青山北町アパート

東京都港区の団地

青山北町アパート(あおやまきたまちアパート、青山北町団地)は、東京都港区北青山3丁目にあった都営住宅団地1957年昭和32年)から1968年(昭和43年)にかけて建設[1][2]された。

建て替え前の「青山北町アパート」
(2011年4月)

東京都の再開発事業「北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト」により2018年より建て替えが開始され[1]、翌2019年に20階建ての都営北青山三丁目アパートが竣工した[1]

概要

編集

所在地は港区北青山3丁目4ほか[1]。1957年(昭和32年)から1968(昭和43)年にかけて、4階から5階建てのアパートが25棟(586戸)が建設された[1][2]。全戸が都営住宅[3]である。敷地は青山通り国道246号)の北側裏手に広がり、約4ヘクタールに及ぶ[4]

各戸の面積は32 - 52平方メートル[2]間取りは2DK - 3DKで[2]、建て替え前の2011年時点の管理戸数は376戸であった[2]。また建て替え前は、いずれの建物にもエレベーターは設置されていなかった。

2016年に東京都が青山北町アパートの建て替えと再開発計画を発表、計画には商業施設などの整備も盛り込まれた [5][6]

団地の敷地内には、港区立青山保育園[7]や訪問看護ステーションなどが設置されている。

東京府青山師範学校

編集
 
青山師範学校跡の記念碑

青山北町アパートの所在地は、師範学校東京府立旧制中学校など、いくつかの学校の跡地である。

初めは1900年明治33年)、東京府師範学校[注釈 1]、および東京府師範学校附属小学校[注釈 2]が、それまでの小石川区竹早町からこの地(当時の赤坂区青山北町5丁目)に移転・開校した。1908年(明治41年)には東京府青山師範学校、および東京府青山師範学校附属小学校とそれぞれ改称し、1936年(昭和11年)に下馬町(現在の世田谷区)に移転するまで[注釈 3]当地にあった。

師範学校と同附属小学校の移転後には、いくつかの府立新設中学校等が一時的に仮校舎としてこれを使用した[8]1937年(昭和12年)から翌々年までは東京府立第十中学校(東京都立西高等学校の主な前身)が、1939年(昭和14年)から翌年までは東京府立青年学校教員養成所が置かれた。さらに、1940年(昭和15年)には東京府立第十五中学校[注釈 4]東京都立青山高等学校の主な前身)がここに開設された。

しかしながら、諸々の学校によって使われたこれら校舎・施設は、1945年(昭和20年)5月の東京大空襲によって焼失し、第十五中学校も被災により当地での教育が続けられなくなり、終戦後も当地に戻ることはなかった。

かつて学校があった青山北町アパートの青山通り側入り口付近には、東京府師範学校(東京府青山師範学校)の同窓生によって1972年(昭和47年)に建てられた記念碑が存在する。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 現在の東京学芸大学の前身の一つ。東京府師範学校(のちに東京府青山師範学校から東京第一師範学校に改称)の卒業生には、作家・南洋一郎箕田源二郎、サッカー選手・山田午郎、歌人・若林牧春、中国研究者・加藤虎之亮らがいる。
  2. ^ 東京府師範学校附属小学校の卒業生には、政治家・原島宏治、作曲家・團伊玖磨戸田邦雄、作家・中村雨紅、俳人・清水基吉、発明家・ドクター中松らがいる。
  3. ^ この青山師範学校の東横線沿線への移転の背景には、東急電鉄創業者の五島慶太による資金援助を伴う強力な勧誘があった。
  4. ^ 著名な卒業生には、男爵・團琢磨の孫で作曲家の團伊玖磨などがいる。

出典

編集
  1. ^ a b c d e 北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト”. 東京都都市整備局. 東京都. 2020年5月6日閲覧。
  2. ^ a b c d e 都営住宅団地一覧 東京都都市整備局、2011年5月29日閲覧。
  3. ^ 都営住宅団地一覧 東京都都市整備局、平成23年5月29日閲覧
  4. ^ どうなる都営青山北町アパート 港区議会議員 小斉太郎ウェブサイト、2011年5月29日閲覧。
  5. ^ 「青山北町アパート」建て替えへ 都が事業方針発表、商業施設も”. シブヤ経済新聞 (2016年1月22日). 2020年5月6日閲覧。
  6. ^ 再開発対象エリアの「都営青山北町アパート」(2019年3月撮影)”. シブヤ経済新聞. 2020年5月6日閲覧。
  7. ^ 青山保育園 港区、2024年10月1日閲覧。
  8. ^ 青山の歴史 - 東京府青山師範学校 青山表参道商店会ウェブサイト、2011年5月29日閲覧。

関連項目

編集

外部リンク

編集