阿賀野型軽巡洋艦
阿賀野型軽巡洋艦(あがのがたけいじゅんようかん)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦の艦級で同型艦は4隻。
純然たる水雷戦隊旗艦用軽巡洋艦(乙巡)として建造された日本海軍最後の艦型である。阿賀野の沈没後は能代型という表現も使われた[8]。
阿賀野型軽巡洋艦 | |
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阿賀野 | |
基本情報 | |
種別 | 二等巡洋艦(軽巡洋艦) |
命名基準 | 河川名 |
建造所 |
佐世保海軍工廠3隻 横須賀海軍工廠1隻 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 4 |
前級 |
利根型軽巡洋艦 川内型軽巡洋艦 |
次級 |
大淀型軽巡洋艦 改阿賀野型軽巡洋艦 815号型軽巡洋艦 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 6,651英トン[1] または 6,652英トン[2] |
公試排水量 | 7,710トン[2] |
満載排水量 | 8,338.40トン[3] |
全長 | 174.50m[2] |
水線長 |
172.00m[2] 180.0m[要出典] |
垂線間長 | 162.00m[2] |
最大幅 | 15.20m[2] |
水線幅 | 15.20m[2] |
深さ | 10.17m[2] |
吃水 | 公試平均 5.63m[2] |
ボイラー | 艦本式ボイラー6基[2] |
主機 | 艦本式タービン4基[2] |
推進器 | 4軸[2] |
出力 | 100,000hp[2] |
速力 | 35.0ノット (64.8 km/h)[2] |
航続距離 | 6,000海里 (11,000 km)/ 18ノット[2] |
燃料 | 重油 1,420トン |
乗員 |
計画乗員 726名[2] 730名[要出典] |
兵装 |
計画[7] 50口径四一式15.2cm連装砲 3基6門 60口径九八式8cm連装高角砲2基4門 九六式25mm三連装機銃2基 九二式61cm四連装水上発射管四型2基 九三式61cm魚雷一型改一16本 九五式爆雷18個 |
装甲 |
計画[4][注釈 1][注釈 2] 機関部舷側 60mmCNC、甲板 20mmCNC鋼 弾火薬庫舷側55mmCNC、甲板20mmCNC鋼 主砲塔:25mm(最厚部)、バーベット:25mm[要出典] 舵取機室舷側 30mmCNC、甲板20mmCNC鋼 操舵室舷側 30mmCNC鋼 |
搭載機 | 一二試三座水偵1機、特殊水偵1機[5] |
搭載艇 |
11m内火艇1 9m内火艇1隻 12m内火ランチ1隻 9m救助艇2隻 (9mカッター1隻)[6] |
その他 | 射出機1基[5] |
概要
編集球磨型から始まる5500トン型軽巡洋艦を水雷戦隊の旗艦としていた日本海軍は、列強との建艦競争によって発達した造船技術とそれに伴う兵装の強大化に後押しされ、軽巡洋艦の大型化を模索し始めた。
昭和十四年度の第四次海軍軍備充実計画で新型軽巡洋艦6隻の建造が承認された[9]。このうち4隻は水雷戦隊旗艦用として乙級巡洋艦中の巡洋艦乙[10]として大蔵省に請議された。軍令部からの要求性能は基準排水量6,000トンで15cm連装砲3基、61cm四連装魚雷発射管2基、水上機2機とカタパルト1基、最大速力35ノット、航続性能18ノットで6,000海里であった。これに対し、基準排水量6,650トン、15cm連装砲3基、8cm連装高角砲2基、61cm四連装魚雷発射管2基、最大速力35ノット、航続性能18ノットで6,000海里の艦として大薗大輔造船官によって設計されたのが本艦型である。(残り2隻は後の大淀型)
なお、酒匂は日本海軍が太平洋戦争開戦後に起工し完成した5000t以上の大型艦4隻(他に雲龍型航空母艦3隻)のうちの一隻にあたる。本艦は戦中に日本海軍が完成させた数少ない戦闘用の軍艦であったが、水雷戦隊の時代は既に過去のものとなっていた。軍令部一部長時代に本型設計技術会議に加わった宇垣纏(連合艦隊参謀長)ですら1942年12月1日に阿賀野の来着を聞いて『果して現下の要求に満足を與ふるや否や、爆弾一発如何ともし難きに於ては軽巡と選ぶ所無きを憂ふ。機を見て視察すべきなり』と述べている[11]。
艦形
編集本型の船体形状は平甲板型船体である。強く傾斜したクリッパー・バウから艦首甲板上に主砲の「50口径四一式15.2cm砲」を連装砲塔に収めて背負い式に主砲塔2基を配置した[12]。
