鳥海 (重巡洋艦)

大日本海軍の重巡洋艦

鳥海(ちょうかい/てうかい)は、大日本帝国海軍重巡洋艦[3][4]高雄型重巡洋艦の4番艦[5][6][7]。 艦名は秋田山形県境の鳥海山に由来する[8][9]艦内神社鳥海山大物忌神社より分祀された[10]。 この名を持つ日本海軍の艦船としては摩耶型砲艦鳥海に続いて2隻目[9][11]。なお、艦名は海上自衛隊こんごう型護衛艦の4番艦「ちょうかい」に受け継がれている。

鳥海
鳥海
鳥海
基本情報
建造所 三菱造船長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 重巡洋艦
級名 高雄型重巡洋艦
艦歴
発注 1927年
起工 1928年3月26日
進水 1931年4月5日
就役 1932年6月30日
最期 1944年10月25日沈没
除籍 1944年12月20日
要目(計画)
基準排水量 9,850英トン
公試排水量 12,986トン
全長 203.76 m
最大幅 18.999 m
吃水 6.11 m
主缶 ロ号艦本式缶12基
主機 艦本式タービン4基4軸
出力 130,000馬力
速力 35.5ノット
燃料 重油:2,645トン
航続距離 14ノットで8,000海里
乗員 竣工時定員760名[1]
兵装 竣工時
50口径三年式II号20.3cm連装砲5基10門
45口径十年式12cm単装高角砲4門
八九式61cm連装魚雷発射管4基8門
毘式40mm単装機銃2基
1944年[2]
50口径三年式II号20.3cm連装砲5基10門
45口径十年式12cm単装高角砲4門
八九式61cm連装魚雷発射管4基8門
25mm連装機銃8基
25mm単装機銃22挺
九三式13mm連装機銃2挺
装甲 舷側:127mm
水平:34-46mm
砲塔:25mm
搭載機 水上偵察機3機(呉式二号三型射出機2基)
レーダー 1944年[2]
二号一型1基
二号二型2基
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高雄型2隻(3番艦摩耶、4番艦鳥海)は、書類上日本で竣工した最後の重巡洋艦(一等巡洋艦)(最上型利根型は軽巡洋艦(二等巡洋艦)として計画され喪失まで書類上の変更はなかった)であった。

艦歴

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太平洋戦争以前

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一等巡洋艦鳥海は1928年(昭和3年)3月26日三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工[12][11]。 同年4月13日附で「鳥海」と命名された[3]。同日附で妙高型一等巡洋艦に類別される[13]。 同年11月7日、日本海軍は妙高型と高雄型を分割、鳥海は高雄型一等巡洋艦の4番艦に類別された[5]

 
「鳥海」の艦橋。

1931年(昭和6年)4月5日に進水[12]1932年(昭和7年)6月30日に艤装員長細萱戊子郎大佐の指揮下就役する[12]。姉妹艦の摩耶と同日附の竣工であった[14]。竣工後の鳥海は艦隊の旗艦を度々務めたが、これは客船建造の経験豊富な三菱が造船を担当したことから同型艦と比べて艦内艤装が良かったためといわれている[15]。同年12月1日には高雄型4隻で第四戦隊を編成した。

1933年(昭和8年)には第二艦隊旗艦となり、同年夏の特別大演習に際しては青軍の前衛部隊旗艦を務めたが、演習中に短波通信が一時不能となったことから海軍の通信関係者の間では「鳥海事件」とも称される問題になった[16][17]。演習後は横浜沖で開かれた観艦式で御召艦比叡の供奉艦(先導艦《鳥海》、供奉艦《愛宕、足柄》)となった。同年末には無線設備を一部改装、翌1934年(昭和9年)以降も第二艦隊旗艦を務める。一方、九一式高射装置の設置や機関部の小改装を実施した。

1936年(昭和11年)10月に神戸沖で開かれた大演習観艦式では、再び御召艦比叡の供奉艦(先導艦《鳥海》、供奉艦《愛宕、足柄》)となった[18]。観艦式後、鳥海は横須賀に戻る戦艦比叡と供奉艦2隻(時雨白露)を見送った。その後、改善工事に入り前部マストの短縮や後部マストのデリック換装、毘式40mm単装機銃の撤去と九三式13mm四連装機銃の設置といった改装が施された[19]

1937年(昭和12年)7月、改善工事を終えたが前後して日中戦争が勃発したことから第四戦隊は旅順を拠点にして黄海沿岸での作戦支援に当たった[20]1938年(昭和13年)春に高雄愛宕が改装工事に入って戦列を離れた後も摩耶と第四戦隊を組んで日本本土近海で訓練を行う。その一方、第二艦隊旗艦として中国沿岸に進出、同年10月には連合艦隊主力による示威行動の一環として廈門に寄港している。

1939年(昭和14年)も前年同様、摩耶と訓練や大陸方面での作戦に当たっていたが11月に竣工直後から所属していた第四戦隊を離れ、以後は1940年(昭和15年)10月まで第二遣支艦隊旗艦となった[21]

太平洋戦争緒戦

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日本本土に戻り第四戦隊に復帰した鳥海は、1941年(昭和16年)に後述する改装工事を受ける予定だったが、対外情勢の緊迫等により舷外電路設置ほか出師準備工事を行うのみとなった。

太平洋戦争開戦時の戦時編制では、「鳥海」は第二艦隊第四戦隊に所属していた[22]

1941年10月18日に南遣艦隊司令長官に新補された小沢治三郎中将(軍隊区分馬来部隊の指揮官となる)は[23]、10月24日にサイゴンに停泊する香椎に到着した[24]。南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)は、「小沢中将は『香椎』か陸上基地(サイゴン)で指揮すれば良い」という方針だったが、小沢中将は指揮旗艦として重巡洋艦の派遣を要請した[24]

「鳥海」が旗艦として馬来部隊に編入されて呉から三亞へ向かい、11月27日に小沢中将は旗艦を練習巡洋艦「香椎」から「鳥海」へ変更した[25]

