郢州
郢州(えいしゅう)は、中国にかつて存在した州。三国時代から元初にかけて設置された。南北朝時代には現在の武漢市を中心として湖北省東部一帯を管轄したが、唐代以降は現在の荊門市の一部を管轄するにとどまった。
概要
編集222年(黄初3年)、魏により荊州の江北諸郡が郢州とされたが、その年のうちに荊州にもどされた[1]。
454年(孝建元年)、南朝宋により荊州の江夏郡・竟陵郡・隨郡・武陵郡・天門郡、湘州の巴陵郡、江州の武昌郡、および豫州の西陽郡を分離し、さらに南郡の州陵県と監利県を巴陵郡に移管して、郢州が立てられた。州治は夏口に置かれた。後に天門郡は荊州にもどされた。南朝宋の郢州は6郡39県を管轄した[2]。
南朝斉のとき、郢州は江夏郡・竟陵郡・武陵郡・巴陵郡・武昌郡・西陽郡・斉興郡・東牂牁郡・方城左郡・北新陽郡・義安左郡・南新陽左郡・北遂安左郡・新平左郡・建安左郡の15郡を管轄した[3]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、郢州は鄂州と改称された[4]。
また別に北魏の立てた郢州があり、この郢州は安陽郡・城陽郡・汝南郡の3郡8県を管轄した[5]。
また別に西魏の立てた郢州があり、この郢州については郢州 (湖北省)も参照されたい。607年(大業3年)、隋により州が廃止されて郡が置かれると、郢州は竟陵郡と改称された[4]。
621年(武徳4年)、唐により竟陵郡の長寿県に郢州が置かれた。627年(貞観元年)、郢州が廃止され、長寿県は鄀州に、章山県は荊州に転属した。643年(貞観17年)、郢州が再び置かれた。742年(天宝元年)、郢州は富水郡と改称された。758年(乾元元年)、富水郡は郢州と改称された。郢州は長寿・京山・富水の3県を管轄した[6]。
宋のとき、郢州は京西南路に属し、長寿・京山の2県を管轄した[7]。
1275年(至元12年)、南宋の郢州安撫の趙孟が州城ごと元に降った[8]。1278年(至元15年)、郢州は安陸府に昇格した[9]。
渤海国・遼の郢州
編集渤海国により郢州が立てられ、遼がこれを引き継ぎ、郢州刺史と彰聖軍が置かれた。軍事に関しては北女直兵馬司に属した。この郢州は東京道に属し、延慶県1県を管轄した[10]。