鮮于世栄
経歴
編集懐朔鎮将の鮮于宝業の子として生まれた。興和2年(540年)、高歓の下で副都督となった。平西将軍に転じ、石門県子の爵位を受けた。天保元年(550年)、北斉が建国されると、世栄は文宣帝の下で柔然や稽胡を討った。天保6年(555年)、高岳の下で郢州を平定し、持節・河州刺史に任じられ、朝歌県を食邑とした。まもなく丞相府諮議参軍となった。皇建年間、儀同三司・武衛将軍の位を受けた。天統2年(566年)、開府儀同三司の位を加えられ、鄭州刺史に転じた[1][2]。武平4年(573年)、南兗州刺史として信州の乱を平定した[3][4][5]。領軍将軍となり、食邑を上党郡に移された。武平5年(574年)、高思好の乱の平定に従い、義陽王に封じられた[1][2]。
武平7年(576年)、後主が晋陽に幸すると、世栄は本官のまま尚書右僕射の事務を執り行い、北平王高貞を補佐して北宮留後をつとめた。後主が平陽を包囲すると、世栄は領軍将軍の号を受けた。承光元年(577年)、北周の軍が鄴に侵攻してくると、世栄は領軍大将軍・太子太傅に任じられて、城西で抗戦したが、敗れて捕らえられた。屈服しなかったため、北周の武帝により殺された[1][2]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。