飯野 (佐倉市)
飯野(いいの)は、千葉県佐倉市の大字。郵便番号285-0003[2]。
飯野 | |
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北緯35度44分31.4秒 東経140度12分44.7秒 / 北緯35.742056度 東経140.212417度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 佐倉市 |
地区 | 佐倉地区 |
標高 | 24 m |
人口 | |
• 合計 | 223人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
285-0003[2] |
市外局番 | 043[3] |
ナンバープレート | 千葉 |
※座標・標高は飯野公会堂付近 |
地理
編集北は土浮、東は萩山新田、南東は岩名、下根、南は鹿島干拓、南西は臼井田、西は臼井田干拓、北西は飯野干拓、飯野町に隣接している。 飛び地が点在しており、土浮、萩山新田、岩名、飯田に隣接している。
小字
編集小字は以下の通り[4]。
- 新山(しんやま)
- 梅の木(うめのき)
- 岡田(おかだ)
- 高座木(たかざき)
- 花台(はなだい)
- 堀の内(ほりのうち)
- 北の脇(きたのわき)
- 夫田賀作(ふだがさく)
- 久能作(くのうざく)
- 宮の作(みやのさく)
- 島下(しました)
- 小作(こさく)
- 山中(やまなか)
- 坂花(さかはな)
- 畑戸(はたど)
- 北の脇(きたのわき)
- 水神(すいじん)
- 辺田(へた)
- 谷津(やつ)
- 名喰戸(なじきど)
- 城ヶ谷(じょうがや)
- 天王(てんのう)
- 東の上(ひがしのうえ)
- 西新畑(にししんばた)
- 遠見(とおみ)
- 池の上(いけのうえ)
- 見当作(みたらさく)
- 三角(みすみ)
- 新坂(しんざか)
- 町前(まちまえ)
- 人形塚(にんぎょうづか)
- 宮の腰(みやのこし)
- 中尾余(なかびよ)
- 佐倉道(さくらみち)
- 見遠し(みとおし)
歴史
編集江戸期は飯野村であり、下総国印旛郡のうち。佐倉藩領。村高は「元禄郷帳」218石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに248石余。なお、慶長9年の高194石余、反別田14町3反余・畑10町9反余(佐倉市史)。安政4年「領分村高帳」によれば、小物成として夫役永611文余・林下苅金1両1分・茶園栗代永147文・山銭鐚4貫990文が見える(旧佐野家文書/千葉市史史料編2)。文久3年佐倉藩の江戸詰家臣の引揚げに際し、北西部が引揚げ家臣の屋敷地として分与された。この部分をのち明治5年飯野町として分村。また、江戸期には印旛沼に面して殿称河岸があり、佐倉田町の吉田河岸と臼井田町の河岸とを結ぶ舟運に利用された。神社は麻賀多神社、寺院は臨済宗常安寺・真言宗東徳寺(印旛郡誌)。東徳寺の東隣にある観音堂は馬頭観世音を祀り、飯野の観音様と呼ばれ有名で佐倉藩主堀田氏や家臣の信仰も篤かった。明治6年千葉県に所属。明治22年内郷村の大字となる[5]。
年表
編集世帯数と人口
編集2017年(平成29年)10月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
飯野 | 84世帯 | 223人 |
小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
地域 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 佐倉市立内郷小学校[7] | 佐倉市立佐倉中学校[8] |
施設
編集- 飯野公会堂
- 佐倉草ぶえの丘
- JAいんば飯野野菜出荷場
- 東徳寺
- 飯野観音
- 麻賀多神社
交通
編集道路
編集脚注
編集- ^ a b “町丁別人口目次”. 佐倉市 (2017年11月1日). 2017年11月22日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月22日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年11月22日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 1398頁
- ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 92頁
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 93頁
- ^ 佐倉市内小学校通学区域 - 千葉県佐倉市公式ウェブサイト、2014-03-03閲覧。
- ^ 佐倉市内中学校通学区域 - 千葉県佐倉市公式ウェブサイト、2014-03-03閲覧。