高井几董
1741-1789, 江戸時代中期の俳諧師。夜半亭三世。別号に晋明、高子舎、春夜楼、塩山亭。
高井 几董(たかい きとう、寛保元年〈1741年〉[1] - 寛政元年10月23日〈1789年12月9日〉[1])は、江戸時代中期の俳諧師。幼名は小八郎[1]、前号雷夫[1]、別号に晋明[1]・高子舎[1]・春夜楼[1]・塩山亭[1]・三世夜半亭[1]など。
経歴
編集京都の俳諧師・高井几圭の次男として生まれる[1]。几圭は早野巴人に入門し、京俳壇で名を馳せた人物だった[1]。幼少期から俳諧に親しみ、父の記念集『はなしあいて』に初入集[1]。父の死後、几の字を受け継いで「几董」と号した[1]。
明和7年(1770年)30歳の時、与謝蕪村に入門した[1]。蕪村は夜半亭三世を継がせる意向だったとされる[1]。1772年(明和9年)初撰集『其雪影』刊行[1]、その後も久村暁台らと『あけ烏』『続明烏』を刊行し[1]、中興俳壇の絶頂期をもたらした[1]。安永7年(1779年)には蕪村と二人で大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た[要出典]。天明3年(1784年)の蕪村死後は追悼集『から楢葉』『蕪村句集』を編んだ[1]。天明5年(1785年)、早野巴人の『一夜松』の続編を編もうとした蕪村の遺志を継ぐために江戸に下向し[1]、大島蓼太の推挙により三世夜半亭を継承した[1]。天明6年(1786年)に『続一夜松』前後集を刊行した[1]。天明8年(1788年)京都の大火に見舞われて以来、門人の間を転々とした[1]。寛政元年(1789年)歿、享年49。
作品
編集編著作集
編集- 『日発句集』
- 『初懐紙』
- 『其雪影』
- 『あけ烏』
- 『井華集』
- 『続一夜松』
図書
編集- 高浜虚子編 編『几董全集』ほととぎす発行所〈俳諧叢書 第5編〉、1900年3月。 NCID BA32326828。
- 高浜虚子編 編『几董全集』(4版)俳書堂〈俳諧叢書 第5編〉、1909年8月。 NCID BN15054803。全国書誌番号:41002298。
- 伊藤松宇編 編『新編蕪村几董附合集』博文館、1908年5月。 NCID BN15048298。全国書誌番号:41002479。
- 『晋明集 几董句稿』勝峯晋風解説、遠藤蓼花校、古今書院、1924年4月。 NCID BA53744225。全国書誌番号:43021220。
- 『新雑談集』潁原退蔵校註、天青堂〈古俳書文庫 第4篇〉、1924年5月。 NCID BN12872248。全国書誌番号:43040692 全国書誌番号:59000885。
- 『晋明集 几董句稿』 続編、勝峯晋風解説、遠藤蓼花校、古今書院、1924年7月。 NCID BA53744225。全国書誌番号:43021221。
- 『其雪影・続明烏』潁原退蔵校註、天青堂〈古俳書文庫 第5篇〉、1924年7月。 NCID BN12874844。全国書誌番号:43040693 全国書誌番号:59001814。
- 『遊子行・よし野紀行』潁原退蔵校註、天青堂〈古俳書文庫 第7篇〉、1924年9月。 NCID BN12874301。全国書誌番号:43040695 全国書誌番号:59002394。
- 浅見美智子編 編『几董俳句全集』浅見美智子、1958年10月。 NCID BA59192700。
- 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編 編『几董句稿』 上、天理大学出版部〈天理図書館善本叢書 和書之部 第51巻〉、1979年9月。 NCID BN01543925。全国書誌番号:79031960。
- 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編 編『几董句稿』 下、天理大学出版部〈天理図書館善本叢書 和書之部 第52巻〉、1979年11月。 NCID BN01543925。全国書誌番号:80003572。
- 天明俳書集刊行会編 編『几董集』臨川書店、1991年10月。 NCID BN06961398。全国書誌番号:92013760。
- 『几董発句全集』浅見美智子編校、八木書店、1997年6月。 NCID BA31427852。全国書誌番号:98022071。
代表句
編集- 水に落ちし椿の氷る余寒かな
- 絵草紙に鎮おく店や春の風
- むらさきに夜は明けかかる春の海
- 明(あけ)いそぐ夜の美しき竹の月
- 秋あつき日を追うて咲く木槿(むくげ)かな
- 淋しさの年々高し花芒(すすき)
- かなしさに魚喰ふ秋の夕べかな
- やはらかに人わけゆくや勝角力
- 年かくすやりてが豆を奪ひけり
- 穢多村の裏を逃げ行く清水かな
脚注
編集参考文献
編集- 浅見美智子/編校 『几董発句全集』 八木書店 1997年