顧品珍
顧 品珍(こ ひんちん)は清末民初の軍人。滇軍(雲南軍、雲南派)の有力指揮官。一時は唐継尭を駆逐して、雲南省の統治権を手中にした。字は筱斎。
顧品珍 | |
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プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年) |
死去: |
1922年(民国11年)3月20日 中華民国雲南省宜良県 |
出身地: | 清雲南省雲南府昆明県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 顧品珍 |
簡体字: | 顾品珍 |
拼音: | Gù Pǐnzhēn |
ラテン字: | Ku P'in-chen |
和名表記: | こ ひんちん |
発音転記: | グー ピンヂェン |
事跡
編集護国戦争での活躍
編集1904年(光緒30年)、日本へ軍事留学する。東京振武学校を経て、陸軍士官学校第6期騎兵科で学んだ。1908年(光緒34年)、卒業した。帰国後は雲南陸軍講武堂の兵学教官に就任した。顧品珍は、革命派の思想に傾倒し、中国同盟会にも加入している。
1911年(宣統3年)10月30日、蔡鍔・唐継尭ら新軍軍人を中心とする雲南の革命派が蜂起し、雲南軍政府を樹立した。顧品珍もこれに参加し、参謀部第3部長に任命された。まもなく、謝汝翼率いる第1梯団に属し、四川省の革命派支援のために遠征した。1913年(民国2年)秋、雲南陸軍第2師師長代理に、翌年3月、第1師師長に就任した。
1915年(民国4年)12月25日、蔡鍔・唐継尭らが護国軍を組織して護国戦争(第三革命)を開始する。顧品珍は蔡率いる護国軍第1軍第3梯団団長として四川省に出征した。このとき、顧は蔡を良く補佐し、勇敢な戦いぶりで軍功をあげた。1916年(民国5年)6月6日の袁世凱死後、護国軍の改組に伴い、顧品珍は駐川滇軍第6師師長に異動する。同年12月、陸軍中将に昇進した。
唐継尭への兵変
編集1917年(民国6年)4月28日、顧品珍は北京政府から陸軍第14師師長に任命された。しかし同年に唐継尭が護法運動に呼応して靖国軍を組織すると、8月に靖国軍第1軍軍長に任命された。その後、顧は靖国軍第2軍軍長の趙又新とともに、川軍(四川軍)の劉存厚らと戦った。しかし1920年(民国9年)9月、顧は成都で川軍に撃破され、趙も瀘州で戦死した。
雲南へ撤退した顧品珍は、1921年(民国10年)2月、唐継尭に対して兵変を起こし、昆明を占領して唐を駆逐した。これにより顧は滇軍総司令に推挙され、雲南の統治者となった。顧の政治的立場は、唐と異なり孫文への支持を強めるものであった。同年12月には孫文の北伐を支持して、翌民国11年(1922年)1月、雲南討賊軍総司令に任命されている。
しかし、同年2月から唐継尭が雲南奪還の軍事行動を開始する。顧品珍もこれを迎撃したが、3月20日、宜良で唐に味方する匪賊に急襲され、戦死した[1]。享年40。1923年(民国12年)、孫文は顧に陸軍上将の位を追贈した。
注
編集- ^ 李希泌「顧品珍」は、銃による自決としている。
参考文献
編集- 李希泌「顧品珍」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国軍政府
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