12月4日、マレー半島上陸船団と護衛部隊(第七戦隊第三水雷戦隊の軽巡洋艦「川内」など)が三亞から出撃し、それに続いて小沢中将直率の馬来部隊主隊(「鳥海」、駆逐艦1隻)も出撃した[26]。12月8日、シンゴラコタバルなどへの上陸が行われた。主隊はコタバル沖、次いでカモー岬南方で行動し、作戦の支援にあたった[27]

12月8日に戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を中心とするイギリス艦隊がシンガポールから出撃し、12月9日に潜水艦「伊号第百六十五潜水艦」がこれを発見した[28]。小沢中将は周辺の水上部隊を集結させてイギリス艦隊に夜戦を挑もうとした[29]。しかし、南方部隊指揮官近藤信竹中将は翌朝の決戦を企図して馬来部隊に敵の誘致を命じた[30]。9日夜、索敵に出ていた陸攻3機は敵発見を報告したが、同じ頃「鳥海」は接近してきた友軍機と思われるものから吊光弾を投下された[31]。敵と誤認されていると思われたことから「鳥海」は「我レ鳥海」と発光信号を送るも通じず、航空部隊司令部へ「吊光弾下ニ在ルハ鳥海ナリ」と打電[32]。そこから索敵機に味方上空であることが伝えられ、ようやく解決した[32]。このような状況下では敵の誘致は困難と判断し、小沢中将は南方部隊本体と合流[33]。結局、敵の反転により水上部隊による攻撃は断念された[34]。のちの調査で、両軍艦隊は一時「プリンス・オブ・ウェールズ」の主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている[35][36]。「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は12月10日のマレー沖海戦で基地航空隊の攻撃により撃沈された。

1942年(昭和17年)1月、2月、オランダ領東インドボルネオ島の攻略作戦に参加。2月15日、鳥海偵察機と龍驤偵察機はガスパル海峡を北上する戦艦1隻を含む巡洋艦3隻・駆逐艦8隻のABDA連合艦隊(司令官カレル・ドールマン少将:重巡エクセター、軽巡4隻、駆逐艦8隻)が北上中と報告[37]。小沢中将は基地航空隊と龍驤の艦載機で損害をあたえ、その後に決戦を挑む意志であった。第四航空戦隊司令官角田覚治少将(旗艦龍驤)は龍驤航空隊(九七式艦上攻撃機)による反復攻撃を実施。未帰還機はなかったが、大きな戦果もなかった[37]。基地航空隊の陸攻部隊も航空攻撃を行うが、同様に効果はなかった[37]。だがほぼ無傷の連合国軍艦隊も反転し、ジャワ海へ逃走した[37]。小沢中将は「まさか一回の空襲で算を乱して逃げるとは予想しなかった」と回想している[37]

2月17日、駆逐艦綾波(第19駆逐隊)が海図未記載の暗礁によって損傷する[38]。小沢中将は同艦の蘭印作戦参加は不可能と判断、綾波を鳥海の護衛艦として残し、軽巡由良、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)、第12駆逐隊(白雲)、磯波(27日附編入)を蘭印部隊(第三艦隊 指揮官高橋伊望中将:旗艦足柄)に編入した[38]。2月22日、セント・ジャックス岬付近で暗礁に触れ損傷。27日、修理のためシンガポールに到着した。修理後はスマトラ島イリ、アンダマン諸島上陸を支援する。その後、ビルママーグイに寄港した。

ジャワ島・スマトラ島・インドネシア方面各島の攻略成功後、馬来部隊指揮官小沢中将は各方面の作戦完了までに日程的余裕があることから、臨時部隊(鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四航空戦隊)を編制し、ベンガル湾で独自の作戦を行う方針を示した[39]。また南雲忠一中将ひきいる南雲機動部隊のセイロン島方面機動作戦実施を知り、山本連合艦隊司令長官や南方部隊指揮官/第二艦隊司令長官近藤信竹中将の許可をとり、馬来部隊の行動と南雲機動部隊の作戦を呼応することにした[39]。馬来部隊は5分割され、中央隊(指揮官小沢中将:鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)、北方隊(栗田少将:熊野、鈴谷、白雲)、南方隊(三隈艦長:三隈、最上、天霧)、補給隊(綾波駆逐艦長:綾波、汐風、日栄丸)、警戒隊(三水戦司令官:川内、第11駆逐隊)という編制になる[40]。4月1日、鳥海を含む馬来部隊機動部隊はミャンマーのメルギーから出撃[41]。龍驤を基幹として通商破壊作戦を決行し、中央隊は輸送船8隻撃沈・8隻大破(のち1隻は北方隊が撃沈)・地上施設襲撃(油槽2個爆破、倉庫二棟爆破)、北方隊8隻撃沈、南方隊5隻撃沈、合計21隻(約137,000トン)撃沈・8隻(約47,000トン)大破という大戦果をおさめた[41]。「鳥海」は4月6日に米船Bienvilleと英船Gangesを沈めた。

4月上旬までに、日本軍は当初の攻略目標をすべて占領。4月10日附連合艦隊第二段階作戦第一期兵力部署発動により、それまで南遣艦隊(第一南遣艦隊)に編入されていた他部隊・艦艇は新たな部隊や任地に転じていった[42]。鳥海・由良・龍驤・第三水雷戦隊・第七戦隊はそれぞれ内地へ帰投[42]。4月12日、第一南遣艦隊旗艦(南西方面艦隊所属)は「鳥海」から「香椎」に移った[42]。4月22日、横須賀に帰投し、5月には機銃の追加[43]を行った。6月1日時点で、第四戦隊は第1小隊(愛宕、鳥海)、第2小隊(摩耶、高雄)という編制だった[44]。第2小隊(摩耶、高雄)は空母2隻(龍驤、隼鷹)と共にアリューシャン方面作戦に参加しており、ミッドウェー作戦には加わっていない。

一方の鳥海は5月29日から6月14日までミッドウェー作戦に攻略部隊本隊(指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)として参加した。第四戦隊(愛宕、鳥海)、第五戦隊(妙高羽黒)、第三戦隊(比叡、金剛)、第四水雷戦隊(軽巡由良 第2駆逐隊《村雨五月雨春雨夕立》、第9駆逐隊《朝雲夏雲峯雲》)、空母瑞鳳、駆逐艦三日月、油槽船4隻(健洋丸、玄洋丸、佐多鶴見)という戦力であった[45]。本海戦で空襲を受けた支援隊(三隈、最上、朝潮荒潮)以外の攻略部隊各艦がアメリカ軍と本格的に交戦する事はなかった。

ガダルカナル島の戦い

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7月14日、「鳥海」や第十八戦隊第七潜水戦隊などからなる第八艦隊(司令長官三川軍一中将)が新編された[46]。連合艦隊の兵力部署では第八艦隊は第六戦隊と共に外南洋部隊となった[47]。7月16日に三川中将が将旗を掲げた「鳥海」は、7月19日または20日に第九駆逐隊(「朝雲」、「夏雲」)とともに柱島を発し、トラック経由でラバウルへ向かった[48]。途中で直衛は第十六駆逐隊第一小隊(「雪風」、「時津風」)に代わり、7月30日にラバウルに到着[49]。第八艦隊司令部は陸上へと移った[50]。「鳥海」は空襲回避と訓練をかねてニューアイルランド島北端カビエン港へ回航された[51]

8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島フロリダ諸島に来襲、ガダルカナル島の戦いが始まった。第六戦隊司令官五藤存知少将は重巡3隻(青葉、加古、鳥海)を率いてアドミラルティ諸島へ移動する予定だったが[52]、独断でラバウルへ回航(さらに第八艦隊より回航命令、駆逐艦夕凪が急派)、ラバウルへ移動した[53][54][55]。六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)は当初よりラバウルへ向かっており、天龍・夕張・夕凪はラバウル在泊、龍田・夕月・卯月はブナへ移動中である[52]。 ラバウル港にて第八艦隊司令長官三川中将は鳥海に座乗し、第六戦隊(司令官五藤存知少将:第1小隊《青葉加古》、第2小隊《衣笠古鷹》)、軽巡2隻(天龍夕張)、神風型駆逐艦9番艦夕凪、計8隻(重巡5、軽巡2、駆逐艦1)を率いてガダルカナル島へ向け出撃する[56]。天龍・夕張・夕凪の参加は、第十八戦隊(司令官松山光治少将)の談判によるものと伝えられている[57][56]。この8隻は、合同訓練はおろか回転整合(艦隊が編隊航行をおこなう際、各艦のスクリュー回転数を調整して速力を統一する作業)すらおこなっていない、文字通りの『烏合の衆』だった[56]。このことが第八艦隊司令部の作戦指導に影響を与えた。 また本海戦に参加した各艦には海軍報道班員(朝日新聞社読売新聞社などの記者・カメラマン)が分乗しており[58]、鳥海便乗の丹羽文雄記者はのちに『海戦記』という体験小説を発表した[59]

8月8日昼間、第十一航空艦隊の陸攻隊がアメリカ軍輸送船団を攻撃したが、零戦1・一式陸上攻撃機18を喪失、駆逐艦1隻中破・輸送船1隻大破に対し過大戦果(巡洋艦1隻、駆逐艦1隻、輸送船9隻撃沈。巡洋艦3隻、輸送船2隻大破)を報じた[60]。鳥海が受信した戦果は「戦艦1、巡洋艦4、駆逐艦2-4、輸送船6撃沈」であったという[61]。同日夜〜8月9日、鳥海以下各艦は第一次ソロモン海戦に参加。共同で重巡洋艦4隻(キャンベラヴィンセンスクインシーアストリア)を撃沈し、重巡シカゴと駆逐艦ラルフ・タルボット、パターソンを撃破した[62]。だが鳥海もクインシー、アストリアの砲撃により艦橋後部や第一砲塔等に被弾し[63]、20cm砲弾6発、高角砲弾4発が命中するも、貫通弾ばかりで爆発したものはなかった[62]。鳥海では戦死34名、戦傷32名を出した(戦死35、戦傷51とも)[64][65]

本海戦が一段落した際、鳥海艦長の早川幹夫大佐は第八艦隊司令部に対し「引き揚げるのですか」と質問した[66]。第八艦隊司令部はアメリカ軍機動部隊(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)に襲撃されることを警戒して離脱を決定[67][68]。仮に輸送船団を攻撃した場合、第八艦隊は米空母3隻に捕捉され大打撃を受けたとみられる[69]。8月10日、カビエンに帰投中の第六戦隊はアメリカ潜水艦S-44の雷撃により加古を喪失した[70]。加古生存者のうち砲術科乗組員の一部は補充要員としてしばらく鳥海で勤務した[71]。 第一次ソロモン海戦における鳥海の戦訓は『断じて行へば鬼神も避く』と[72]、アメリカ軍輸送船団を攻撃しなかった事への憂慮だった[73][68]

一方のアメリカ軍は兵員の揚陸こそ終えたものの、物資の半分程を積み残したまま退避[74][62]。ガダルカナル島とツラギ島に残されたアメリカ海兵隊1万6000名は食糧不足に陥りつつ、鹵獲した日本軍の器材で小型滑走路を整備した[75]。8月15日、輸送用駆逐艦4隻が航空用燃料・爆弾・基地航空隊員を輸送し、21日に護衛空母ロング・アイランドが急降下爆撃機12・戦闘機19をヘンダーソン基地に送り届ける[75]。着々と準備を整えるアメリカ軍に対し、日本軍はガ島のアメリカ兵を2000名と推定しており、さらに東部ニューギニア攻略作戦(ラビの戦い)に多数の輸送船と護衛艦艇を投入していたので、ガダルカナル島方面は小休止状態であった[75]。またガ島のアメリカ軍を攻撃しようにも、陸軍第十七軍兵力はニューギニア作戦に投入予定なので転用できず、ミッドウェー作戦のため編制されていた一木清直大佐率いる陸兵3000名を投入することにした[76]

