高野山電気鉄道

かつて存在した日本の鉄道会社。南海電気鉄道の法人格上の前身。
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高野山電気鉄道株式会社(こうやさんでんきてつどう)は、現在の南海高野線高野下駅 - 極楽橋駅間(鉄道線)と、南海鋼索線の極楽橋駅 - 高野山駅間(鋼索線)に当たる路線を建設・経営していた会社である。南海電気鉄道の法人格上の前身。

高野山電気鉄道株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
大阪府大阪市南区難波新地六番町12番地[1]
設立 1925年大正14年)3月28日
業種 陸運業
法人番号 6120001077499 ウィキデータを編集
代表者 常務 中山隆吉[1]
資本金 2,200,000円[1]
発行済株式総数 44,000株[1]
主要株主
特記事項:1943年(昭和18年)現在[1]
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沿革

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元々、橋本 - 高野下 - 高野山に至る鉄道敷設免許は高野電気鉄道が1911年に取得[2]していたものを、1912年に和歌山水力電気が譲受し[3]、そこへ大阪方面から高野山方面への路線延伸を企てていた大阪高野鉄道が着目。和歌山水力電気が保有していた橋本 - 高野山までの免許を1916年に買収[3]の上で1917年に高野大師鉄道〈社長:根津嘉一郎 (初代)[4]を設立し、橋本 - 高野下間の工事に着手した。だが、1922年に大阪高野鉄道・高野大師鉄道は共に南海鉄道と合併[注釈 1][5]。この時、未着工だった高野下 - 高野山間の免許は和歌山水力電気に返還された[6]

その和歌山水力電気は南海鉄道・大阪高野鉄道の合併と相前後して京阪電気鉄道に買収[7]、同時に高野下 - 高野山間の免許も京阪の手に移る。このため南海は、京阪との兼ね合いに加えて建設費や保守管理費に莫大な費用を要する一方で収益の見込みが立たない山岳路線[注釈 2]ということから、直接経営せず子会社を設立の上で運営することに方針転換[注釈 3]。 1925年に高野山電気鉄道が設立され、社長は鉄道省監督局長から南海の専務取締役となった岡田意一が就任し[3]、高野下 - 高野山間の路線免許を京阪から買収[8]。1928年に高野下 - 神谷(現在の紀伊神谷)間が開業、翌年極楽橋駅まで開業し鉄道線が全通、1930年に鋼索線が開業[注釈 4]して高野山上まで鉄道のみで行くことができるようになった。鉄道線の電車としてはデ101形・デニ501形の2形式10両が用意され、この陣容は戦後まで変化しなかった。

当初鉄道線の架線電圧を1500Vとしていたため、600Vであった南海鉄道線との直通運転ができず、接続駅である高野下駅では必ず乗り換えとなっていた。この乗り換えの煩わしさと(建設費用回収の必要から)高額の運賃設定のために、高野山へ登るときは高野山電気鉄道を利用するが、下るときは徒歩などで高野下駅まで出てから電車に乗る客が多くなってしまい、高野山電気鉄道の収益が思うように伸びない事態に陥ってしまった。この解決策として1932年に南海鉄道との相互乗り入れが行われるようになったが、南海鉄道に合わせて架線電圧を600Vに下げ電車も1500V専用から600V専用に改造しなければならなかった。

太平洋戦争時の国家主導による企業統合が進められた時、親会社の南海鉄道は1944年に関西急行鉄道(関急)と対等合併し近畿日本鉄道(近鉄)[注釈 5]となったが、高野山電気鉄道は和歌山県内の統合が不完全な形になったこともあり、統合から外れて単独で残る形で戦後を迎えた。

1947年の南海・近鉄の分離時には高野山電気鉄道の存在を活かし、同社をあらかじめ南海電気鉄道と改称させておき、そこへ近鉄から旧・南海鉄道路線を譲渡するという形が取られた。このため、法人としての南海電気鉄道の設立日は、高野山電気鉄道の設立日である1925年3月28日となっている。

年表

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  • 1911年(明治44年)7月18日:高野電気鉄道に対し軽便鉄道免許状下付(橋本-高野間)[2]。翌1912年に和歌山水力電気に免許譲渡[3]
  • 1924年(大正13年)4月8日:高野登山鋼索鉄道に対し鉄道免許状下付(伊都郡高野村-同郡九度山町間)[10]
  • 1925年(大正14年)
    • 3月28日:高野山電気鉄道として設立[11]
    • 8月1日:京阪電気鉄道より鉄道免許(椎出 - 大門間)譲受[8]
  • 1928年(昭和3年)6月18日:鉄道線高野下 - 神谷間開業[12]
  • 1929年(昭和4年)2月21日:鉄道線神谷 - 極楽橋間開業[13]
  • 1930年(昭和5年)6月29日:鋼索線極楽橋 - 高野山間開業[14]
  • 1932年(昭和7年)4月28日:架線電圧を1500Vから600Vに変更し、南海と直通運転を開始。
  • 1935年(昭和10年)11月5日:鉄道起業廃止(許可)(明治44年7月18日免許 椎出-大門間)[15]
  • 1944年(昭和19年)9月3日:紀伊細川 - 上古沢間で脱線転覆事故が発生し、71名が死亡。
  • 1947年(昭和22年)
    • 3月15日:南海電気鉄道と改称。
    • 6月1日:近畿日本鉄道から旧:南海鉄道の路線および同社に属する事業[注釈 6]を譲渡される。近鉄は南海線関連を管轄する難波営業局を廃止[16]

