1979年の日本ハムファイターズ
1979年の日本ハムファイターズ(1979ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1979年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
1979年の日本ハムファイターズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ3位 年間3位:63勝60敗7分 勝率.512 後期4位:29勝34敗2分 勝率.460 前期3位:34勝26敗5分 勝率.567[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
後楽園球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 大社義規 |
経営母体 | 日本ハム |
監督 | 大沢啓二 |
« 1978 1980 » |
このシーズンの日本ハムファイターズは、大沢啓二監督の4年目のシーズンである。
概要
編集前年11年ぶりのAクラス入りを果たしたチームだが、この年は高代延博とサム・ユーイング以外目立った戦力補強はなく勝率5割入りを不安視された。しかし、前期は4月に首位の近鉄に食らいつくなど健闘して3位で終了した。後期はロッテに抜かれて4位で終了するが、終わってみれば2年連続のAクラスと1972年以来の勝率5割となった。チーム5割復帰の原動力となった投手陣は前年不振の高橋直樹が20勝をあげる活躍を見せ、ベテラン高橋一三をはじめ佐伯和司・間柴茂有・杉山知隆に加えてこの年先発入りした宇田東植が規定投球回に到達したほか、同じくベテランの村上雅則もリリーフで健闘し、防御率は近鉄と阪急に次ぐ3位につける。打撃陣では移籍2年目の柏原純一が前年に引き続いて4番を打ち、富田勝・島田誠の俊足コンビも健在だった。また古屋英夫が三塁のポジションを不動にしたほか、高代も遊撃手で堅実な守りを見せるなど若手が活躍し、185盗塁は1位だった。が、前年本塁打王のボビー・ミッチェルが成績を落としたほか、30本塁打以上を期待されたユーイングが15本塁打に終わるなど誤算が相次ぎ、近鉄と阪急のマッチレースに割って入れず、チームは両球団に大きく水をあけられた。
チーム成績
編集レギュラーシーズン
編集1 | 左 | 富田勝 |
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2 | 中 | 島田誠 |
3 | 一 | 柏原純一 |
4 | 右 | ユーイング |
5 | 指 | ミッチェル |
6 | 三 | 古屋英夫 |
7 | 捕 | 加藤俊夫 |
8 | 遊 | 高代延博 |
9 | 二 | 菅野光夫 |
投手 | 高橋直樹 |
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 近鉄バファローズ | 74 | 45 | 11 | .622 | 優勝 |
2位 | 阪急ブレーブス | 75 | 44 | 11 | .630 | -1.0 |
3位 | 日本ハムファイターズ | 63 | 60 | 7 | .512 | 13.0 |
4位 | ロッテオリオンズ | 55 | 63 | 12 | .466 | 18.5 |
5位 | 南海ホークス | 46 | 73 | 11 | .387 | 28.0 |
6位 | 西武ライオンズ | 45 | 73 | 12 | .381 | 28.5 |
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定 [1]
オールスターゲーム1979
編集→詳細は「1979年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
コーチ | 大沢啓二 | ||||
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ファン投票 | 高橋直樹 | 柏原純一 | 古屋英夫 | 高代延博 | 島田誠 |
監督推薦 | 選出なし |
できごと
編集選手・スタッフ
編集表彰選手
編集リーグ・リーダー[1] |
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受賞者なし |
ベストナイン | ||
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選出なし | ||
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
柏原純一 | 一塁手 | 2年連続2度目 |
高代延博 | 遊撃手 | 初受賞 |
ドラフト
編集→詳細は「1979年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
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1位 | 木田勇 | 投手 | 日本鋼管 | 入団 |
2位 | 高橋正巳 | 投手 | 仙台鉄道管理局 | 入団 |
3位 | 松本信二 | 投手 | 塩山商業高 | 入団 |
4位 | 長瀬正弘 | 投手 | 日体荏原高 | 入団 |