長助法親王
後伏見天皇の七男。英彦山座主。園城寺長吏。円満院。高千穂家の祖。無品。法禅院
長助法親王(ちょうじょほっしんのう、元応2年(1320年)- 延文6年/正平16年2月8日(1361年3月15日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての法親王。
長助法親王 | |
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続柄 | 後伏見天皇皇子 |
身位 | 法親王 |
出生 |
元応2年(1320年) |
死去 |
延文6年/正平16年2月8日(1361年3月15日) |
配偶者 | 宇都宮信勝女(宇都宮頼綱の姪) |
子女 | 浄有 |
父親 | 後伏見天皇 |
母親 | 正親町守子 |
役職 | 園城寺長吏 |
経歴
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父は後伏見天皇。母は従三位正親町(藤原)守子(権大納言正親町実明女)。安仁親王・助有法親王とも称される。光厳天皇・光明天皇らの異母兄弟で、同母兄弟に承胤法親王・亮性法親王・璜子内親王(章徳門院)がいた。
近江国園城寺の尊悟入道親王に師事したのち、豊前守護・宇都宮頼房(宇都宮通房の子)に招かれ如法寺に移った。のち霊仙寺へと移り、英彦山座主となった。正室は宇都宮頼綱の姪で、英彦山神宮社家・高千穂家の祖[1]。