカ合衆国の監視衛星が明るい閃光として観測している[12]。074便のコックピットボイスレコーダーの記録によると、少なくとも1人の乗員が4201便に気付き回避しようと試みていたことが分かった。また、4201便のコックピットボイスレコーダーには衝突後に乗員の1人が「酸素マスク、装着して、装着してください。懐中電灯を素早く装着してください。」(oxygen mask, get them on, get them on. Get the flashlights quick.) と言っているのが記録されていた[13]。また、付近を飛行していたフランス空軍の航空機がメーデーの遭難信号を1回受信したと報告している[14]。両機は大西洋に墜落し、両機の乗員乗客33人全員が死亡した。

捜索

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アセンション島の航空管制当局は4201便が到着予定時刻になっても現れなかったため、ナミビアの航空当局に連絡しようと50回試みた。翌14日の協定世界時10時55分にアセンション島航空管制当局はアメリカ空軍航空機動軍団に4201便が行方不明であることを連絡した。5分後の協定世界時11時丁度に4201便は行方不明と宣言された。アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、その他いくつかのアフリカ諸国による国際的な捜索活動が行われ、行方不明機の残骸を求めてナミビア沖の海を捜索し始めた。捜索活動中、おおよその墜落地点と推定された海域付近を飛行していたフランスの航空機が、航空機の緊急ビーコンの1つからかすかな信号を受信した[15]南アフリカ空軍は、ライフジャケットの緊急ビーコンから信号を受信したと述べ、生存者を見つける希望を高めた。また、074便が行方不明になった時刻と場所が4201便の行方不明になった時刻と場所とほぼ一致していたため、この2機が空中衝突したというシナリオが起きた可能性が一番高いとされた[16]。最初の残骸は、9月16日に捜索船によって発見された[17]。墜落から6日後の9月19日、当局は43歳のドイツ人客室乗務員サスキア・ノイマイヤーの遺体を発見したと発表した[18]

1997年12月までに、両機の残骸はほとんど発見されていなかった。12月13日、漁船が655mの深さから数着の衣類を発見した[19]。同月、4201便のピーター・ヴァレーホとジェイソン・ラムジーの遺体が他の身元不明の骨格遺体と共にダイバーにより発見された。2人の遺体は1998年4月2日にアーリントン国立墓地に埋葬された[20]

調査

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ドイツ空軍Tu-154Mの乗客への慰霊碑

1997年、アメリカ空軍は事故調査の長にウィリアム・H・C・シェル・ジュニア大佐を任命した。事故報告書では主に074便の乗員が非難された。074便の乗員は南東方向に向かう航空機は29,000、33,000、37,000または41,000フィートのいずれかの高度で飛行することを定めた半円形ルールに違反して35,000フィートで巡航していた。

更に事故報告書では、事故の原因としてアフリカの航空管制システムの体系的な問題を挙げ、074便の飛行計画が適切なチャンネルを通過できなかった欠陥のある通信機器と、ナミビア管制へ074便の通過報告を怠ったルアンダ管制の過失を非難した。もう1つの実質的な要因として挙げられたのは国際航空固定通信網の複雑で散発的な運用であった[21]

報告書では、4201便か074便のどちらか一方にでもTCASが装備されていたならば空中衝突を回避できた可能性が高いと述べられている[22]。報告書の発表の前日、第20代アメリカ合衆国国防長官ウィリアム・コーエンは、軍の航空機にTCASの設置を開始すると発表した[23][24]。また、ドイツ連邦国防省は自国の航空機にTCASを搭載するようにかなりの圧力をかけた[25]。このため、事故後に少数の航空機にTCASの搭載が始まっていった[26]

