鳥取地震

1943年に鳥取県東部で発生した地震

鳥取地震(とっとりじしん)は、第二次世界大戦中の1943年昭和18年)9月10日17時36分53秒[2]に発生した地震である。震源鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域(北緯35度28.3分、東経134度11.0分)[1]で、震源の深さは1キロ未満[1]M7.2 (Mw7.0[3])である[4]

鳥取地震
鳥取地震の被災地(撮影地不詳)
鳥取地震の位置(鳥取県内)
鳥取地震
震央の位置
本震
発生日 1943年昭和18年)9月10日
発生時刻 17時36分53.5秒 (JST)
震央 日本の旗 日本 鳥取県東部
座標 北緯35度28.3分 東経134度11.0分 / 北緯35.4717度 東経134.1833度 / 35.4717; 134.1833座標: 北緯35度28.3分 東経134度11.0分 / 北緯35.4717度 東経134.1833度 / 35.4717; 134.1833
震源の深さ 0 km
規模    M7.2
最大震度    震度6:気高郡湖山村
地震の種類 内陸直下型地震
横ずれ断層
前震
最大前震 1.1943年3月4日 M6.2[1]
2.1943年3月5日 M6.2[1]
余震
最大余震 1943年9月11日 M6.2[1]
被害
死傷者数 死者 1,083人
被害総額 1億6,000万円(当時)
被害地域 鳥取県
出典:特に注記がない場合は気象庁による。
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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鳥取市域の震度は6(烈震)とされたが、これは当時の震度階級の最大震度が6であったためである。当時の被害状況を現在の定義に照らすと、「家屋の倒壊が30%以上に及ぶ」ことから、広範囲で震度7相当の揺れを生じたと推定される[5]。鳥取地震の揺れは、東は甲信越から西は九州北部まで広範囲で感じられ、中国山地を越えて岡山市でも震度5を記録した。

この年から終戦の翌年にかけ、4年連続で1,000名を超える死者を出した4大地震(発生順に鳥取地震、東南海地震三河地震南海地震)の一つである。

被害

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鳥取地震による被害は、同年11月25日の臨時県会における武島一義知事の説明によると、死者1,210名、重軽傷者3千8百数十名、家屋の全壊1万3千2百余棟、半壊1万4千百余棟、全焼280余棟である。被害総額は、公共建築、土木、耕地、林務、農水産、畜産、商工関係をすべて合わせ、概算で約1億6千万円に上った[6]。なお、人的被害、建物被害の数字については、気象庁の公表資料[1]とは一致しない。

人的被害
鳥取地震による死者は、鳥取県の公文書「震災関係資料」によれば1,210人である。しかし、犠牲者の公式な名簿は確認されておらず、死者数は資料により差違がある[6]。死者の性別・年齢別で比較すると、0歳代の子どもと20歳代の女性に被害が集中している[7]
死者の中には、当地を芝居巡業で訪れていた歌舞伎役者の6代目大谷友右衛門がいた。また、公演のため鳥取を訪れていた木下大サーカスでも木下行治団長代理と女性団員6名が死亡したが、興行用のテントを罹災者の避難場所に提供して救援活動に当たった[8]
また、岩美郡岩美町荒金にあった荒金鉱山での事故による死者も含まれている。荒金鉱山では、地震により鉱泥を貯めていた堰堤が決壊し、鉱山住宅2棟、非住宅32棟、荒金集落の15戸及び水田30町歩が流された。日本人鉱山労働者及び荒金地区住民37名、朝鮮人労働者とその家族28名の計65名が犠牲となった。[5][9]
建物被害
木造建物の被害率(総戸数に対する全壊家屋数の割合)をみると、鳥取市中心部が75%以上と、被災地域の中で最も高かった[10]。この理由として、家屋が冬季の積雪に屋根が耐えられるよう、梁や横木を太くしていたため重心が上に偏っていたこと、度重なる水害により家屋の基礎が損傷していたこと、同年3月に発生した前震で建物にゆがみが生じていたことなどの要因が指摘されている[6]
鳥取市内にあった鉄筋コンクリート造の建物は、県立鳥取図書館、NHK鳥取放送局、阪鳥ビル、五臓円薬局丸由百貨店であったが、主体構造部の被害は皆無であった[10][11]
火災の発生
地震発生が夕刻だったこともあり、発災直後の午後5時40分頃より鳥取市内十数カ所で同時に火災が発生し、すべての火災が鎮火した翌日午前5時までの間、59カ所から出火した。このうち火災に至ったのは22カ所で、うち3カ所で火災が拡大した[6]。地震による水道管の破裂や貯水槽の転倒、建物倒壊による消防自動車の通行不能などの状況下にあったが、隣組や町内会を主体としたバケツ送水、下水を活用した消火活動、自然条件(降雨)などにより、大火には至らなかった[6]
液状化現象
地震による液状化現象も発生し、鳥取師範学校附属国民学校や鳥取市立高等女学校の敷地内で噴砂の痕跡と思われるものが確認されている[5]
鉄道インフラの被害
不通となっていた鉄道は、因美線が地震から2日後の9月12日午後5時に開通したほか、線路の湾曲や陥没、鉄橋の損壊、隧道の崩落等の被害が出た山陰本線も、昼夜兼行の復旧工事の末、9月22日午後3時40分に全通した[6]
通信インフラの状況
鳥取市一帯の電話や無線電信は途絶したが、唯一、鳥取・米子間の鉄道電話のうちの一回線が応急修理で通話可能となった。被害の情報は、米子や岡山、大阪を中継し、東京の内務省に報告された[5]
農産物への被害
農産物については、耕地の被害に加え、労働力が復旧作業に割かれることによる人手不足を原因とする間接的な被害もあり、特に水稲、梨、柿の被害が大きかった[6]
政府の対応
当時の東条英機首相は、自らの代理として内務大臣安藤紀三郎を現地に派遣した。安藤は、9月12日午前2時に鳥取県庁に到着し、現地の視察等を行った。13日には宮内省の小倉庫次侍従が県庁において天皇・皇后両陛下の勅旨を武島知事に伝達した。また、救援活動には、舞鶴鎮守府と中部第47部隊(鳥取連隊)などがあたった[5]
鳥取地震における被害[12]
地域(当時の名称) 人的被害(人) 住宅被害(戸)
死者 重傷負傷者 軽傷負傷者 全壊 半壊 火災
鳥取市 854 544 1,988 5,754 3,182 全焼 250、半焼 16
岩美郡 56 12 137 694 916
八頭郡 49 11 15 3 28
氣高郡 120 100 450 1014 1703 全焼 1
東伯郡 4 2 20 329
合計 1,083 669 2,590 7,485 6,158 全焼 251、半焼 16

断層

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この地震では、2つの断層が出現した。ひとつは鳥取市西方にある気高郡鹿野町(現・鳥取市)から鳥取市上原地区にかけて長さ8キロメートル (km) にわたって延びた「鹿野-吉岡断層」である。この断層の南西寄りは北側が最大75センチメートル (cm) 沈下し、東方へ最大150 cm動いた。北東寄りは南側が最大50 cm沈下し、西方へずれるという複雑な動き方をした。

もうひとつは鹿野断層の北に並行してできた「吉岡断層」である。北側が最大50 cm沈下し、東方へ最大90 cm動いた。

各地の震度

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震度4以上の地域は以下の通り。[13]

震度 都道府県 観測点
6 鳥取県 鳥取市吉方
5 岡山県 岡山市北区桑田町
山口県 萩市堀内
4 福井県 福井市豊島・敦賀市松栄町
三重県 津市島崎町
滋賀県 彦根市城町(旧)
京都府 宮津測候所京都市中京区西ノ京
大阪府 大阪市中央区大手前
兵庫県 豊岡市桜町(旧)・神戸市中央区中山手・洲本市小路谷
和歌山県 和歌山市男野芝丁
鳥取県 米子市博労町(旧)・境港市東本町
島根県 松江市西津田(旧)・隠岐の島町西町(旧)
岡山県 津山市林田(旧)
広島県 福山市松永町・呉市宝町
徳島県 徳島市大和町(旧)
香川県 高松市伏石町(旧)・多度津町家中
高知県 高知市本町

先行地震活動

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本地震発生の約半年前に鳥取県東部でM6前後の地震が続発し小被害があり、先行地震活動と考えられている[14]

1943年3月4日19時13分ごろ、最初の地震M6.2が発生、引き続き19時35分ごろにもM5.7の地震が発生した。また翌日の4時50分ごろには再びM6.2の地震がほぼ同じ場所で発生した。

主な先行地震活動[1]
発生年 発生日 発生時刻 震央 緯度 経度 深さ

(km)

規模

(Mj)

最大

震度

1943年 3月4日 午後7時13分 鳥取県東部 35°26.5′ 134°06.2′ 5 6.2 5
午後7時35分 35°29.6′ 134°11.6′ 16 5.7 4
3月5日 午前4時50分 35°27.9′ 134°14.1′ 9 6.2 5
3月13日 午前0時24分 35°29.4′ 134°10.2′ 7 5.9 4