日本軍はガダルカナル島奪還のため、まず陽炎型駆逐艦6隻(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐:萩風浦風谷風浜風陽炎)が第一次増援部隊/一木支隊約900名を輸送、8月17日に揚陸した(一木清直大佐指揮下の同部隊は20-21日イル川渡河戦で全滅)[77][78]。並行して第二次増援部隊の輸送船3隻(陸兵1300名)を同島へ向かわせ、護衛を第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦「神通」)が担当していた[79]。 作戦支援のため鳥海(外南洋部隊指揮官三川中将)は陽炎型駆逐艦12番艦磯風(第17駆逐隊)を率いてラバウルを出港する[80][81]。21日、2隻(鳥海、磯風)は第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠)と一時合流[82]。23日夕刻、3隻(鳥海、衣笠、磯風)はショートランド泊地に到着、燃料補給後の重巡2隻(鳥海、衣笠)は駆逐艦夕凪を率いて出港、磯風は飛行場砲撃のために残置された[83][84]。 8月24日、第二次ソロモン海戦により空母龍驤が撃沈され、アメリカ軍機動部隊とヘンダーソン飛行場は依然健在だった[78]。24-25日、重巡4隻(鳥海、青葉、古鷹、衣笠)は搭載水上偵察機(鳥海3機のうち1機は軽巡由良所属機)を発進させ、ガダルカナル島夜間爆撃に向かわせる[85][86]。だが効果はなかった。 8月25日、ヘンダーソン基地から発進した急降下爆撃機SBDドーントレスエスピリトゥサント島基地から飛来したB-17重爆の昼間空襲により軽巡神通が中破、2隻(駆逐艦睦月、輸送船金龍丸)が沈没した[78][87]。ガ島近海で行動中の駆逐艦「卯月」も損傷[88]。空母1隻・駆逐艦1隻・輸送船1隻を喪失した上に輸送船団も目的地にたどり着けず撃退され、第二次ソロモン海戦は日本軍の敗北で終わった[78]。26日午後3時、2隻(鳥海、衣笠)はラバウルに到着した[89]。日本軍は制空権確保の重要性を痛感する事になった[90][91]

このようにガダルカナル島を巡る戦いでは、アメリカ軍が確保する同島ヘンダーソン飛行場が重要な役割を果たした。10月上旬、日本海軍は飛行場の機能を停止させるため、ラバウル航空隊の空襲と並行して戦艦・重巡洋艦による対地砲撃を計画(ヘンダーソン基地艦砲射撃[92]。 まず第一次挺身攻撃隊(指揮官五藤少将:青葉、古鷹、衣笠、吹雪、初雪)を投入するが、ノーマン・スコット少将指揮下のアメリカ軍巡洋艦部隊に迎撃され五藤少将は戦死、旗艦青葉が大破、2隻(重巡古鷹、駆逐艦吹雪)が沈没して撃退された(10月11日夜サボ島沖海戦[93]。 次に第二次挺身攻撃隊(指揮官栗田健男少将:戦艦金剛榛名第二水雷戦隊各艦)が10月13日夜半に飛行場砲撃を実施した[94]。その頃、第八艦隊長官三川中将は鳥海とサボ島沖海戦から生還した重巡衣笠、駆逐艦2隻(天霧望月)を率いてショートランド泊地から出撃[95]。輸送船団を護衛しつつガダルカナル島へ接近した[96]。14日深夜、鳥海・衣笠は飛行場に対し20cm砲弾752発を発射した[97]。しかし第四水雷戦隊(旗艦秋月)が護衛していた輸送船団6隻は空襲により3隻を喪失した[98]。 15日夜にも重巡2隻(妙高摩耶)及び二水戦駆逐艦により飛行場砲撃が行われた。だが、これらの艦砲射撃によってもヘンダーソン飛行場の機能を奪うことは出来ず、連合艦隊は再び戦艦による艦砲射撃と大規模輸送船団による兵力増強を計画する[99]

 
昭和17年(1942年)11月20日または翌日、トラック諸島に停泊する鳥海。

11月中旬の第三次ソロモン海戦における鳥海は、空襲により若干の損害を受けた。経過は以下のとおりである。 11月11日-12日の第三次ソロモン海戦第一夜戦で日本軍挺身艦隊(飛行場砲撃任務)は駆逐艦2隻(夕立)を喪失し、12日昼間の空襲で戦艦比叡が沈没、駆逐艦雪風等が損傷した。戦艦霧島によるヘンダーソン飛行場砲撃も実施できなかった。11月13日夜、ガダルカナル島に西村部隊(指揮官第七戦隊司令官西村祥治少将:巡洋艦3隻《鈴谷摩耶天龍》、駆逐艦4隻《夕雲巻雲風雲朝潮》)が突入し、重巡2隻によるヘンダーソン飛行場砲撃を実施。 11月14日昼間、第八艦隊(鳥海、衣笠、五十鈴)は西村部隊と合流して退避中、ニュージョージア諸島南方でSBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃を受ける[100]。この攻撃隊は空母エンタープライズとヘンダーソン基地航空隊の両方からやってきた[101]。鳥海は艦首至近距離と艦橋右舷への至近弾により、若干の損傷を受けた[102]。僚艦からは衣笠沈没、摩耶五十鈴中破の被害を出した[103]。 日本軍のガダルカナル島からの撤退後、鳥海は第八艦隊の旗艦任務を解かれた。

昭和十八年以降の戦い

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1943年(昭和18年)2月15日、鳥海は空母2隻(隼鷹冲鷹)、戦艦2隻(金剛、榛名)、水上機母艦日進、重巡利根、駆逐艦部隊(時雨大波黒潮陽炎)と共にトラック泊地を出港するが、悪天候のため航空隊を収容できなかった3隻(隼鷹、陽炎、黒潮)はトラックへ引き返した[104]。2月20日、鳥海は横須賀へ帰還した。

「鳥海」と駆逐艦「」、「」、「黒潮」、「親潮」は陸軍第十四飛行団第六十八戦隊を輸送する空母「大鷹」、「冲鷹」を護衛して4月4日に横須賀を出発し、トラックへ向かった[105]。 4月8日夜、待ち伏せていたアメリカ潜水艦「タニー」が「大鷹」と「冲鷹」に対し計10本の魚雷を発射するが、すべて早爆だったため両艦の被害は僅少だった[106]。タニーは日本空母3隻と報告しており、「鳥海」を空母と間違えている[106]

4月13日に「鳥海」はトラックからラバウルへ向かい、その際、呉鎮守府第七特別陸戦隊を運んでいる[107]

5月17日、鳥海は前進部隊に編入された[108]。 6月30日、連合軍はカートホイール作戦を発動してレンドバ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まった[109]。当時の南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)は、ラバウルに第十一航空艦隊と第八艦隊が司令部を置いており、同港に秋月型駆逐艦5番艦新月ほか秋風夕張望月皐月夕凪が所在、トラック泊地に鳥海雪風涼風江風谷風浜風、ブカに天霧初雪、ブインに長月水無月三日月が分散配備という状況である[110][111]。同日附で各艦(鳥海、谷風、雪風、涼風、江風《機関故障でトラック帰投》)はラバウル進出を下令され、同地到着以後は南東方面艦隊の指揮下に入るよう指示された[112][113]

7月5日深夜、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将(旗艦新月)が指揮する支援隊(新月、涼風、谷風)・第一次輸送隊(望月三日月浜風)・第二次輸送隊(天霧初雪長月皐月)はコロンバンガラ島輸送作戦中に米軍巡洋艦3隻・駆逐艦4隻と交戦、新月・長月と米軽巡ヘレナが沈没し、新月沈没時に秋山司令官以下第三水雷戦隊司令部は全滅した(クラ湾夜戦[110]。そこで新司令官着任までの数日間、鳥海艦長の有賀幸作大佐(後日、戦艦大和沈没時艦長)が増援部隊の臨時指揮官となった[114]

7月7日、南東方面部隊は兵力増強を要請し、連合艦隊は第二水雷戦隊に所属する2隻(軽巡神通、駆逐艦清波)を南東方面部隊に編入する(11日ラバウル着)[115]。つづいて第七戦隊の重巡2隻(鈴谷、熊野)に出撃準備を命じた[115]。 7月9日17時、外南洋部隊指揮官鮫島中将は主隊(重巡鳥海、軽巡川内)、警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)を率いてブインを出撃、コロンバンガラ島へ進出するが米艦隊は出現せず、陸兵1200名と軍需物資の輸送作戦は成功した[114]。 7月10日、秋山少将の後任として伊集院松治大佐(前職金剛艦長)が第三水雷戦隊司令官として着任し、7月11日には第七戦隊(熊野、鈴谷)もラバウルへ到着する[116]。新司令部の準備がととのうまでの間、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が増援部隊指揮官となった[115]。 7月12日、伊崎少将率いる増援部隊(旗艦神通)は再びコロンバンガラ島への輸送任務に従事するが、アメリカ軍巡洋艦3・駆逐艦10隻と遭遇(コロンバンガラ島沖海戦[114]。アメリカ側は巡洋艦3隻が大破し駆逐艦1隻が沈没、日本側は神通が沈没して伊崎二水戦司令官以下第二水雷戦隊司令部は全滅した[115]

日本軍は大きな損害を受けたが、それ以上にアメリカ軍に大打撃を与えたと判断し、再び敵水上艦艇の撃滅と輸送作戦の実施を企図した[117]。7月17日の第七戦隊出撃は、ブイン大規模空襲により初雪沈没、皐月・水無月・望月(18日被害)損傷のため中止となった[117]7月18日22時、第七戦隊司令官西村祥治少将率いる夜戦部隊の重巡洋艦3隻(熊野《旗艦》、鈴谷、鳥海)、軽巡川内、駆逐艦4隻(雪風、浜風、清波、夕暮)はラバウルを出撃、19日17時20分には輸送隊(三日月、水無月、松風)と合同、21時に分離した[116]。だが西村部隊の行動はPBYカタリナ飛行艇によって捉えられていた[118]。このカタリナは「ブラック・キャット」と呼ばれる夜間哨戒機であり、レーダーで西村部隊を捕捉するとガダルカナル島へ通報する[119]。そのころ輸送隊は揚陸に成功したものの西村部隊は敵艦艇を認めず、クラ湾北方で23時に反転する[117]。月齢は15.5であった[116]。日付変更後の夜間空襲により3隻(熊野、水無月、松風)が損傷した[116]。また夕暮が沈没し、救援にむかった清波も撃沈されたため2隻のほぼ全乗組員が戦死した[116]。鳥海も雷撃されるが被害はなかった[120]

8月5日、ラバウル停泊中の鳥海は外南洋部隊主隊から支援隊に編入された[121][122]。10日にラバウルを出発し[123]、トラック泊地へ回航。12日、2隻(熊野、鳥海)は空母雲鷹と駆逐艦2隻(野分白露)と共に内地へむかった[124]。横須賀着後、21日附で外南洋部隊支援部隊から除かれた[125]。それにともない第八艦隊から第二艦隊・第四戦隊に転出。9月には機銃、電探の増備を行い南方へ進出した。

1943年(昭和18年)11月上旬、鳥海は『ろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)』に呼応してブーゲンビル島上陸作戦を支援するため、第二艦隊司令長官栗田健男中将が指揮する第二艦隊・重巡洋艦愛宕《旗艦》、高雄摩耶鈴谷最上筑摩阿賀野型軽巡洋艦2番艦能代、駆逐艦4隻(玉波、涼波、藤波、早波)からなる艦隊と共にラバウルへ進出する事になった[126]。 11月3日トラック泊地を出撃、するとカビエン北方80浬で日章丸が空襲により航行不能となり、2隻(鳥海、涼波)は同船救援のため栗田艦隊から分離した[127]。だが11月5日、第二艦隊は進出先のラバウルでアメリカ軍機動部隊(空母サラトガプリンストン基幹)による大規模空襲に遭遇する[128]。愛宕・高雄・摩耶・最上・筑摩・能代・阿賀野・藤波・若月が大小の損害を受け、特に摩耶の被害は大きかった[128]。南東方面艦隊は重巡部隊のトラック帰投を命じ、2隻(鳥海、涼波)は11月7日朝にトラック泊地へ戻った[129]

1944年(昭和19年)1月20日早朝、給糧艦伊良湖は駆逐艦皐月と共に内地へ向けトラック泊地を出発するが、アメリカ潜水艦シードラゴンの雷撃で伊良湖が被雷した[130]。このため鳥海はトラック泊地北方の遭難現場へ急行、駆逐艦涼風と共に伊良湖を救援して21日トラック泊地へ戻った[131]。 6月、鳥海はマリアナ沖海戦に参加。10月にはレイテ沖海戦に参加した。

沈没

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第四戦隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将直率)の各艦は10月23日にアメリカ潜水艦2隻(ダーターデイス)に襲撃され、高雄型2隻(愛宕、摩耶)が沈没し、高雄が大破した[132]。この時、鳥海は高雄型の中で唯一被害を受けなかった。鳥海は第五戦隊(司令官橋本信太郎少将:妙高羽黒)の指揮下に入り[133]、高雄は駆逐艦2隻(長波朝霜)に護衛されて戦場を去った[134]。 10月24日、栗田艦隊は航空機部隊の攻撃を受けるも鳥海に損害はなかったが、妙高が被雷して脱落した[135]。第五戦隊は旗艦を羽黒に変更し、鳥海と共に進撃した[136]。他に戦艦武蔵が沈没し、駆逐艦2隻(浜風、清霜)が救援のため分離した。翌10月25日のサマール沖海戦で栗田艦隊はアメリカ艦隊と交戦し、鳥海はアメリカ護衛空母を攻撃中、右舷船体中央部に被弾した。甲板に装備した魚雷が誘爆し、舵故障状態となって[137]、戦列を離脱したとされる。

この被弾については護衛空母ホワイト・プレインズによるものだと思われる説がある[138]。また異論として、戦史研究家の石丸法明(当時羽黒の乗組員)が、鳥海の被弾を羽黒の艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から『金剛による誤射だった』という説を提唱している。羽黒戦闘詳報では、8時51分に『鳥海敵主力ノ集中射撃ヲ受ケ右舷中部ニ被弾』と記録[139]、また金剛はこの時護衛空母ガンビア・ベイを重巡部隊と共に攻撃中であり、8時50分に「空母一隻大火災大爆発」を報じ、射撃を中止している[140]。金剛見張員はすぐに鳥海を誤射したことに気付いて艦橋に報告し、金剛艦長島崎利雄大佐は同艦を追撃戦から脱落させたという。金剛が鳥海を誤射したことについて、羽黒では艦長・副長から厳しい箝口令が敷かれたという。石丸は誤射の原因は橋本司令官の命令を待たずに突撃した鳥海の側にあったとしている[141]

その後、鳥海は米軍艦載機部隊の攻撃を受けた[142]。鳥海は機関室前方に500ポンド爆弾を被弾、激しい火災を生じ大破し、速力低下を来す[143][144]。そこで夕雲型駆逐艦11番艦藤波(第32駆逐隊)が救助を命じられた[145]。 鳥海附近ではカサブランカ級航空母艦19番艦ガンビア・ベイが北緯11度31分 東経126度12分 / 北緯11.517度 東経126.200度 / 11.517; 126.200地点で沈没しており[146]、海上のガンビア・ベイ生存者達は空襲を受ける巡洋艦(鳥海)と警戒駆逐艦(藤波)を目撃している[147]。日没後、藤波は鳥海乗組員を収容後、鳥海を雷撃処分する[148]。ガンビア・ベイの生存者達は鳥海の水中爆発と、戦場を離脱する藤波を目撃した[149]。 ガンビア・ベイの生存者の一人が「関東海軍一生会」あてに送った手紙の一部によると、藤波乗組員たちは周囲に漂流していたガンビア・ベイ生存者たちに気づくと一斉に敬礼をし立ち去ったという[150]。10月25日夜、第31駆逐隊沖波はサマール島沿岸を航行する2隻の艦を認めたが、鳥海・藤波かは不明としている[151]10月26日昼過ぎ、セミララ島に座礁した夕雲型17番艦早霜(第2駆逐隊)に重油補給をおこなっていた沖波が姉妹艦の藤波らしき駆逐艦を発見するが、空襲により轟沈するのを目撃した[152]。なお10月26日の時点で陽炎型駆逐艦2番艦不知火(第18駆逐隊司令駆逐艦)はまだ沈んでいなかった[153]。アメリカ軍によれば、藤波は10月27日に艦載機の空襲で撃沈されている。いずれにせよ鳥海・藤波および不知火ともに、1人の生存者も残らなかった。同様の事例は重巡筑摩と駆逐艦野分でも見られる[154]

1944年(昭和19年)12月20日、鳥海は除籍された[155]。戦後、長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園に鳥海・藤波連名の慰霊碑が建立された。

鳥海沈没から75年後の2019年の5月5日、マイクロソフトの共同創業者ポール・アレンが所有する調査船ペトレルによって、5173m深海に沈む鳥海の姿が発見された。損傷はあるものの、横転することもなく、ほぼ水平に沈んでおり、艦首部分と残りの船体は300mほど離れた位置にあり、艦首部分は横転していたが、全体的に残存状況は良好であった。一番砲塔は最仰角のままになっており、対空戦闘に使用された状況を示している。また右舷の2番、3番砲塔の脇に爆弾が命中した跡と思われる破孔が確認された。

鳥海・摩耶の近代化改装

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鳥海、摩耶の近代化改装は昭和16年(1941年)度から実施される予定だったが、同年12月の開戦のために実施されなかった。これには対外情勢の影響のほか先述したように艦隊旗艦任務が多く、改装する時間が取れなかったのも一因という説もある。改装内容は艦橋の小型化をはじめ高雄愛宕に準ずるが、後部マストの移設については盛り込まれなかったとされる。

