巨勢野足
巨勢 野足(こせ の のたり)は、平安時代初期の公卿。姓は朝臣。巨勢氏の嫡流。参議・巨勢堺麻呂の孫で、左中弁・巨勢苗麻呂の長男。官位は正三位・中納言。勲等は勲三等。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 天平勝宝元年(749年)[1] |
死没 | 弘仁7年12月14日(817年1月5日) |
官位 | 正三位・中納言 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 巨勢朝臣 |
父母 | 父:巨勢苗麻呂 |
兄弟 | 野足 |
経歴
編集延暦8年(789年)従五位下・陸奥鎮守副将軍に叙任されて以降、延暦10年(791年)には坂上田村麻呂らと共に征夷副使に任ぜられ、のち陸奥介・下野守を兼ねるなど、桓武朝中盤は蝦夷征討を担当する。また、延暦14年(795年)には越階の昇叙により正五位下となっている。
延暦19年(800年)兵部大輔に任ぜられて以降、桓武朝末から平城朝にかけて、中衛少将・左衛士督・左兵衛督・左近衛中将と京官の武官を歴任し、大同2年(807年)の伊予親王の変では左近衛中将・安倍兄雄と共に左兵衛督として150名の兵を率いて伊予親王邸を包囲している[2]。またこの間の延暦21年(802年)従四位下、大同3年(808年)従四位上と昇進している。
大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴って正四位下に昇叙され、翌大同5年(810年)3月に蔵人頭が設置されると、左衛士督・藤原冬嗣と共に初代蔵人頭に任ぜられている。同年9月に発生した薬子の変に際しては、固関使として鈴鹿関に派遣され、まもなく参議に中務大輔を兼ね公卿に列した。また乱での功労により勲三等の叙勲も受けた。こののちも嵯峨天皇に重んぜられて順調に昇進し、弘仁2年(811年)従三位・右近衛大将、弘仁3年(812年)には中納言に任ぜられ、太政官にて右大臣・藤原園人、中納言・藤原葛野麻呂に次ぐ席次を占めた。
弘仁7年(816年)12月1日に正三位に叙せられるが、同月14日薨去。享年68。最終官位は中納言正三位。
人物
編集官歴
編集注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 延暦8年(789年) 10月21日:従五位下。10月23日:陸奥鎮守副将軍
- 延暦10年(791年) 7月13日:征夷副使
- 延暦11年(792年) 9月27日:兼陸奥介[3]
- 延暦14年(795年) 2月:正五位下[3]
- 延暦15年(796年) 10月27日:下野守
- 延暦19年(800年) 7月:兵部大輔[3]
- 延暦20年(801年) 11月:従四位下[3]
- 延暦21年(802年) 4月25日:兼内蔵頭[3]
- 延暦23年(804年) 1月24日:兼下野守
- 延暦25年(806年) 2月16日:左衛士督(下野守兼帯)。4月18日:左兵衛督。5月24日:兼左京大夫[3]
- 大同2年(807年) 8月14日:兼侍従[3]
- 大同3年(808年) 正月25日:従四位上。5月14日:兼近江守。11月4日:春宮大夫
- 大同4年(809年) 4月13日:正四位下。4月14日:左近衛中将[4]、止春宮大夫
- 大同5年(810年) 正月11日:止近江守[4]。3月10日:蔵人頭[3]。9月11日:参議[3]、左中将如元[4]。9月16日:中務大輔。10月2日:兼備中守
- 弘仁2年(811年) 6月1日:従三位、右近衛大将、止中務大輔[4]。7月23日:兼備前守
- 弘仁3年(812年) 正月12日:中納言、止備前守[4]
- 弘仁6年(815年) 正月10日:陸奧出羽按察使
- 弘仁7年(816年) 12月1日:正三位