安倍 兄雄(あべ の あにお/えお)は、平安時代初期の公卿中納言阿倍広庭の曾孫。无位・阿倍道守の子[3]官位正四位下東山道観察使

 
安倍 兄雄
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 大同3年10月19日808年11月10日
官位 正四位下東山道観察使
主君 桓武天皇平城天皇
氏族 阿倍朝臣
父母 父:阿倍道守[1]
兄弟 兄雄、弟雄、男笠
吉人[2]
テンプレートを表示

経歴

編集

延暦19年(800年従五位下叙爵され、翌延暦20年(801年少納言に任官する。桓武朝末の延暦25年(806年)3月に中衛少将に任ぜられる。

同年3月に従兄弟藤原乙牟漏所生の平城天皇が即位すると、5月に一挙に四階昇進して従四位下に叙せられる。さらに同年閏6月に新たに観察使制度が導入されると準参議山陰道観察使に任ぜられて公卿に列する。その後、東山道畿内の観察使も歴任した。なお、観察使在職中には、東山道諸国の正税公廨稲について、戸口数に準じて増減して出挙したい旨上表し許されている[4]。また、国司交代の円滑化を目的に、不与解由状に前任者と後任者の言い分をそれぞれ書いて上申することについての提案を行っている。

また、右兵衛督左近衛中将と武官も兼帯し、左中将在職中の大同2年(807年)10月に発生した伊予親王の変では、左兵衛督巨勢野足と共に150名の兵士を率いて親王邸を包囲した[5]。一方で、当事件により伊予親王親王を廃された際に、天皇の怒りが凄まじく敢えて諫めるものは誰もいない中、兄雄のみが言葉を尽くして諫争した。諫争の成果はなかったものの、論者には筋を通したと評された[6]

大同3年(808年)正月に正四位下に叙せられるが、同年10月19日病気により卒去。最終官位は東山道観察使左近衛中将正四位下春宮大夫

人物

編集

文事の才能はなかったが武芸を得意とし、生まれつきを愛好した。まっすぐな性格で節度を堅く守り、歴任した官職では公平で清廉と賞賛されたという[6]

官歴

編集

注記のないものは『日本後紀』による。

系譜

編集

脚注

編集
  1. ^ 『尊卑分脈』
  2. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 47頁。
  4. ^ 『日本後紀』大同2年9月28日条
  5. ^ 『日本後紀』大同2年10月30日条
  6. ^ a b 日本後紀』大同3年10月19日条
  7. ^ a b c d e f g h i j 『公卿補任』
  8. ^ 『日本逸史』115
  9. ^ 『近衛府補任』

参考文献

編集