後に摩耶はラバウル空襲後の戦傷修理を兼ねて改装を行い、鳥海に対しても摩耶と同様の改装を計画し図面も準備されたが[156]改装の機会は得られず、

と竣工時の高角砲・魚雷発射管を装備したままで最期を迎えた。なお、大戦後半にはレーダー(前部マスト上に2号1型を1基、艦橋に2号2型を2基)を装備していた。

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』109-111頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長

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  1. 三木太市 大佐:昭和6年(1931年)4月5日 - 1931年12月1日
  2. 細萱戊子郎 大佐:昭和6年(1931年)12月1日 -

艦長

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  1. 細萱戊子郎 大佐:昭和7年(1932年)6月30日 - 1932年12月1日
  2. 谷本馬太郎 大佐:昭和7年(1932年)12月1日 - 1933年11月15日
  3. 小池四郎 大佐:昭和8年(1933年)11月15日 - 1934年11月15日
  4. 三川軍一 大佐:昭和9年(1934年)11月15日 - 1935年11月15日
  5. 春日篤 大佐:昭和10年(1935年)11月15日 - 1936年12月1日
  6. 奥本武夫 大佐:昭和11年(1936年)12月1日 - 1937年7月12日[157]
  7. 五藤存知 大佐:昭和12年(1937年)7月12日 - 1938年11月15日
  8. 保科善四郎 大佐:昭和13年(1938年)11月15日 - 1939年11月1日
  9. 古宇田武郎 大佐:昭和14年(1939年)11月1日 - 1940年10月19日
  10. 渡辺清七 大佐:昭和15年(1940年)10月19日 - 1942年4月25日
  11. 早川幹夫 大佐:昭和17年(1942年)4月25日 - 1943年3月1日
  12. 有賀幸作 大佐:昭和18年(1943年)3月1日 - 1944年6月6日
  13. 田中穣 大佐:昭和19年(1944年)6月6日 -1944年10月25日戦死