2番主砲塔の基部から上部構造物が始まり、その上に頂上部の前方に1.5m測距儀と後方に射撃方位盤を乗せた塔型艦橋が立ち、その背後トラス構造の前部マストが立つ。艦橋の防空指揮所は狭く、後方警戒に死角があるため、用兵側から不満が出ている[13]。船体中央部に集合煙路式の1本煙突が立ち、その背後から水上機運用のための多角形状のフライング・デッキ(飛行甲板[14])が設けられていた。デッキ上には台車に乗せた水上機を移動するためのターンテーブルやレールが設けられ、水上機はデッキ後方のカタパルトにより射出された。
対艦攻撃用の61cm四連装魚雷発射管は予備魚雷4本を収めた魚雷格納庫2基を前後に挟んで2基が配置されており、フライング・デッキの支柱を避けて片舷8門の投射能力があった。対空火器として「60口径九八式7.62cm高角砲」は煙突を境にして防盾の付いた連装砲架で片舷1基ずつ計2基を配置していた。通常は煙突の周囲に置かれる艦載艇は本級は艦橋の側面やカタパルトの周囲などの空所に配置されていた。カタパルト後方に簡素な単脚式の後部マストを基部として、水上機を運用するためのクレーンが1基付いた。後部甲板上には3番主砲塔が後向きに1基が配置されていた。
武装
編集主砲
編集既存の5,500トン級軽巡洋艦は対駆逐艦戦闘用に14cm速射砲を採用していたが、本級は対巡洋艦戦闘を考慮してより口径の大きな「四一式 15.2cm(50口径)速射砲」を採用した。前身は巡洋戦艦「金剛型」の副砲として採用された「ヴィッカーズ式 15.2cm(50口径)速射砲」のライセンス生産品で正規な口径は152.4mmであった。その性能は重量45.36kgの砲弾を仰角45度で射程21,000mまで、最大仰角55度で最大射高8,000mまで届かせることが出来た。元は単装砲架で使用するこの砲を、新たに設計した砲架と砲塔により連装式とした。これは1基あたり約72トンの軽量砲塔で、砲身の上下角度は仰角55度・俯角5度である。旋回角度は舷側方向を0度として左右150度の旋回角度を持っていた。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力と油圧で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分5〜6発である。
高角砲の不足を補うため、主砲塔の仰角は最大55度まで取ることが可能で、対空戦にも使用する事ができるというふれこみであったが、実際は砲塔内の容積不足から固定角装填となり、1発撃つごとに砲身を7度に戻してから手動で装填せざるをえず、対空戦での実用的な発射速度は発揮できなかった。むしろ、艦が回避行動をとって傾斜した際に照準動揺修正が追いつかないことから、九四式五型照準装置の改良が必要とされている[15]。また対空戦闘における旋回能力の低さも指摘されている[16]。全面に装甲は施してあるものの、装甲は断片防御程度の厚さであり、対巡洋艦クラスの被弾に対する耐弾性は無かった。能代の場合は、艦首に向けて二番主砲を発射すると衝撃で一番砲塔の電灯が消えた事故を報告しており、一番砲塔天蓋強化を進言している[17]。この砲塔を船体中心線上の艦首に2基、艦尾に1基装備した。
その他備砲、雷装等
編集本型の高角砲は既存の巡洋艦で広く採用された「三年式 12.7cm(40口径)高角砲」ではなく、小型の船体に適応するために空母大鳳や秋月型駆逐艦に装備された65口径長10センチ高角砲を小型化した新開発の「九八式 7.6cm(60口径)高角砲」を採用した。伊吹型空母にも搭載予定だったという[12]。その性能は重量5.99kgの砲弾を仰角45度で射程13,600mまで、最大仰角90度で最大射高9,100mまで届かせることが出来た。これを新設計の連装砲架に収めた。砲身の上下角度は仰角90度・俯角10度である。旋回角度は舷側方向を0度として左右150度の旋回角度を持っていた。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分25発である。これを船体中心部に片舷1基ずつの計2基を配置した。本型はあくまで水雷戦隊の旗艦として設計されているため、高角砲の数は少ない。用兵側にとっては不満のある対空兵器であった。例えば1944年(昭和19年)1月1日ニューアイルランド島カビエンで戊三号輸送部隊第二部隊(第二水雷戦隊旗艦能代、大淀、秋月、山雲)がアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け、能代が小破した。この戦闘で能代は主砲63発、高角砲29発を発射[18]、8cm高角砲に対し「故障が続出するので作動確認が必要だ」と提言している[19]。また矢矧は1944年10月25日のレイテ沖海戦サマール沖砲撃戦で、米駆逐艦に対しこの高角砲を発射している[20]。戦闘終了後、矢矧は8cm高角砲を10cm連装高角砲片舷2基計4基(大淀と同数)に換装するよう要望したが、実行されなかった[21]。