この一連の地震によって、鳥取市氣高郡岩美郡八頭郡の各郡、特に沿岸地方で小被害があった。

賀露港の護岸が3か所崩れ、湖山村では長さ300メートル (m) に亘って崖崩れが発生した。地鳴り、発光現象が報告され、井戸水にも濁りなど異常が見られた。岩井温泉三朝温泉松崎温泉は湯温が上昇し、浜村温泉は一時湯量が減少した。人的被害は軽症11名、家屋被害は倒壊68(内住家は10未満)、半壊515であった[15][16]

地震調査研究推進本部は、2016年鳥取県中部地震発生後の評価書において、鳥取県周辺では過去に規模の大きな地震の発生後に規模の近い地震が続発した事例が複数あり、同程度もしくはさらに大規模な地震が数か月後に発生した事例もあるとしている[17]

その他

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関東大震災の後であり、戦時下でもあったため、住民の防災訓練が徹底されていた。このため、関東大震災の時のような大規模な混乱や流言蜚語の流布は起きなかったが、一部で「今年はが生まれたそうだから鳥取の地震は件の言った通りだった」「地震のあとには今度は噴火か津波が来るだろう」「この次28日に又大地震が来るからあぶない」などの流言が広まり、警察に拘留される者もいた[6][7]

震災の翌年、鳥取市は一周年に合わせて『鳥取県震災小史』を刊行した。地震の実情とそれへの対応をまとめたもので、内容は「マル秘」扱いとされた[18]。執筆したのは、当時の特高課長で地方警視だった小橋正男である[6]。終戦時に資料が処分された可能性があり、地震の詳細は不明な点も多い。

戦時中の情報統制下であったが、地震被害は全国紙、地方紙、ラジオで伝えられ、全国から義捐金や支援物資が集まった[6]。また、海外でも報道され、スイスタイビルマ中華民国満州の各国政府から見舞いのメッセージや見舞金、食料が寄せられた[19]

出典

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  • 昭和18年9月10日鳥取地震の被害 『東京帝国大学地震研究所彙報』 第23冊第1/4号, 1947.2.28, pp.97-103, hdl:2261/10626
  • 金田平太郎、岡田篤正:1943年鳥取地震の地表地震断層 既存資料の整理とその変動地形学的解釈 『活断層研究』 Vol.2002 (2002) No.21 p.73-91, doi:10.11462/afr1985.2002.21_73
  • 表俊一郎:昭和18年3月4日鳥取地震調査概報 『地震 第1輯』 Vol.15 (1943) No.5 P101-113, doi:10.14834/zisin1929.15.101

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 鳥取地方気象台「鳥取地震の概要
  2. ^ 「地震月報」掲載の時刻は「昭和18(1943)年9月10日17時36分53秒59」である。
  3. ^ 金森(1971)
  4. ^ 震源域に最も近い地震観測施設は鳥取測候所(現鳥取地方気象台)であったが、地震計は設置されておらず、地震波の記録は取れていない。
  5. ^ a b c d e 西田良平・香川敬生ほか『郷土シリーズ41 鳥取の震災』一般財団法人鳥取市社会教育事業団, 2023年
  6. ^ a b c d e f g h i j 鳥取県震災小誌』,鳥取県, 1944年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ a b 田中やよい「新聞報道と雑誌にみる鳥取大震災」『鳥取県立公文書館研究紀要』第8号、2014年
  8. ^ 木下サーカス「木下大サーカス100年の歩み」https://kinoshita-circus.co.jp/htmls/prof/prof-02.htm
  9. ^ 現地では、毎年9月10日に慰霊祭が営まれている。なお、現在にいたるまで20数名の遺体が未発見のままである。
  10. ^ a b 米子工業高等専門学校地域防災研究班 編集『鳥取地震災害資料』1983年 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  11. ^ 丸由百貨店は地震によって発生した火災の延焼により被害を受けている
  12. ^ 岸上冬彦、昭和18年9月10日鳥取地震の被害 東京帝国大学地震研究所彙報 1947年2月 23巻 1-4号 p.97-103, hdl:2261/10626
  13. ^ 気象庁「震度データベース」https://www.data.jma.go.jp/svd/eqdb/data/shindo/index.html#19430910173653
  14. ^ 気象庁, 8-4 西日本内陸地方に見られる先行した地震活動 (PDF) , 地震予知連会 会報第65巻.
  15. ^ 宇津ほか(2001), p621.
  16. ^ 宇佐美(2003), p325-327.
  17. ^ 震調査研究推進本部, 2016, 2016年10月21日鳥取県中部の地震の評価 (PDF) .
  18. ^ 国会図書館に納本されているものの表紙には「取扱注意」の印がおされている
  19. ^ 本邦変災並救護関係雑件 第二巻 23.中国地方(鳥取地方)震災関係」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04013319500、本邦変災並救護関係雑件 第二巻(I.6.0.0.5_002)(外務省外交史料館)

参考文献

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外部リンク

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