同型艦

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脚注

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  1. ^ 昭和7年6月30日付 海軍内令 第218号改正、海軍定員令「第40表 一等巡洋艦定員表 其1」。この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ a b 『世界巡洋艦物語』356p。昭和19年(1944年)6月30日調査。
  3. ^ a b #達昭和3年4月p.21『達第五十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和二年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和三年四月十三日 海軍大臣 岡田啓介|三菱造船株式會社長崎造船所ニ於テ建造 一萬噸級巡洋艦 テウ カイ
  4. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)pp.202-203『◎一等巡洋艦鳥海命名ノ件 昭和三年四月十三日(達五六)艦艇製造費ヲ以テ昭和二年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル 三菱造船株式會社長崎造船所ニ於テ建造 一萬噸級巡洋艦 テウ カイ
  5. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和三年十一月七日(内令三一三)艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 別表巡洋艦一等妙高型ノ項ヲ左ノ通改ム 妙高型|妙高、那智、足柄、羽黒/高雄型|高雄、愛宕、鳥海、摩耶』
  6. ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝96頁
  7. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|一等|高雄型|高雄、愛宕、鳥海、摩耶』
  8. ^ #寄贈品受領に関する件p.2『今回本艦艦名ニ因メル鳥海山所在地方ヨリ左記ノ通リ寄贈方申出有』
  9. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.35『鳥海(てうかい)【初代】 艦種砲艦 二檣「トップスル・スクーナー」姉妹艦に摩耶・赤城・愛宕あり。艦名考山名に採る、鳥海山(てうかいざん又とりのうみやま)古名を羽山と云ふ、羽後國飽海・由利の二郡に跨る、標高7,006尺 艦歴明治27・8年戰役に從軍(以下略)』
  10. ^ #寄贈品受領に関する件p.2『一、宮殿(御神霊奉安殿) 一宇 寄贈者 国幣中社大物忌神社』
  11. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.125『鳥海(てうかい)【二代】 艦種一等巡洋艦高雄型 艦名考初代鳥海の項参照(p.42)。 ―要目―(略)起工 昭和3-3-26/進水 同6-4-5/竣工 同7-6-30/建造所 三菱長崎造船所』
  12. ^ a b c #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『鳥海|一等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|3-3-26|6-4-5|〃|(艦装備略)』
  13. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和三年四月十三日(内令一〇七)艦艇類別等級表中巡洋艦一等妙高型ノ項「愛宕」ノ下ニ「鳥、海」ヲ加フ』
  14. ^ #昭和12年12月1日現在艦船要目公表範囲p.4『摩耶|一等巡洋艦|(艦諸元略)|神戸川崎造船所|3-12-4|5-11-8|7-6-30|(装備略)』
  15. ^ 丸スペシャル121号、52頁
  16. ^ 高雄と愛宕が改装工事で後部マストを移設したのは、この通信異常を起こした原因として高雄型の前後マスト間隔が狭いことが挙げられたためであった。
  17. ^ 丸スペシャル121号、79-80頁
  18. ^ 丸スペシャル121号、46頁
  19. ^ 艦船模型スペシャルNo.26、76頁
  20. ^ 『高雄型重巡』、20-21頁
  21. ^ 丸スペシャル121号、51-53頁
  22. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、105-106ページ
  23. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、123、128ページ
  24. ^ a b #回想の提督25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』
  25. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、132ページ
  26. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、358、365、380ページ
  27. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、395、428ページ
  28. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、431-432、488ページ
  29. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、434ページ
  30. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、436-437ページ
  31. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、439、445ページ
  32. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、445ページ
  33. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、445、450ページ
  34. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、453ページ
  35. ^ #須藤、198280頁
  36. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、445ページには、主隊とイギリス艦隊は20浬以内まで接近したと推測される、とある。
  37. ^ a b c d e #戦史叢書26海軍進攻作戦298-303頁『敵艦撃滅の好機を逸す』
  38. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦311頁
  39. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦590頁『ベンガル湾機動作戦』
  40. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦636頁
  41. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦663-669頁『馬来部隊機動部隊、ベンガル湾を制圧』
  42. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦668-669頁
  43. ^ 丸スペシャル121号、折込付表
  44. ^ #ミッドウエー海戦日誌(1)p.3『聯合艦隊編制表(六月一日現在)』
  45. ^ #ミッドウエー海戦日誌(1)p.4『別表第二 MI作戦部隊兵力部署』
  46. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、372-373ページ、戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、67ページ
  47. ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、68-69ページ
  48. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、403ページ、戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、71ページ
  49. ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、71ページ
  50. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、403ページ
  51. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)81-82頁
  52. ^ a b #叢書49南東方面430-431頁『わが軍の状況』
  53. ^ #叢書49南東方面441-4442頁『外南洋部隊』
  54. ^ #鳥海ツラギ詳報(1)p.2『當時第八艦隊司令部ハ「ラバウル」陸上ニ在リ鳥海ハ第六戦隊ト共ニ前日迄「カビエン」ニ在泊當日0415六戦隊第一小隊ト共ニ「アドミラルテイ」諸島「ゼアドラ」ニ向ケ出港直後ナリシガ第六戦隊司令官ハ六戦隊及鳥海ヲ率ヰ急速「ラバウル」進出ノコトニ變更ス續テ第八艦隊司令長官ヨリ鳥海ヲ至急「ラバウル」ヘ回航セシムベキ電命ヲ受ク依テ速力二十四節ヲ以テ急航1220「ラバウル」着第八艦隊司令部乗艦ス』
  55. ^ #鳥海詳報馬来沖・ソロモン(1)pp.27-28『軍艦鳥海行動圖 自昭和17-8-7至昭和17-8-10』
  56. ^ a b c #叢書49南東方面463-466頁『外南洋部隊の出撃』
  57. ^ #連合艦隊の栄光(角川)30-32頁『参戦求めて坐り込み』
  58. ^ #海戦(伏字復元)16-21頁
  59. ^ #海戦(伏字復元)205-206頁『海戦の思い出』
  60. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)96頁
  61. ^ #海戦(伏字復元)90頁
  62. ^ a b c #叢書49南東方面494-496頁『戦果及び被害』
  63. ^ #鳥海詳報馬来沖・ソロモン(1)p.34『昭和十七年八月八日「ツラギ」海峡夜戦ニ於ケル被害箇所圖示』
  64. ^ #鳥海ツラギ詳報(1)p.17『二.本艦ノ被害(イ)人員(第八艦隊司令部附ヲ含ム)戦死 岩佐大尉増子少尉外三二 戦傷三二』
  65. ^ #連合艦隊の栄光(角川)58頁
  66. ^ #連合艦隊の栄光(角川)59頁『国論も最大級の賛辞』
  67. ^ #ニミッツの太平洋海戦史117-118頁
  68. ^ a b #叢書49南東方面490-492頁『引き揚げの決意』
  69. ^ #連合艦隊の栄光(角川)73-75頁『虎口を脱する思い』
  70. ^ #ニミッツの太平洋海戦史361頁
  71. ^ #鳥海奮戦記163頁
  72. ^ #鳥海ツラギ詳報(1)p.20『第六.戦訓所見 第〇二用兵一般 一.断ジテ行ヘバ鬼神モク 「ツラギ」海峡敵泊地突入ハ稍無謀ト思考セラルヽ点無キニアラズ然レ共敵艦隊撃滅ノ為遂ニ断行セラレ斯ノ大戦果ヲ擧ゲ得タルナリ「断ジテ行ヘバ鬼神モ避ク」トハ斯ノ如キヲ謂フモノナルベシ』
  73. ^ #鳥海ツラギ詳報(1)p.20『二.「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ敵艦隊ヲ撃滅シ得タル際再ビ泊地ニ進入敵輸送船團ヲ全滅スベカリシモノト認ム (イ)一般ニ小成ニ安ンジ易シ 「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ我艦隊ハ敵艦隊ヲ撃滅シタル際尚残弾ハ六割以上ヲ有シ被害亦軽微ナリキ、宜シク勇氣ヲ振ヒ起シ再ビ泊地ニ進入輸送船ヲ全滅スベキモノナリシト確信ス (ロ)同輸送船ニハ「ガダルカナル」基地ヲ強化スベキ人員資材ヲ搭載セルヤ瞭ナリ又之ヲ全滅セル場合敵國側ニ及ボスベキ心的影響ノ大ナルベキハ察スルニ餘リアル所ナリ 三.指揮官先頭』
  74. ^ #連合艦隊の栄光(角川)70-73頁『米船団は中途で逃げ帰る』
  75. ^ a b c #ニミッツの太平洋海戦史118-119頁『小休止』
  76. ^ #叢書49南東方面518-519頁『一木支隊の輸送計画』
  77. ^ #叢書49南東方面519-521頁『一木先遣隊の輸送』
  78. ^ a b c d #ニミッツの太平洋海戦史119-122頁『八月の攻撃』
  79. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)102頁
  80. ^ #叢書49南東方面521頁
  81. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.55『2000 鳥海 磯風ヲ率ヒ作戦地ニ向ケ「ラバウル」発』
  82. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.56『二十一(天候略)〇五四五6S合同 一五三五6S解列』-p.57『二十二(天候略)〇七〇〇1D/6S解列(Rメ・レニテ補給セシム)』
  83. ^ #叢書49南東方面558頁では磯波とするが磯風の誤認。
  84. ^ #S1709八艦隊日誌(1)pp.57-58『二十三(天候略)一六一二鳥海衣笠磯風ヲ率ヒ「ショートランド」ニ入港「アケボノ」丸ヨリ重油補給ヲナス 二〇一五鳥海衣笠夕凪ヲ率ヒ「ショートランド」発』
  85. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.59『二十五(天候略)0000鳥海三機(内一由良機)及6S各艦水偵一機RX・L攻撃ニ向フ/〇一四五 230度ニ味方船團ヲ認ム/〇八五三 30度方向ニ「コンソリ」型一機ヲ認ム/一七一八夕凪解列/二二〇〇1D6S分離ス(略)
  86. ^ #S1612六戦隊日誌(5)p.29『二四(天候略)「ガダルカナル」夜間爆撃』
  87. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)104-106頁
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参考文献

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関連項目

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