他に近接火力として「九六年式 25mm(60口径)機銃」を三連装砲架で艦橋の前の張り出しに片舷1基ずつ計2基を配置した。阿賀野は竣工後の1943年に後部マスト付近に三連装機銃2基を増備した。能代は竣工当時から三連装機銃4基を装備していたが、前述の1944年1月1日対空戦闘後をうけて「飛行甲板に25mm機銃を増設したい」と要望している[19]。これを受けて、フライング・デッキの四隅に三連装機銃を1基ずつ計4基を増備して8基となった。矢矧は竣工時から三連装機銃6基で竣工、更に1944年に25mm三連装機銃4基、同単装機銃10基を追加装備し、1945年に単装機銃10基を増備した。沖縄水上特攻作戦直前には、防盾も装備している[22]。しかし、用兵側からは対空火力の不足を指摘されていた。前述のカビエン空襲時の第二水雷戦隊戦闘詳報では、『而して現米国の急降下爆撃は艦尾方向より来襲するもの多く、之に対し能代型現対空兵装は艦尾方向に対しては銃火指向少し、艦尾方向に対する火力集中を十分ならしむるを要す。』と述べ、長射程の対空機銃を充実するよう報告している[23]。
水雷兵装は、61cm四連装発射管船体中央部に魚雷格納庫2基を境として前後に2基を配置することで、片舷投射門数8門を確保している。
防御
編集15cm砲弾に耐えられるだけの防御力が与えられている。CNC甲鈑が使用されており、重要区画にはより重厚な防御がなされている。舷側水線部には最厚部で60mm、甲板は20mm、主砲塔は29mmであり、実戦でその防御効果を証明した。
機関
編集本型の機関はロ号艦本式重油専焼水管缶6基で、蒸気圧は日本海軍の巡洋艦の歴史でも、本型と大淀の物は最高の缶圧で、蒸気温度350度で30kg/平方cmで主気初圧26kg/平方cmであった。これに艦本式オールギヤードタービンでギヤード・タービンは高圧・中圧・低圧を組み合せて1基あたり25,000馬力の物を4基4軸推進で最大出力100,000馬力で速力は最大で35ノットを発揮できた。
同型艦
編集脚注
編集注釈
編集- ^ #造船技術概要によると機関部舷側 60mmCNC、甲板 20mmCNC鋼、弾火薬庫舷側55mmCNC、甲板20mmCNC鋼、舵取機室舷側 30mmCNC、甲板20mmCNC鋼、操舵室舷側 30mmCNC鋼。
- ^ Japanese Cruisers of the Pacific War pp.563-564によると機関部舷側 60mmCNC、中甲板 20mmCNC鋼、隔壁 20mmCNC鋼、弾火薬庫舷側55mmCNC、下甲板20mmCNC鋼、前部弾薬庫前部隔壁20-25mmCNC、後部弾薬庫後部隔壁20mmCNC、操舵室 前部40mmCNC、舷側と底部20mmCNC、上部30mmCNC、後部16mmDS鋼、舵取機室、舵柄室舷側 30mmCNC、甲板20mmCNC鋼
出典
編集- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の計画値「註.上記ノモノハ昭和十四年十月十三日艦本機密決第五三八号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #昭和造船史第1巻784-785頁。
- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」29頁。
- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」20頁。
- ^ a b 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」16頁。
- ^ #JapaneseCuisersp.593による。計画では6隻だが、9mカッターは煙突左舷に「阿賀野」と「能代」が一時的に搭載したのみという。
- ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」4頁。