以後の沿革は「南海電気鉄道」を参照。

運行概要

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1930年9月15日改正時

  • 頻度:鉄道線 - 6時10分から21時30分まで40分間隔、鋼索線 - 6時5分から22時5分まで20分間隔
  • 所要時間:鉄道線 - 30分、鋼索線 - 5分

運賃

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1930年9月15日当時

  • 鉄道線 - 全線10.3kmで96銭
  • 鋼索線 - 全線0.8kmで上り25銭、下り15銭、往復30銭
なお、当時の南海線難波 - 高野下間は54.0kmで1円30銭

駅一覧

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路線 駅名 駅間
キロ
営業
キロ
接続路線 所在地
鉄道線 高野下駅 - 0.0 南海鉄道高野線 九度山町
下古沢駅 1.7 1.7  
上古沢駅 1.6 3.3  
紀伊細川駅 3.0 6.3   高野町
紀伊神谷駅 2.4 8.7  

極楽橋駅 1.6 10.3  
鋼索線 高野山駅 0.8 11.1  

輸送・収支実績

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年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1928 76,284 0 68,996 66,233 2,763 7,754
1929 452,725 0 396,515 180,093 216,422 261,587
1930 502,938 0 377,053 175,942 201,111 275,174
1931 545,619 0 343,919 156,702 187,217 272,021
1932 587,784 0 340,813 149,393 191,420 274,604
1933 583,736 0 376,239 132,533 243,706 279,407
1934 1,223,064[注釈 7] 0 691,346 185,692 505,654 雑損118,844 251,075 5,497
1935 528,242 0 355,026 153,596 201,430 社債償還差益金17,876 雑損償却金102,562 210,743 71,341
1936 596,664 0 401,834 149,630 252,204 雑損償却金177,955 191,122 116,603
1937 617,394 0 424,098 181,395 242,703 184,437 128,520
1939 787,767 0
1941 1,115,750 945
1945 718,408 2,254

鋼索線含む

  • 鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

車両

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高野山電気鉄道デ101形デ101
メーカーカタログ写真。
機器の艤装前で台車は輸送用の仮台車。
  • デ101形(旅客車、後の南海モハ561形)
  • デニ501形(旅客荷物合造車、後の南海モハ561形)

脚注

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注釈

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  1. ^ もっとも、「鉄道王」と呼ばれた根津が相手のため一旦拒絶され、交渉のすえ南海と大阪高野の対等合併で落ち着くことになる(『都市近郊鉄道の史的展開』318頁)。
  2. ^ 実際のところ、子会社の赤字による親会社の経営への悪影響を隠蔽しようとした、出資者対策の一面ということもあった。南海自体は高野山電気鉄道を子会社として公表せず、高野山電気鉄道も赤字経営が(旧南海線の譲受まで)続いていた。
  3. ^ 同じような事例として、近畿日本鉄道(近鉄)の直系前身である大阪電気軌道(大軌)が、伊勢進出の際に参宮急行電鉄(参急)、名古屋進出の際に関西急行電鉄(関急)を設立したものなどがある。
  4. ^ 高野下 - 極楽橋間・鋼索線は京阪から買収した免許(元は1911年に高野電気鉄道が取得)ではなく、1924年に高野登山鋼索鉄道(高野山電気鉄道)が取得した免許で敷設された[9]
  5. ^ 1944年の成立当初から1950年までは「近鉄」の略称は用いず、「日本鉄道」などと称していた。(近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』p.202)
  6. ^ プロ野球チーム(ホークス)を含む。
  7. ^ 弘法大師壱千百年御遠忌大法要が開催

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『株式会社年鑑. 昭和18年版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年7月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ a b c d 『都市近郊鉄道の史的展開』343頁
  4. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第26回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 1922年7月25日合併認可『鉄道省鉄道統計資料. 大正11年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 1922年6月9日譲渡許可「鉄道敷設権譲渡」『官報』1922年6月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 1922年6月9日合併認可『鉄道省鉄道統計資料. 大正11年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ a b 『鉄道省鉄道統計資料. 大正14年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、pp.153,190
  10. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年4月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 4月4日 高野山電気鉄道に改称(届出)『鉄道省鉄道統計資料. 大正14年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年6月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年2月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年7月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 「鉄道起業廃止」『官報』1935年11月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「近畿日本鉄道100年のあゆみ」p.203-204 近畿日本鉄道2010年12月
  17. ^ a b 『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』、408頁(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献

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  • 武知京三『都市近郊鉄道の史的展開』日本経済評論社、1986年