阿知波城
愛知県岡崎市の城。雨山城とも。雨山合戦の舞台。
阿知波城(あちわじょう)[1][2]、または雨山城(あめやまじょう)[3]・雨山村古屋敷(あめやまむらふるやしき)[2]・雨山砦(あめやまとりで)[4]は、三河国雨山(現愛知県岡崎市雨山町東アチワ(旧額田郡額田町)にあった日本の城。阿知波氏(のちに雨山奥平家)の居館[5]。「雨山砦跡及び雨山合戦地」として岡崎市指定史跡[6]。
阿知波城 (愛知県) | |
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別名 | 雨山城・雨山村古屋敷・雨山砦 |
城郭構造 | 居館・山城・砦 |
天守構造 | なし |
築城主 | 阿知波定基? |
築城年 | 天文(1543年以前)[1] |
主な城主 | 阿知波定直、阿知波定助、奥平貞良 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 不明 |
指定文化財 | 市指定史跡 |
位置 | 北緯34度53分52.6秒 東経137度22分59.0秒 / 北緯34.897944度 東経137.383056度座標: 北緯34度53分52.6秒 東経137度22分59.0秒 / 北緯34.897944度 東経137.383056度 |
地図 |
概要
編集矢作川水系乙川の最上流部にある支流・雨山川の渓谷最奥部に位置する。矢作川流域では、村落規模の国人らの城館跡として「古屋敷」の伝承地や地名が残っており[7]、阿知波城(雨山村古屋敷)も阿知波氏に始まる雨山奥平氏の居館と見なされているが、東アチワ地内での正確な遺構位置は解っていない[2]。ただし館跡と見られる削平地や、中世の宝篋印塔などが地域各所に見られると言う[2]。
築城時期は『額田町史』では1543年(天文12年)以前としているが[1]。『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ(東三河地区)』 は、存続期間を1506年(永正3年)から1590年(天正18年)とする[3]。初代城主は尾張国知多から雨山に移った阿知波定基といわれ、元亀年間(1570年-1573年)より奥平氏(雨山奥平氏)を名乗ったとされる[2]。
三河の国人衆が今川氏に対して起こした反乱三河忩劇における戦闘の1つである1556年(弘治2年)の雨山合戦では、奥平貞勝・貞能親子に呼応した阿知波定直・阿知波定助・奥平貞良らが籠り、今川方の菅沼定村らを迎撃した[8]。なお阿知波城の雨山砦と言う別称は、この雨山合戦の際に造られた防御施設を示しているとする見解がある[4][9]。
脚注
編集- ^ a b c 額田町教育委員会 1986 p.146
- ^ a b c d e 新編岡崎市史額田資料編編集委員会 2010 p.300
- ^ a b 文化財図書普及会編 1997 p.237
- ^ a b 平井ほか 1979 p.320
- ^ 黒屋 1987
- ^ 岡崎市教育委員会 (2020年9月8日). “岡崎市指定文化財目録”. 岡崎市. 2021年4月14日閲覧。
- ^ 文化財図書普及会編 1997 p.194
- ^ 新編岡崎市史額田資料編編集委員会 2011 pp.154-157
- ^ a b 岡崎市教育委員会 (2020年9月8日). “雨山砦跡及び雨山合戦地”. 岡崎市公式HP. 2021年4月14日閲覧。
参考文献
編集- 額田町教育委員会 1986年11月1日「中世城址一覧」『額田町史』p.146
- 黒屋直房 1987『中津藩史』国書刊行会
- 文化財図書普及会編 1997『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ(東三河地区)』 (愛知県教育委員会編 2001『都道府県別・日本の中世城館調査報告書集成』第10巻〈中部地方の中世城館4-愛知-〉所収)
- 「額田の諸城」pp.194-197
- 「雨山城」 p.237
- 新編岡崎市史額田資料編編集委員会 2010年3月31日「雨山村古屋敷」『新編岡崎市史 額田資料編 Ⅰ』p.300
- 新編岡崎市史額田資料編編集委員会 2011年3月31日「戦国織豊時代」『新編岡崎市史 額田資料編 Ⅱ』pp.154-157