- ^ #能代詳報(2)p.20
- ^ #矢矧艦歴p.2
- ^ 昭和13年9月19日付 海軍省『昭和14年度海軍軍備充実計画細項ニ関スル対大蔵省説明資料』、昭和13年7月11日付 艦政本部総務部第一課『次期補充計画艦種ノ仮称ニ関スル件覚』など。乙巡ではない。
- ^ #戦藻録(九版)p.253 言葉を補って現代語訳すると「果たして現状の(戦局の)要求を満足するものであるかどうか(疑問だ)。爆弾一発被弾するとどうしようもなくなるという点では(従来の)軽巡と同様なのではないかと心配だ。折を見て(阿賀野の状況を)視察しなくてはなるまい」
- ^ a b #矢矧艦歴p.3
- ^ #矢矧捷1号(2)p.17、#能代詳報(2)pp.20-21
- ^ #日本海軍艦艇図面集図40-2、矢矧艦内側面図への記入による。
- ^ #矢矧捷1号(2)p.11
- ^ #矢矧捷1号(2)p.12
- ^ #能代詳報(2)p.9
- ^ #昭和18年12月〜2水戦日誌(2)p.20『発射弾数 能代/主砲:63、高角砲:29、機銃1612』
- ^ a b #昭和18年12月〜2水戦日誌(3)p.31,43『12日2150将旗2sd→各隊/能代今次修理中対空砲火増強ニ関シ左ノ通取計ヲ得度(二水戦機密第18号ノ1関連) (略)二.機銃増備 撤去セル跡ニ?25粍3(2)連装機銃1乃至2基、飛行甲板及後甲板附近ニ25粍単装機銃計八基装備(一部移動格納式) 三.現高角砲ハ昨年11月以来累次ノ対空戦闘ニ故障続出セルニ付整備上作動確認射撃ヲ要スルモノト認ム』
- ^ #矢矧捷1号(3)p.2
- ^ #矢矧捷1号(2)p.13
- ^ #2水雷詳報(1)p.47
- ^ #昭和18年12月〜2水戦日誌(2)pp.36-37『機銃ノ増備ヲ絶対必要トス。敵大編隊機ノ襲撃法ハ分散異方向同時襲撃ナルヲ以テ対空戦ニ於テハ各方向ヨリ来襲スル全目標ニ対シ銃火ヲ指向シ火束ノ筒ヲ以テ一艦ヲ包囲スルヲ要ス。故ニ餘積ノ全部ヲ極力利用スルハ勿論更ニ他ノ一部兵器ヲ犠牲トスルモ機銃増備ニ邁進スルコト絶対ニ必要ナリ。而シテ其ノ口径極力二十粍以上タルヲ要ス(理由 雷撃機及急降下爆撃機ニ対スル有効ナル射距離ヲ有スルコト)。而シテ現米国ノ急降下爆撃ハ艦尾方向ヨリ来襲スルモノ多ク之ニ対シ能代型現対空兵装ハ艦尾方向ニ対シテハ銃火指向少シ、艦尾方向ニ対スル火力集中ヲ十分ナラシムルヲ要ス。』
参考文献
編集- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所
- Ref.C08030101900『昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030102000『昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030577700『昭和19年10月22日〜昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030577800『昭和19年10月22日〜昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030579000『昭和19年10月23日〜昭和19年10月29日 軍艦能代戦闘詳報 第3号(2)』。
- Ref.C08030103000『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030749900『軍艦矢矧艦歴等 (附機関参謀大迫吉二氏沈没当時の回想記)』。
- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。
- Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press
- (社)日本造船学会/編 編『昭和造船史(第1巻)』(3版)原書房〈明治百年史叢書〉、1981年(原著1977年)。ISBN 4-562-00302-2。
- (社)日本造船協会/編 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』(四版)原書房〈明治百年史叢書〉、1978年(原著1975年)。
- 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」
外部リンク
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