飯塚国五郎

日本の陸軍軍人

飯塚 国五郎(國五郎、いいづか くにごろう、1887年明治20年)5月25日[1][2] - 1938年昭和13年)9月3日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

飯塚国五郎

経歴

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群馬県北甘楽郡富岡町(現・富岡市)出身[1][2][3][4]。農業・飯塚理八の長男として生まれる[1]。富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業[1][2][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる[1][5]

1919年(大正8年)11月から1920年(大正9年)11月までシベリア出兵に従軍し[1]、ニコリスク・ウスリースキー(現・ウスリースク)付近の戦闘で戦功を挙げ、功五級金鵄勲章を受章した[6]。1920年8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第66連隊中隊長に就任[1]。陸士本科生徒隊中隊長を経て、1925年(大正14年)5月、近衛歩兵第4連隊付となり、同年7月、法政大学配属将校に就任[1]。1927年(昭和2年)7月、歩兵少佐に進み、1929年(昭和4年)8月、東京府立実科工業学校(現東京都立墨田工業高等学校)配属となる[1]。1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級し明治大学予科配属に転じた。1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に進み、同年10月、歩兵第101連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]武漢作戦に参加し、1938年8月、徳安で戦闘中に戦死し、陸軍少将に進級した[1][2][3]。明治大学では和泉の予科校庭に留魂碑を建立し、毎年予科主催の慰霊祭を行い、その遺徳を偲んだ[7]。墓所は多磨霊園

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸海軍総合事典』第2版、15頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』48頁。
  3. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』289頁。
  4. ^ 『遺徳顕彰故人年鑑 第1輯 昭和14年』(大日本頌徳会編纂部、1939年)4頁
  5. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』271、289頁。
  6. ^ 『遺徳顕彰故人年鑑 第1輯 昭和14年』(大日本頌徳会編纂部、1939年)6頁
  7. ^ 『図録明治大学百年』 138-139頁
  8. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
  9. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
  10. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
  11. ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 明治大学創立100周年記念事業委員会・歴史編纂委員会『図録明治大学百年』明治大学、1980年。

外部リンク

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