関連項目

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脚注

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  1. ^ U.s., German Planes Apparently Collide Off Africa”. tribunedigital-chicagotribune (1997年9月15日). 2018年1月24日閲覧。
  2. ^ Pilot error may have caused Namibia crash - December 12, 1997”. CNN (1997年12月12日). 2018年1月24日閲覧。
  3. ^ Patterson, Michael Robert (1999年4月18日). “Gregory M. Cindrich, Captain, United States Air Force”. Arlington National Cemetery Website Title Page. 2018年1月24日閲覧。
  4. ^ Cohen, Tom (1997年9月16日). “Search finds airplane seats, papers but no survivors”. southcoasttoday.com. 2018年1月24日閲覧。
  5. ^ Congressional Record. Government Printing Office. (June 2011). pp. 7288–. GGKEY:DTQT57BKN6P. https://books.google.com/books?id=RvxOxOio4eUC&pg=PA7288 
  6. ^ Brochure "Open Skies, German Observation System" of the Federal Armed Forces Verification Center, 52503 Geilenkirchen
  7. ^ Skeleton Coast crash `one in a million'”. The Independent (1997年9月16日). 2018年1月24日閲覧。
  8. ^ Online, Spiegel. “FLUGZEUGABSTURZ: Kein Geld für Sicherheit - DER SPIEGEL 39/1997” (ドイツ語). SPIEGEL ONLINE - Aktuelle Nachrichten. 2018年1月25日閲覧。
  9. ^ Accident C-141 65-9405 & Luftwaffe 74”. Code7700 (2017年10月18日). 2018年1月25日閲覧。
  10. ^ Dellios, Hugh (1997年11月30日). “Safety Flying Standby In Africa”. http://articles.chicagotribune.com/1997-11-30/news/9711300207_1_airline-pilots-associations-air-traffic-controllers-africa 2018年5月20日閲覧。 
  11. ^ Military-transport losses raise African mid-air collision fears”. flightglobal.com. 2018年1月24日閲覧。
  12. ^ View my Military Service on Togetherweserved.com”. TogetherWeServed (1997年10月13日). 2018年1月25日閲覧。
  13. ^ Patterson, Michael Robert (1999年4月18日). “Gregory M. Cindrich, Captain, United States Air Force”. Arlington National Cemetery Website Title Page. 2018年1月25日閲覧。
  14. ^ C-141 Lifetime Mishap Summary”. C141Heaven Home Page (1963年12月17日). 2018年1月25日閲覧。
  15. ^ All there is to know, and lots more, about the Lockheed C141 Starlifter!”. C141Heaven (1998年4月2日). 2017年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月25日閲覧。
  16. ^ U.S., German Planes Missing Off Africa; Collision Feared”. latimes (1997年9月15日). 2018年1月25日閲覧。
  17. ^ First wreckage of U.S. plane identified off Namibia - Sept. 16, 1997”. CNN (1997年9月16日). 2018年1月25日閲覧。
  18. ^ Body Found in Search for Downed U.S., German Planes”. latimes (1997年9月19日). 2018年1月25日閲覧。
  19. ^ Wreckage found off Namibian coast”. News24 (2000年12月13日). 2018年1月25日閲覧。
  20. ^ Patterson, Michael Robert (1998年4月6日). “C-141 Crew Laid To Rest In Arlington National Cemetery”. Arlington National Cemetery Website Title Page. 2018年1月25日閲覧。
  21. ^ Ranter, Harro (1997年9月13日). “ASN Aircraft accident Tupolev Tu-154M 11+02 Namibia”. Aviation Safety Network >. 2018年1月25日閲覧。
  22. ^ Colonel Bill Grimes, USAF Retired (2014). The History of Big Safari. Archway Publishing. pp. 208–. ISBN 978-1-4808-0456-2. https://books.google.com/books?id=ZVvKAgAAQBAJ&pg=PA208 
  23. ^ Hanley, Robert (1998年4月1日). “German Plane Found at Fault In Collision With Air Force Jet”. The New York Times. 2018年1月25日閲覧。
  24. ^ German airplane caused crash, U.S. Air Force says”. DeseretNews.com (1998年3月31日). 2018年1月25日閲覧。
  25. ^ Hans-Joachim Ebermann; Joachim Scheiderer (15 December 2012). Human Factors on the Flight Deck: Safe Piloting Behaviour in Practice. Springer Science & Business Media. pp. 16–. ISBN 978-3-642-31733-0. https://books.google.com/books?id=ORc4LHI6DKEC&pg=PA16 
  26. ^ Robert Hewson (2001). The Vital Guide to Military Aircraft. Airlife. ISBN 978-1-84037-065-2. https://books.google.com/books?id=uSa4TzdgkNQC