長谷川憲治
長谷川 憲治(はせがわ けんじ、1946年(昭和21年)8月31日 - )は、日本の銀行家。きらやか銀行相談役。公益財団法人山形美術館監事。社会福祉法人山形いのちの電話理事長。山形県米沢市出身。
はせがわ けんじ 長谷川 憲治 | |
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生誕 |
1946年8月31日 山形県米沢市 |
出身校 | 慶應義塾大学経済学部 |
職業 | 銀行家 |
配偶者 | あり |
来歴・人物
編集山形県立米沢興譲館高等学校[2]、慶應義塾大学経済学部卒業後、松下電器産業(現:パナソニック)に入社。その後、長谷川家の家業である電気関連企業「マルタニ」に転じ、社長に就任する。
1983年、殖産相互銀行(1989年普銀転換、殖産銀行に商号変更)社外監査役に就任する。以降、常務等を歴任。2000年、専務米沢支店長を務める折、荘内銀行との合併構想(ミライオン銀行)に距離を置いていたこと、創業家出身であることが勘案され、引責辞任した叶内紀雄頭取の後継としてトップに就任した。
2007年には、殖産銀行と山形しあわせ銀行の合併に伴い、誕生したきらやか銀行頭取に就任した。しかし、翌年の経営陣刷新によって、非常勤相談役に退いた。
2003年から旧知の弁護士である古沢茂堂からの勧めで、山形いのちの電話に関わり始め、2018年11月に死去した古沢の後を受け、理事長に就任した[2]。
長谷川家
編集長谷川一族は、江戸時代中期以降、山形商業の基幹産業となった「紅花」を取り扱い、最上川水運や日本海航路による京阪神との貿易により財を成し、山形市を代表する豪商となった。また、山形藩御用商人として市内外商家の指導的立場となり、明治維新後の帝国議会開設に際しては、一族の宗長である丸長・長谷川家の当主、長谷川直則(吉郎次)は、第一回貴族院議員に選出された[3]。
丸長・長谷川家が衰退をたどった後は、山形市三日町の丸山・長谷川家(長谷川吉茂山形銀行頭取の祖)と同市十日町の丸谷・長谷川家(本稿、長谷川憲治の祖)の両長谷川家が、財界の重鎮として、明治・大正期の山形県経済の発展に貢献をした。
1938年、4代目長谷川吉内が死去したため嫡孫である吉祿が吉内を襲名した(嫡子はすでに病死していた)。そして、この5代目吉内が殖産相互銀行第5代社長となり憲治を養嗣子とした[3]。
山形まるごと館 紅の蔵
編集マルタニの本社社屋として使用されてきた蔵屋敷が、観光物産施設「山形まるごと館 紅の蔵」として改装され、2009年12月6日にオープンした[4]。
略歴
編集- 1965年(昭和40年)- 山形県立米沢興譲館高等学校卒業。
- 1969年(昭和44年) - 慶應義塾大学経済学部卒業後、松下電器産業入社。
- 1974年(昭和49年) - マルタニ入社、常務取締役。
- 1977年(昭和52年) - 同社長。
- 1983年(昭和58年) - 殖産相互銀行社外監査役。
- 1988年(昭和63年) - 同監査役。
- 1991年(平成3年) - 同常務取締役。
- 1992年(平成4年) - 同常務取締役企画部長委嘱。
- 1993年(平成5年) - 同常務取締役総合企画本部長委嘱。
- 1997年(平成9年) - 同常務取締役庄内本部長委嘱。
- 1998年(平成10年) - 同常務取締役資産査定室長委嘱。
- 1999年(平成11年) - 同専務取締役米沢支店長委嘱。
- 2000年(平成12年) - 同頭取。
- 2005年(平成17年) - きらやかHD会長。
- 2007年(平成19年) - 合併、きらやか銀行頭取。
- 2008年(平成20年) - 同相談役。
脚注
編集- ^ 『ニッキン縮刷版 37版 2000年』 日本金融通信社 2001年。
- ^ a b “同窓会ニュース この人・山形いのちの電話理事長・長谷川憲治さん”. 米沢興譲館同窓会 2019年1月5日閲覧。
- ^ a b 殖産相互銀行編 『殖産相互銀行六十年史』 殖産相互銀行、 1974年。
- ^ “「山形まるごと館」がオープン/中心街活性化の拠点に”. 山形コミュニティ新聞. (2009年12月11日) 2014年5月10日閲覧。
外部リンク
編集ビジネス | ||
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先代 叶内紀雄 |
きらやか銀行(旧殖産銀行)頭取 :2000年 - 2008年 |
次代 粟野学 |