長基連
日本の明治時代後期~昭和時代前期の男爵・政治家・実業家。旧加賀藩年寄本多政以次男で、長家33代当主(加賀八家長氏13代当主)
長 基連(ちょう もとつら[1]、1890年(明治23年)6月16日[2] - 1954年(昭和29年)6月6日[2][注 1])は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・本多恭[2]。
経歴
編集旧加賀藩家老・本多政以の二男として生まれる[2][3]。男爵・本多政樹の弟[1][4]。従兄の男爵・長克連の死去に伴い家督を継承し、1901年(明治34年)6月7日、男爵を襲爵した[2][3][5]。その後、前名・恭を[1]基連と改名した。
1915年(大正4年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[6][7][8]。1917年(大正6年)三井銀行に入行する[6]。以後、龍王山金山取締役、第一機罐保険社長[1]、東邦物産会頭などを務めた[6]。
1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[9][10]、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した[6]。さらに、1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[11][12]、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[6]。
人物
編集親族
編集- 長家
- 先妻・竹子(与倉東盛二女、富田松彦養女)[2]
- 後妻・与之子(1902年 - ?、よしこ、行山義光の妹[1]、行山義一の三女[2])
- 長女・喜美子(富田松彦の養女)[2]
- 二女[4]
- 三女[1]
- 長男・昭連[2](石川県鳳珠郡穴水町名誉町民)[13]
- 二男[1][4]
- 親戚
脚注
編集注釈
編集- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』77頁では6月9日。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第14版 上』チ11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成 下巻』90頁。
- ^ a b 『大日本華族大鑑』52頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第13版 下』チ11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月8日閲覧。
- ^ 『官報』第5378号、明治34年6月8日。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』77頁。
- ^ 『東京帝国大学一覧 従大正7年至大正8年』学士及卒業生姓名 法学士 政治学科130頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月8日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正4年 至大正5年』東京帝国大学、1910年、学士及卒業生姓名122頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、34頁。
- ^ 『官報』第3871号、大正14年7月18日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、57頁。
- ^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
- ^ 巻頭コラム 一筆啓上 穴水町長石川宣雄「穴水町名誉町民に」。
参考文献
編集- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 長克連 |
男爵 長家第2代 1901年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |