鷹司兼忠
鎌倉時代中期から後期の公卿。従一位関白左大臣。勅撰集『玉葉和歌集』に1首入集。鷹司家3代
鷹司 兼忠(たかつかさ かねただ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。鷹司家3代当主。
『天子摂関御影』鷹司兼忠(歓喜苑摂政) | |
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
生誕 | 弘長2年(1262年) |
死没 | 正安3年8月25日(1301年9月27日) |
別名 | 歓喜苑摂政 |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 |
亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇 胤仁親王(東宮傅) |
氏族 | 藤原北家鷹司家 |
父母 |
父:鷹司兼平、母:平親継の娘 養父:鷹司基忠 |
兄弟 | 基忠、兼忠、朝子、静誉、慈基 |
妻 | 近衛基平の娘 |
子 |
冬経、兼冬、基教、兼源、兼覚 養子:冬平 |
官職歴
編集- 文永8年2月17日(1271年3月29日) - 文永8年7月2日(1271年8月8日) 右近衛少将
- 文永8年7月2日(1271年8月8日) - 建治元年12月22日(1276年1月9日) 右近衛中将
- 文永9年7月11日(1272年8月6日) - ? 近江権守
- 文永10年5月3日(1273年5月20日) - 建治元年12月22日(1276年1月9日) 権中納言
- 建治元年12月22日(1276年1月9日) - 正応元年10月27日(1288年11月22日) 権大納言
- 弘安2年正月10日(1279年2月22日) - 正応元年11月8日(1288年12月2日) 左近衛大将
- 正応元年10月27日(1288年11月22日) - 正応2年10月18日(1289年11月2日) 内大臣
- 正応2年4月25日(1289年5月16日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日) 東宮傅(胤仁親王)
- 正応2年10月18日(1289年11月2日) - 正応4年12月25日(1292年1月16日) 右大臣
- 正応4年12月25日(1292年1月16日) - 永仁4年12月25日(1297年1月19日) 左大臣
- 永仁4年7月24日(1296年8月24日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日) 関白(伏見天皇)
- 永仁6年7月22日(1289年8月30日) - 永仁6年12月20日(1299年1月23日) 摂政(後伏見天皇)
位階歴
編集系譜
編集参考文献
編集- 『公卿補任』
公職 | ||
---|---|---|
先代 近衛家基 |
関白・摂政 1296 - 1299 |
次代 二条兼基 |
先代 九条忠教 |
左大臣 1292 - 1297 |
次代 二条兼基 |
先代 近衛家基 |
右大臣 1289 - 1292 |
次代 二条兼基 |
先代 久我通基 |
内大臣 1288 - 1289 |
次代 西園寺実兼 |
軍職 | ||
先代 近衛家基 |
左近衛大将 1279 - 1288 |
次代 大炊御門信嗣 |